プロレスリングに恋をして

根本外三郎

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二章

かわいがりとセコンド

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 それからの日々は慌ただしく過ぎ去っていった。一日の中で覚えなければならない事、やらなければならない事、出来なければならない事が多すぎて毎日が非常に濃密なのである。特に様々な種類のちゃんこ鍋の作り方をあまり説明が上手くない相模川から教えてもらう事は面倒だったし、体重を増やす為に毎日の夕食毎にどんぶり飯のお代わりを三杯も課される事も苦痛だったが、中でも一番堪らなかったのはスパーリングでの「かわいがり」だった。勿論「かわいがり」をしてくる相手は初日の岡田のように社長であるストロング西川ではない。ストロング西川は初日だけ練習生である達也や岡田の監督をしたがそれ以降はスポンサー探しや興行を行う為の会場探しで忙しいらしく、それが終わってから毎日練習に参加する為に達也や岡田のスパーリングの指導をする事は少なかったからだ。だから何を隠そう、「かわいがり」のスパーリングを達也に行ってくるのは生意気な柴田や切れたら怖い相模川だったのである。だがそもそもスパーリングを行う組み合わせが岡田の場合にはサバイバル原口やミスター・ホーが相手をして、残った柴田と相模川が達也と組み合わされた事に問題があったのだろう。あるいは岡田の潜在能力の高さを知った団体としてはここで看板レスラーである二人を当てて岡田に舐められないようにしようと云うような意図があったのかもしれないが、どう考えても格闘技の素人である達也の相手には多少の手加減をしてくれるだろうサバイバル原口とミスター・ホーを当てるべきだろう。柴田と相模川は先輩である事を嵩に懸けて達也が何度タップしてもお構いなしに様々な技を極め続けるのである。関節技等全く知らず使いこなせない達也は為す術もなく二人の思うがままとなった。

 スパーリングの中での「かわいがり」と云っても様々なしごき方があったが、一番印象的だったのが柴田による片腕で鼻柱を擦り付けて痛めつける技だった。うつ伏せになっている達也の上に乗っかかった柴田が達也をコントロールした状態で達也の鼻柱を柴田自身の片腕を使ってゴシゴシと磨くようにして擦り付けるのである。それは鼻が潰れるような強さでもあるし、鼻柱から柴田の片腕をどけようとして自身の手を使ってもがくように上にいる柴田へと振り回すと、その手を掴んで柴田が腕ひしぎ逆十字固めなんかを極めてしまうのだった。これははっきり言って練習でも何でもなく単なる嫌がらせでしかなかったが、達也が全く抵抗出来ない事を良い事に柴田は調子に乗っていたのだろう。しかしこれにより達也の脳裏にはしっかりと復讐心が植え付けられ、いつか自身がプロデビューを迎える暁に柴田が対戦相手だった場合には柴田をあの手この手を使い徹底的にボコボコにした上でKOしてやろうと思ったものである。ともかく達也は非常に屈辱と悔しさを感じながら来る日も来る日も柴田に立ち向かっていった。

 そんな柴田とはまた違ったやり方の厄介な「かわいがり」をしてくるのが相模川だった。先ず相模川は元十両力士であっただけに格段に体格が良く、身長は岡田とほぼ変わらない188cmの長身であり尚且つ体重が120キロもある所謂スーパーヘビー級の肉体の持ち主だった。通常そこまで体重があると俊敏な動き等出来ようもないはずなのだが、相模川は大相撲の現役時代には突っ張りを駆使して土俵を駆け回る取り口だった事もあってか、スパーリングでも自らが率先して動き回り体重の軽い達也を面白い位に自由に扱って攻めるのだった。体重が未だ八十キロにも満たない達也としては堪ったものではなかったが、相模川はその巨体で尚且つ大相撲出身者の癖にスパーリングのような五分間の闘いでも全くばてる気配を見せない程のスタミナを保持しているようで達也は敵ながらあっぱれの思いであった。ただそんな相模川にテイクダウンを取られた後に強引に寝技に持っていかれた上で身体を圧迫され続けられるのは耐え難い辛さがあった。相模川は大相撲出身でまだプロレス経験も浅い為に関節技をほとんど修得しておらずそれ故スパーリングにおいては常にテイクダウンを取った上で自らの体重を使って圧迫する事で相手を攻め続けるのである。下で押しつぶされている形の達也は呼吸が十分に出来ずに息も絶え絶えの状態となり、ひたすら悲鳴を上げた。

