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終章 附属高校への内部進学

第5話 エピローグ。

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 勇次郎は附属中学時代のジャージに着替えて部屋に戻ってくる。だが、杏奈は微動だにすることはなく、いまだ土下座の真っ最中。ただ勇次郎は知らなかった、この状態、杏奈にとってご褒美とも言えるくらいで、けっして苦しい姿勢ではない。なにせ、ベッドからはうっすらと勇次郎の匂いがするからだ。

 勇次郎は事態の打開をするべく、あれこれ考えた結果、土下座をしている杏奈の側に腰掛けることにした。こうするのが一番だと思っただろう。

「お姉ちゃん、とにかくさ、顔上げてくれないかな?」
「怒ってませんか?」
「怒ってないから」
「本当?」
「本当だってば――って、ちょっとお姉ちゃん」

 すると急に顔を上げる、よく見ると杏奈の目は充血していて、目の下に隈らしきものまでこしらえているではないか? ふりなどではなく、本当に泣いていたとしか思えない状況だった。

「なによぅ」

(やば、拗ねてるお姉ちゃん、ちょっと可愛いかも)

 勇次郎は少しだけ萌えた。勇次郎は、自分の枕に近いところへ座ると、枕を退ける。

「こっち頭向けて寝てくれる?」

 もぞもぞと匍匐前進ほふくぜんしんするかのように、杏奈はにじり寄ってくる。勇次郎の傍でころんと転がり、仰向けになった。

 そんな彼女の後頭部を持ち上げると、ヘッドボードに右肩を預けて平行に腰を下ろし胡坐をかき、太股あたりに彼女の頭を乗せた。ちょうど、杏奈の顔を横から見下ろす感じになる、もちろん杏奈からも勇次郎の顔が見えている。

「あのね、お姉ちゃん」
「なによぅ」

 まだ拗ねてる杏奈。そんな彼女を見て、ふにゃりと微笑む勇次郎。

「お姉ちゃんがさ、僕の名字を浜那覇のままにした理由、なんとなくわかったんだ」
「そう?」
「今日ね、同じようなことを、鈴子お姉ちゃんがね――」

 今日あったことを勇次郎は説明する。なぜ、去年一年だった鈴子が生徒会長になったのか。生徒会長になる必要があった理由など。事細かに、嘘偽りなしに。

「それは酷い脅し文句です」

 口調が戻ってきたことで、やっと杏奈は落ち着いてきたように思える。

「うん。僕もそう思った。けどさ、僕たちが附属高校に上がる前、去年から準備をしてくれてたなんて……。あれだけ一緒にいた鈴子お姉ちゃんなのに、気づかなかった。鈴子お姉ちゃんだって、母さんと静馬さんが仲がいいとか、もしかしたら再婚するかもだなんて、予想もできなかったはずだし、まぁ、おばさんに母さんが相談してたかもしれないんだけどね。お姉ちゃんはさ」
「なにかしら?」
「附属高校のさ、生徒会選挙があった去年の冬、静馬さんから母さんのこと、聞いてた? 僕は全く気づかなかったし、母さんも話すことはなかったんだよね」
「……そうね、パパもそんな話はしなかったわ」
「そうなるとさ、そんな時期から僕のことを考えてくれてた鈴子お姉ちゃんってさ、凄いを通り越して、尊敬しちゃうよね」
「そうですね。わたしも、生徒会長執務室あのへやの存在は知っていました。けれど、わたしには理事長室があるから、欲しいとは思わなかったの。でも、勇くんの避難場所の確保までは考えていなかった。それも、去年の段階だなんてね。敵いませんね、まだまだ、鈴子先輩には……」

 杏奈は勇次郎の左手を取って、寝返りをうつように顔を彼のお腹に寄せる。彼に気づかれないように、彼の匂いを嗅ぎつつ、深呼吸までする。

 しばらく勇次郎も杏奈も一言も、どちらからも話さなかった。勇次郎は、杏奈の髪を気がつけば右手で撫でていた。今日、入学式で見た彼女の髪と違って、ゆるくふわふわになっていた髪。手触りは柔らかく、帰りの車で麻乃と鈴子に挟まれたときに感じた香りとも違う、良い香りが立ち上ってくることに気づいたはずだ。

 勇次郎の誕生日に聞かせてくれた、杏奈の生い立ち。彼女が背負ったものの大きさ。杏奈も本当ならば、勇次郎に東比嘉を名乗らせて、姉弟きょうだいであることをカミングアウトしたいだろう。学校でも仲良くしたいだろう。

