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第一章 わたしもね、弟が欲しかったの
第3.5話 もうひとつある杏奈の部屋で。
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「――いってらっしゃい、お姉ちゃん」
「は、はいっ、いってまいります」
父静馬が再婚して、縁子という優しそうな義母と、勇次郎という愛らしい義弟ができて、嬉しさと興奮のあまり、杏奈は昨夜、一睡もできなかった。
静馬が本業で忙しく、仕事場から身動きが取れない上に、祖父の龍馬は、理事長業務を杏奈に丸投げ状態。仕える主人不在のような状態に陥った、事実上の杏奈の執事である宗右衛門。彼が運転する車に乗り、目的地へ向かおうとしている。
後部座席に座る彼女と、見送ってくれている勇次郎を隔てるように、リアガラスが自動的に上がっていく。
(あぁあああ……、この窓まで、わたしと勇きゅんを阻むのですね)
口には出さなくとも、そう思ってしまった杏奈。
「では、まいります」
「はい……」
徐々に遠ざかっていく勇次郎の姿を目で追うために、回れ右して膝立ちになり、リアガラス越しに彼の姿を追う杏奈。彼は杏奈の乗る車が見えなくなるまで、踵を返すことなくこちらに手を振りながら、見送り続けてくれている。実に心優しい義弟だと、彼女は思っただろう。
「お嬢様、行儀がよろしくありませんぞ?」
「わ、わかっていますっ」
それでも杏奈は勇次郎が見えなくなるまで、目を離すことができないでいる。彼の姿が徐々に遠くなっていくと同時に、寂しさを感じているときだった。なんと、車が道を曲がってしまったではないか?
「宗っ、な、なんで曲がってしまうのですかぁあああ?」
杏奈は宗右衛門のことを宗と呼んでいるようだ。
「いえ、その、曲がりませんと、ビーチに出てしまいますもので……」
確かに、あの道をまっすぐ行くと、ビーチに出るだろう。その方角には、龍馬の住む別宅があるのは間違いない。だが、その場所に用事があるわけでもない。今日の目的地は、東浜大学の校舎。致し方なしとしか言いようがない状況だった。
医学部教授である静馬のいない研究室に資料を取りに行き、理事長である祖父龍馬のいない理事長室へ行く。そこで、アポイントを取ってきたお客さんと会うことになっていた。
救命救急センター勤務の静馬は、正直教授の仕事ができていない。おまけに、龍馬は名前だけの理事長状態であり、全ては杏奈に任せてしまっている。龍馬は現在、理事長室を使っていないため、理事長室の奥にある龍馬の私室はほぼほぼ、杏奈のものとなっていたのだ。
難しい判断は、補佐として同席してくれる宗右衛門が耳打ちをしてくれる。もし、杏奈が失態をやらかした場合は、その場で宗右衛門があしらい、後日静馬と龍馬が責任を持つことになっている。だからか、案外のびのびと執務を消化できているようだ。
ややあって、車は大学校舎へ到着し、職員専用駐車場のある裏手へ、そこの一番建物寄りがこの車の駐車スペースになっている。運転席から宗右衛門が先に出てぐるりと半周し、杏奈のいる側のドアを開ける。杏奈が出たのを確認すると鍵の閉まる音がする。
この場所は休みの日も含め、何度も訪れたからか杏奈も慣れたもの。校舎へ入って、そのまま職員用エレベーター前に立つ。『ぽん』と今風の音が鳴り、ドアが開くと先に宗右衛門が乗り、『開く』ボタンを押したままにし、事故のないように杏奈を乗せる。該当階へ到着すると、宗右衛門が半首出して辺りを確認、その後杏奈が降りて、まずは静馬の研究室へ。
ここは、静馬も一年に一度入るか入らないか。実際、用事がないことから、立ち入ることもないのだろう。年に数回、麻乃は長い休みに入ると整理整頓をし、月に一度は掃除に入ってくれている。それ以外のときは施錠されており、こうして杏奈が鍵を開けない限り誰も立ち入ることはないという。
その分、書類やファイルなどの分類がしっかりなされていて、放り出されている資料も見当たらない。静馬の机の上は、電話以外ものが置かれていない、埃も見えないほど綺麗なもの。まるで、博物館の展示室のようにも見えるのだ。
宗右衛門と手分けをして資料を集めると、しっかりと施錠を行う。来た道を戻るようにエレベーターホールへ向かう。途中、すれ違った職員はその場に立ち止まり、壁際に寄って会釈をする。杏奈は、足を止めることなく、右手を上げて職員に応える。その際『お疲れ様です。ありがとう』と、静かに声をかける。この辺りが、杏奈の評判を地味に上げている一因でもあったようだ。
先ほど乗ってきたエレベーターに再度乗ると、今度は最上階へ向かう。最上階は大会議室と、理事長室しかない。降りて左は大会議室、右が理事長室である。宗右衛門が早足で理事長室前に出ると、鍵を開けてドアを押す。かるくきしむ音をたてて、重たそうなドアが開くと、そこには二人掛けの長椅子がひとつ、ひとり掛けの小さな椅子が二つの応接間があり、その奥にもうひとつドアがあって、そこはの鍵は、今現在は杏奈と麻乃しか持っていない。
「お時間になりましたら、お呼びいたします」
「ありがとう。何かあったらこちらからもお願いするわね」
「はい。かしこまりました」
応接間の横には給湯室もあり、そこで備品などの確認や準備を始める宗右衛門。