 一方でそんな毎日悲鳴を上げ続けている達也とは異なり岡田はぐんぐんとレスリングの技量を向上させているようだった。どうやら達也が柴田や相模川とのスパーリング中にちらっと横目で見る限りでは岡田は日が経つ毎にサバイバル原口やミスター・ホー等からタップを奪う回数が増えてきているし、その場合に極め技として使っている関節技も三角締めやチョークスリーパー等のアマレスでは使われていないような技を使用しているようだった。要は岡田は達也とは異なり明らかにプロレスラーの風格を持ち始めているのである。またそれはスパーリング以外での練習でも同様で岡田はつい先日150キロのバーベルを持ち上げて周囲の度肝を抜いたのである。そうすると現金なもので団体側は岡田の事を金の卵のように見做してそれ以降は練習生であるのにも拘わらず岡田に「お小遣い」と称した給料を特別に支払うようにもなったようだった。

 達也はその事を就寝する前のベットで横たわっている際に岡田から「沢本君も社長からお小遣いを貰っているよね?」等と言われて知り、「いや何ですか?それ?貰ってませんけど」と返せば岡田は「えっ本当‼俺は今月から月四万円をお小遣いとして社長から貰っているよ」と白状したものだった。達也はそれを聞いて酷く驚いたものの、ストロング西川にそれについて問い詰める勇気を持ち合わせていないだけに歯噛みをして悔しがるだけだったが、金の力とは恐ろしいものでそれ以降岡田との間に妙な溝が出来た事は確かだった。けれどもそんな溝が出来ようとも岡田は達也とは違って順風満帆な練習生生活を送っている事は事実で、それ故近いうちにプロデビューをさせると云う話が出てきているこの頃であった。

 またもう一つ岡田との差が付いた達也にとって苦痛だったのがこの浦和アカデミックプロレス独自の練習生に課される課題だった。そもそも浦和アカデミックプロレスは団体名に「アカデミック」と銘打っている通り、それはプロレスラーは身体と精神が強い事は勿論として頭が良くなければならないと云う社長であるストロング西川の信念によったものだった。それでなんでもストロング西川はその信念により練習生には毎月一冊の小説を読む事を課し、そしてその読書感想文を書いて提出する事を求めてくるのである。しかもその一冊の小説は飽くまでもストロング西川が選定するのであって練習生である岡田や達也は唯々諾々としてそれを読むのみである。どうやらストロング西川に言わせれば小説を読む事は人間感情の機微に敏感になる事に繋がり、それはリングの上でプロレスと云う格闘エンターテイメントを演じるプロレスラーにとって大きな武器になると云うのだった。だが早い話がそれは国語の教師でもない癖にはっきり言って迷惑な行為である。岡田はこの事に関してどう思ったか知れないが、達也は毎日の練習で肉体がヘトヘトになっているのにも拘わらず、夕食のちゃんこを食べ終えた後から就寝の時間までストロング西川に課された小説を読まなければならない事が何よりも苦痛だった。

 しかもそのストロング西川が毎月課してくる一冊の小説と云うのが最近の流行作家の作品ではなく明治時代の著名な文学者等の古臭い小説が多く、そのセンスには辟易したものである。ただ特に達也が苦手だったのは昭和三十年代に文壇で華やかに活躍したある作家の作品だった。結局その作家はノーベル文学賞が取れなかった事に落胆した末に日本の未来を憂いて割腹して死んでしまったが、達也はその経歴は兎も角としてその作家の理屈っぽくて何が言いたいのだかよく分からない独特の文体が好きではなく、その作家の作品が課された月には大きな落胆をしたものである。中でもその作家の同性愛の葛藤を描いた初期の作品を課された時には余りの難解な表現と文体の回りくどい鬱陶しさから、最低でも読書感想文は原稿用紙の三枚は書く事を約束されていたにも拘わらず、達也は「正直主人公の気持ちには全く感情移入出来なかったし、只管気持ちが悪かった」とだけ書いて提出すると、ストロング西川は「どのページのどう云った表現や描写に感情移入が出来なかったのか、詳しく書くのが礼儀ってもんだろうがぁ、馬鹿野郎‼」と突然怒鳴ってその場でヒンズースクワットを千回も行う事を命令してきたので参ってしまったものだった。達也にとっては浦和アカデミックプロレスの練習生生活は肉体的にも精神的にもただただ艱難辛苦の日々である。
やがて季節は夏から秋へ移り変わり九月を迎えた。そしてこの九月の中旬に後楽園ホールで行われる興行で遂に岡田のプロデビュー戦が決まったのである。そもそもこの団体は旗揚げから既に十年以上の年月が経っていたが両国国技館や横浜文化体育館等の何千人から一万人弱ぐらいを収容出来る大規模の箱を使う事は滅多になくほとんどの興行を北沢タウンホールや新宿FACE等の収容数千人以内の小規模の箱を使っていた。故に今回の興行で収容数が千人~二千人以内の後楽園ホールを使う事はなかなかの冒険と言えたが、元十両力士の相模川を獲得出来た事やサバイバル原口がベスト・オブ・ハイパー・ジュニアで近年活躍していた事で浦和アカデミックプロレスの名が再度売れてきている事もあり、この流れとなった模様である。
 