 ただそれをぐっと押さえて、学校でニアミスしても目を合わすことすら我慢する。自分を律して、あるべき姿を崩そうとしない。それは勇次郎が附属中学時代に憧れた杏奈の姿であり、彼女がありたいと思っている姿でもある。

 姉のいる文庫が羨ましく思ったときもあった。文庫がいながら、勇次郎を本当の弟のように、猫すら被らずありのままの姿を見せてくれていた鈴子にも、嬉しく思っていた。今こうして、戸籍上の義姉ができ、義弟になってみて思う。

 これまで縁子を支えてきたけれど、今後彼女を支えているのは静馬だ。静馬が縁子を支えてくれるその代わりに、静馬が心配してきた杏奈を、支えるのは勇次郎じぶんの番になったのではないかと。

 こうして感じられる温かさが、欲しかった姉弟の温かさなのか。この『してあげたい』と思う衝動が、義弟である想いなのか。よくわからないけど、ひとつひとつ理解していきたい、勇次郎はそう思っていただろう。

 静寂を破るべく、先に動いたのは杏奈だった。彼女は、勇次郎の手を頰にあてながら、下から彼を見上げる。その瞳はそう、鈴子が無茶振りをするときのものによく似ていた。だから嫌な予感がしたのだ。

「勇くん」
「な、なんでしょ?」

 じっと見つめる目が潤んでいるように思える。まるでそれは、アニメや漫画で見た、ラブコメのワンシーンのように。

「わたしのこと、嫌いにならないでね?」
「だ、大丈夫だから」
「じゃぁ、わたしのこと、好き?」
「す、好きだよ」
「本当に?」
「本当だってば」
「本当に本当?」
「本当に本当だってば」
「じゃ、愛してる?」
「あいし――あのねぇ、お姉ちゃん、僕たち姉弟なんだけど」
「愛してる?」
「いやその、うん」
「パパは言ってくれたのに」
「え?」
「わたしのこと愛してるって」
「それはほら、うーん……」
「んもう、けちな勇くん……」
「ごめんなさい」

 ▼

「――ということが昨日あったんですよ」
「あぁ、それは素の状態杏奈お嬢様です。わかりやすくいうならそう、……ですね、『お酒に酔っていない』という例えで使用される『白面しらふ』、という状態でございますね」
「えぇ?」
「杏奈お嬢様は、小さなころから、その。ものすごぉく、甘えん坊な気質がございますので」
「まじですか?」
「はい、まじでございます」

 附属高校内部進学、始業式兼入学式が昨日あって、今日で二日目。授業開始となる朝、今度は間違えてはいけない。そろそろ駐車場というあたりで、勇次郎はあらためて麻乃に確認する。

「あのさ麻乃お姉さん」
「なんでございましょう?」
「今朝はもう、直接教室に行っても大丈夫だよね?」
「あ、あぁ、そうでございました」

 麻乃は手帳のようなものを、どこからか取り出して確認する。

「そうですね、今朝は何もないと思われます。わたしは一度、生徒会役員室へ顔を出してからまいりますけどね」
「そっか、それならいいんだ。もし今日も汗だくになったら、消臭剤かけたくらいじゃ間に合わないかもしれないし」
「……勇次郎様」

(あれ? 『勇ちゃん』じゃない)

 普段なら屋敷の中や、車の中の場合、勇次郎のことを『勇ちゃん』と呼ぶはずなのだが。おまけに声のトーンが若干低めだったりする。

「それならそうと言ってくださいますか? クリーニングに出す場合に備えて、スペアを用意してあるのですよ? それに」
「それに?」
「杏奈お嬢様が、こっそり持ち出して、コレクションにしてしまったらどうするおつもりですか?」
「へ?」
「もうお忘れですか? 昨夜、こっそり勇次郎様のお部屋に忍び込んでおられた杏奈お嬢様のことを」
「……あ、そういえば」
「杏奈お嬢様はですね、鈴子ちゃんのように、『目的のためには手段を選ばない』のですよ?」
「いやまさか、ねぇ」
「杏奈お嬢様が、附属中学の生徒会長になった理由、お聞きと存じますが?」
「うん。僕が二回目のコンテストに出たとき、生徒会長だった鈴子お姉ちゃんが、僕の頰に――あ」
「欲望に忠実でございますよ、本来の杏奈お嬢様は」
「まじですか」
「はい、まじでございます」

 そう応えた麻乃の目は、笑っていなかった。注意報ではなく、警報。デレも積もればヤミと化す。狼被りの反動は、超ハイカロリーなほどに、激甘なのかもしれない。

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