 またこれは今回だけの事ではなく興行が近付いてくると毎回そうなのだったが、練習生の立場である岡田と達也はその興行の開催の二週間程前になると浦和アカデミックプロレスの裏方である事務員と共に浦和区の商店街やありとあらゆるスーパー等へ興行の宣伝用のポスターを張りに行かされる事がままあった。理由は単純でそれは裏方である事務員の数が少ないから補充されたと云うものだったが、一方で商店街やスーパーの人達に「プロレスラーの存在」をアピールする為に行かされたと云う側面もあった。具体的に言えば岡田と達也によくヨーロッパ系のプロレスラーが使用するツーショルダーのタイツを着用させた上で直接店の人間に「ポスターを張ってくれないかどうか」と交渉させるのだった。それは言わずもがな社長であるストロング西川の発案による命令でストロング西川曰く「それを着て行く事によって人前に立っても緊張しない度胸が付くし、プロレスを知らない店の人にもプロレスをアピール出来るから一石二鳥じゃねぇか」等と言うのだったが、岡田も達也も堪ったものではなかった。最低限公然わいせつ罪防止の観点から上裸になってしまうショートタイツのコスチュームではない事は許せるものの、体重が100キロを超えていて上腕二頭筋等の発達が著しい岡田はともかくとして、未だ体重が八十キロを超えたばかりの達也はそのツーショルダーのコスチュームが全く様にならないのでただただ恥ずかしかったものである。だがそれも確かにストロング西川が言うように商店街や色んなスーパーをその姿で回っている内に段々と違和感もなくなり、また店の人に「兄ちゃん面白い格好しているなぁ。いいぞ、そのポスターを張ってやるよ。頑張れよ」なんて言われると満更でもなくなるのが何とも不思議であった。

 こうして迎えた当日だったが当初懸念されていた客入りに関してはほとんどの席が埋まっており難なく赤字は免れた模様らしかった。どうやら千五百人以上もの観客が入っているようで前売りチケットも相当売れた事からも最近の浦和アカデミックプロレスの人気上昇が知れたものである。達也はリングの設営が始まると同時に会場入りをしてグッズ販売の準備や付き人として付いているミスター・ホーの身の回りの世話をした。団体のロゴや選手のサインが記載されたTシャツ等が載った机を会場のロビーの目立つ位置にセッティングしたり、ミスター・ホーが試合前に行うタックル等の練習に付き合ったりするのである。かと思えば外国人レスラー側の控室へ行って彼らにマッサージを施す等あっちへ行ったりこっちへ来たりと目が回る忙しさで達也は閉口した。

 ところがそんな慌ただしさの真っ只中で新たな二つの出会いがあった。先ず一つ目の出会いはこれまで一度も寮にも練習場にも姿を見せていなかったカンフーマスクとの出会いである。リングの設営が一通り終わった後で達也が雑巾を使ってそのリングのマットを拭いていると突然例の覆面を被った状態のカンフーマスクがコーナーポストを利用してムーンサルトプレスの練習をしているのである。それはコーナーポストの頂点からバク天をした後に倒れ込んでいる相手レスラーに覆い被さってフォールを奪う技だったが、ルチャリブレ系のプロレスを全面否定するストロング西川の方向性からこの団体ではこの技を使うレスラーは皆無だったはずだ。ゆっくりとした足取りでふら付き乍らバク宙をしようとしており、明らかに今までの試合の中でその技を出した事がない事が明白であった。でもってそのタイミングを見計らった後にひっそりと達也はカンフーマスクの下へと走り「よろしくお願いします。六月に浦和アカデミックプロレスに入りました。練習生の沢本達也です」と名乗るとカンフーマスクはニ三秒、不自然な間を置いた末に「ヨロシク。マダアンタハハタチヲコエテイナイデショ。ワカイヨネ。ガンバルンダヨ」等と言ったかと思えばすぐさま最前のムーンサルトプレスの練習へと戻り、それっきり達也の存在は眼中にはない様子だった。

 これに達也はその言葉の節々に中国人が日本語を話す時に露になる独特のイントネーションを感じ取った為に「やっぱりこの人って中国人なんだろうなぁ。そりゃカンフーマスクって名乗ってるからにはな」等と思ったが、後日練習の合間にこの後楽園の興行の日に付き人として付いていたミスター・ホーに聞いたところ「いや坂本さんは日本人だって話だよ。そう社長も言っていたし。何でも池袋に住んでいるみたいだよ」と言うのである。ただこれは覆面レスラー全般に言える事なのかどうか分からないが、カンフーマスクはこれ以前にもこれ以後にも全く寮や練習場に姿を現す事がないので普段どこにいるのだか、何をしているのだかが全く分からず非常に謎に包まれた存在であった。
さてもう一方の出会いはこの団体に所属しているリングアナウンサーである島村香織との遭遇だった。それはリングのマットの上を一通り雑巾で拭いた後に雑巾を片付けようとして控室へと向かおうとリングを降りたところで鉄柵の前の最前席に座っていた島村香織が達也に近付いて来て挨拶をしてきたのである。島村香織は身の丈も165cm程あり細身でスタイルが良く、面貌も色白で鼻筋も通っており一般的には美人に分類される容貌である。おまけに達也好みの黒髪で雰囲気が何処となく二十四時間テレビ等で流れる国民的応援ソングを歌っていた有名な女性歌手にも似ている。故に少し惚気てしまった達也は島村香織から「練習生の沢本達也君でしょ。社長から以前あなたの事を聞いていたから知ってたの。私はリングアナウンサーの島村香織です。これからヨロシクね」等と言われたが、咄嗟に自己紹介の言葉がすんなりと出て来ず「よろしくお願いします」と答える事が精一杯だった。緊張していたのである。けれどもそれからの達也は島村香織と会話出来た事が嬉しくてルンルン気分で残りの仕事をこなすのだった。

 やがて順次客席は埋まっていき満員御礼とも言えるような状況で興行はスタートした。達也は第一試合直前まで外国人用の控室と日本人用の控室を行ったり来たりして雑務をこなしていたが、第一試合が始まる直前に岡田のセコンドとしてリングに上がった。岡田がこの試合でサバイバル原口を相手にプロデビューを飾るからである。リングの上から眺める後楽園ホールの観客席が達也にはその一つ一つがダイヤモンドが煌めくが如くに光って見える。それはおそらく観客が携帯電話やデジタルカメラ等でこちらをフラッシュ撮影している事もあるだろうが、岡田の事を未来の浦和アカデミックプロレスのスターだと期待して眺める熱い視線も関係しているのだろう。そしてその中にあってリングの中でレフェリーを交えて仁王立ちをしている二人が達也にも誇らしく思えるのだった。故に彼はこの輝かしい瞬間をいつの日か当事者として味わう為にも普段の練習により力を入れようと決意を改めるのだった。

 島村香織の選手紹介が終わりゴングが鳴ると早々に二人はリングの中央での取っ組み合いへと移った。そもそもこの団体は他団体とは異なり一般的なプロレスのスタイルであるロックアップをしてから片方をロープへと投げ入れると云うような前提を全否定するようなファイトスタイルを売り物にしていた。即ちそれは張り手の応酬であり、ストンピング以外の蹴り技であり、グレイシー柔術にも負けない程の関節技や寝技の多用だった。より分かりやすく言えばプロレスと云うよりも凶器等の道具を使わない喧嘩と言った方がしっくりくるかもしれない。他団体と同様に試合の前に事前にどちらが勝つか負けるかと云うような打ち合わせも浦和アカデミックプロレスでは行われていたと思うが、それがどの程度厳密なものだったのかはこの時の達也には与り知らないところだった。しかし当事者の二人はそんな達也の憶測等全く意に介する事なく張り手で相手の顔を殴りつけ、テイクダウンを取ったらすぐさま寝技や関節技へと移行しようとしていた。傍から見ているとそれは野良犬の喧嘩の如き荒々しさがある。やがて試合開始から五分頃岡田にチャンスが訪れた。この時もつれ合って寝技へ移行していた二人だったが岡田がサバイバル原口の片足を取りヒールホールドを極めかけたのである。それは一瞬の事でこれにより試合は決着が着くかに見えたが、すぐさまサバイバル原口はもう片方の足で岡田の顔面を何度も蹴り上げ隙を開けてからピンチを切り抜けたのだった。そして素早く立ち上がると茫然としている岡田の背中に思いっきりローキックを浴びせた。ベテランの底力が垣間見えた瞬間だった。こうして試合展開はこの時を分岐点として一気にサバイバル原口に優勢な流れへと移った。サバイバル原口の掌で踊らされているが如く岡田は籠絡され始めたと言っても過言ではないだろう。手も足も出ないと云った状態になってしまったのである。それ以降岡田が張り手を見舞おうが、ローキックで蹴り上げようが、それがサバイバル原口には一切届かないのである。結局試合開始から九分三十四秒頃にサバイバル原口は岡田をチョークスリーパーで締め落として勝ち名乗りを上げた。

 試合終了後達也は足早に岡田へと近付いて介抱した。場内の観客も負けたとは言えサバイバル原口に健闘した岡田に対して惜しみなく拍手を送っている。ただ当の岡田はそんな事には全く気付いておらずチョークスリーパーの影響の為に茫然と気を失っているだけである。慌てて達也が思いっきり岡田の頬を張れば「うーん、水をくれぇ」と零したので達也が水の入ったペットボトルを渡したところ岡田はそれを一飲みした為達也は一安心した。そして間もなく第二試合が始まるので一旦二人はリングを降りて日本人用の控室へと向かった。岡田はまだ意識が朦朧として一人で歩けなかった為に達也が岡田に付き添って歩く形となったが、正確に192cmある岡田の身体を肩で支えて進むのは非常に難儀であった。そんなリングから控室の花道までも観客は惜しげもなく岡田に対して拍手を送るのであった。

 その後しばらく達也は控室で岡田の面倒を見てから再度リングへと戻ると場内は騒然となっていた。試合は第三試合となっていたのだったが、なんと相模川が一方的に相手の外国人レスラーを張り倒して圧倒していたのである。それは最早公開リンチと云う表現がしっくりくる程で相模川はサミング(相手の目に指を入れる反則行為)も駆使したのか、外国人レスラーの目蓋は餃子のように腫れ上がり潰れかかっていた。やがて試合を裁くレフリーはこれ以上やれば命に関わると判断したのだろう、相模川のKO勝ちを宣言して試合を止めた。外国人レスラーはすぐさまその判定に抗議したがレフリーは判定を覆さなかった為に納得出来ない外国人レスラーはタオルを掴んだ左手で自身の目蓋を抑えつつ、右手で相模川に対し中指を立てて「ファックユー」を決めている。それを受けて場内はより騒然とした。この場面から達也はおそらくこの試合は通常のプロレスの範疇を超えて相模川が一方的にセメント(試合の取り決めや打ち合わせを無視して真剣勝負となってしまう事)を仕掛けたのだろう、と思った。セメントマッチは力道山から続く日本のプロレス界でも隠然と残っているしきたりだったが生で目撃するのは今回が初めてである。その当事者である相模川は相手から「ファックユー」をされても動揺する事は一切なくどこか飄々としてリングを降りて行った。その背中からは「飽くまでもやられる奴が悪い」と言わんばかりのオーラが漂っている。

 それから暫くミスター・ホーとカンフーマスクのセミファイナルが始まった後も場内はどことなく落ち着かないムードが支配していたが、それをカンフーマスクの四次元殺法とも言える華麗な動きが物の見事に打ち崩した。カンフーマスクは浦和アカデミックプロレスの「殴る、蹴る、極める」と云った喧嘩スタイルを踏襲しつつもリング際でミスター・ホーを相手にプランチャを出したりして観客の度肝を抜いた。普段浦和アカデミックプロレスの道場には全く顔を見せないのにプロレスセンスのいい非常に計算された試合運びをしているのである。中でも先程練習していた成果が出たのかコーナーポストからカンフーマスクがバク天をし仰向けになっているミスター・ホーに向かってムーンサルトプレスを放った時は場内はどよめきとも言える興奮の坩堝とも化した。しかし相手のミスター・ホーもそれに負けじと応戦し、カンフーマスクを組み伏せた後にカンフーマスクの覆面を引き裂こうとして悪戦苦闘している。覆面レスラーにとって正体がバレてしまう事は一巻の終わりである。そしてこのプロレス特有の名場面に観客の興奮は頂点へと達した。これに激高したカンフーマスクはエルボーをミスター・ホーに打ち込んで防いだが、ミスター・ホーは強引にその腕を抱え込んでカンフーマスクの背後に再度回ってチキンウィング・フェースロックを極めた。試合開始から十一分三十六秒後こうして沸きに沸いた試合は終了した。

 続いてストロング西川が出場するメインイベントが始まったが、セミファイナルで観客のテンションは高揚し切った後だったのでどことなく盛り上がり切らないムードの中で試合は進んだ。ただ百戦錬磨のストロング西川はその事を敏感に察知しており、時折普段の試合では一切見せないラリアット等を繰り出して観客の注意を引こうとしていた。相手のヨーロッパ出身の外国人レスラーも技と技の合間に両手を振り上げて拍手を求めるジェスチャーをしている。故にその甲斐もあってか試合が進むにつれて段々と観客の声援がヒートアップするのだった。その山場はストロング西川が外国人レスラーに卍固めを極めた場面で場内は「西川コール」が響き渡った。その為に興奮した達也もセコンドとしてすかさず「社長~!」と叫んだほどである。ただそんな美味しい所を逃さず持って行くストロング西川だったが結果的には試合開始から十三分四十秒頃に外国人レスラーに足4の字固めを極められて呆気なくタップしてしまうのだった。因みにこの技はお互いの暗黙の了解がないと掛からない典型的なプロレス技の一つである。恐らくこの試合は相模川がセメントを仕掛けた第三試合とは異なり事前に取り決めた勝ち負けの通りに試合が進行したのだろう。それでもこの二人がお互いに殴り合い、蹴り合い、極め合った事実に嘘はない。途中で片方がノックダウンする事なく予定通りに試合が進行する事はそれだけ互いの潜在的な格闘能力が高いと云う証明でもある。プロレスは決して八百長なんかではないのだ。

 メインイベント終了後はストロング西川の十八番であるマイクパフォーマンスが始まった。しかし身体を極限まで動かし切った後だっただけにその言葉と言葉の合間で「ゼェ、ゼェ」と息を切らしているので歯切れの悪さを感じさせた。そう言えばこの日の興行が始まる前の控室で達也はストロング西川が鏡の前に立って真剣な表情を作ってマイクを片手に何か口パクで話していたのを目撃していた。不思議に思った達也が「社長、何をしているんですか?」と問えば、ストロング西川は顔を紅潮させて「うるせぇ、あっちへ行ってろ」と怒鳴って来たものである。今から思えばそれはこの時のマイクパフォーマンスの練習であったのだろうか。そんな事を考え出すと普段の練習で鬼神のような表情をしながら自分の事をしごいてくるストロング西川が達也には何だか愛おしくも思えてくるのである。やがてストロング西川のマイクパフォーマンスが一通り終わった後は全選手が会場のロビーに集合して握手会やサイン会が行われた。達也も付け人として付いているミスター・ホーの近くに佇み、先輩レスラー達がどのようにファンと触れあっているのかを観察した。いつもは生意気なキャラクターである柴田等も気さくにファンとの記念撮影に応じている。達也はその柴田のギャップに少々驚いてしまったのだった。ところで激闘の舞台であったリングは組み立てる時と同様に解体する時も専門の業者に任せていたので、達也はこうしていられたのだろう。握手会やサイン会が終わってお客さんが完全に会場を離れた事を確認した後浦和アカデミックプロレスの一同がマイクロバスに乗って後楽園ホールを後にしたのは午後十時を過ぎた頃合いだった。興奮とハプニングに満ちた長い一日が漸く終わろうとしていた。


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