杏奈はそのまま鍵を開けて、奥の私室へ。ドアが開くと、某製薬会社製、杏奈お気に入りの部屋用芳香剤が柔らかく香る。週に一度は麻乃がここへ来て、掃除をしてくれている。同時に、杏奈の几帳面な性格もあって、常に綺麗に維持されている。
この私室の右壁にはドアがあり、その奥はなんとバスルームになっている。龍馬はその昔、ここを使っていたとき、暇があると今のように海に出ていて、釣りや素潜りをしていたこともあった。海の状況によっては、汗だくになったり、潮風で全身がべたつくこともあった。だから、シャワーが浴びられるようにと、用意されたらしい。
正直、杏奈は運動をするので、夏場は汗が出やすい体質だった。正直言えば、この部屋のバスルームは助かる。着替えもそれなりに用意してある。第二の杏奈部屋になっているのだった。
窓際に置かれた、ちょっと古めのどっしりとした机。これはかなりの年代物らしく、まだ龍馬がここで執務をしていたころからあったものらしい。
椅子は最新のもので、杏奈の部屋に同じものがある。机の上にはノートパソコンとタブレットが一台ずつ。電源を入れると、某ゲーミングパソコンのメーカーロゴが浮かぶ。高性能な機材は、余裕を生み出す。杏奈のように、多少無理な使い方をしてもついてきてくれる。これは自転車でも同じ考えを持っていた。
オペレーティングシステムが全て立ち上がると、壁紙にはなんと、今年三連覇したときの『病み系魔法少女』の姿をした、恥ずかしそうな表情の勇次郎が両手でマイクを持つ姿がそこにあった。もちろん、横にあるタブレットも、スマホの待ち受けも勇次郎の写真だったりするのだ。
「……勇きゅん」
この部屋は、諸処の事情により(杏奈が補修させたとも言うが)かなり優秀な素材で防音がなされている。だからこんなつぶやきをしても、外で待機している宗右衛門の耳に入ることはない。杏奈はここで音楽をかけることもないのと。宗右衛門は何かあればノックで知らせてくれるので、多少気を抜いても困ることはない。
勇次郎からもらったばかりのソーシャルネットワークサービス、ビームのアカウントを確認。メッセージが来てないのを見てしょんぼりする。再度、勇次郎の写真を見直して、充電開始。
しばしの間勇次郎の写真を堪能すると、両の手のひらで頰をぺちぺちと軽く叩く。細かい予定はすでに、宗右衛門が立てていてくれるが、メールをチェックし、今日のアポイント件数をある程度把握しておく。
彼女は父、静馬からお小遣いをもらっていない。その代わりこうして、龍馬や静馬の名代で面談などを代行するのが、彼女のアルバイトのひとつになっている。
頑張ってお屋敷に帰ったなら、勇次郎が待つ生活があるというだけで、以前よりも頑張れる自分がいることを再確認していた。
「さて、今日も一日頑張りますか」
「は、はいっ、いってまいります」
父静馬が再婚して、縁子という優しそうな義母と、勇次郎という愛らしい義弟ができて、嬉しさと興奮のあまり、杏奈は昨夜、一睡もできなかった。
静馬が本業で忙しく、仕事場から身動きが取れない上に、祖父の龍馬は、理事長業務を杏奈に丸投げ状態。仕える主人不在のような状態に陥った、事実上の杏奈の執事である宗右衛門。彼が運転する車に乗り、目的地へ向かおうとしている。
後部座席に座る彼女と、見送ってくれている勇次郎を隔てるように、リアガラスが自動的に上がっていく。
(あぁあああ……、この窓まで、わたしと勇きゅんを阻むのですね)
口には出さなくとも、そう思ってしまった杏奈。
「では、まいります」
「はい……」
徐々に遠ざかっていく勇次郎の姿を目で追うために、回れ右して膝立ちになり、リアガラス越しに彼の姿を追う杏奈。彼は杏奈の乗る車が見えなくなるまで、踵を返すことなくこちらに手を振りながら、見送り続けてくれている。実に心優しい義弟だと、彼女は思っただろう。
「お嬢様、行儀がよろしくありませんぞ?」
「わ、わかっていますっ」
それでも杏奈は勇次郎が見えなくなるまで、目を離すことができないでいる。彼の姿が徐々に遠くなっていくと同時に、寂しさを感じているときだった。なんと、車が道を曲がってしまったではないか?
「宗っ、な、なんで曲がってしまうのですかぁあああ?」
杏奈は宗右衛門のことを宗と呼んでいるようだ。
「いえ、その、曲がりませんと、ビーチに出てしまいますもので……」
確かに、あの道をまっすぐ行くと、ビーチに出るだろう。その方角には、龍馬の住む別宅があるのは間違いない。だが、その場所に用事があるわけでもない。今日の目的地は、東浜大学の校舎。致し方なしとしか言いようがない状況だった。
医学部教授である静馬のいない研究室に資料を取りに行き、理事長である祖父龍馬のいない理事長室へ行く。そこで、アポイントを取ってきたお客さんと会うことになっていた。
救命救急センター勤務の静馬は、正直教授の仕事ができていない。おまけに、龍馬は名前だけの理事長状態であり、全ては杏奈に任せてしまっている。龍馬は現在、理事長室を使っていないため、理事長室の奥にある龍馬の私室はほぼほぼ、杏奈のものとなっていたのだ。
難しい判断は、補佐として同席してくれる宗右衛門が耳打ちをしてくれる。もし、杏奈が失態をやらかした場合は、その場で宗右衛門があしらい、後日静馬と龍馬が責任を持つことになっている。だからか、案外のびのびと執務を消化できているようだ。
ややあって、車は大学校舎へ到着し、職員専用駐車場のある裏手へ、そこの一番建物寄りがこの車の駐車スペースになっている。運転席から宗右衛門が先に出てぐるりと半周し、杏奈のいる側のドアを開ける。杏奈が出たのを確認すると鍵の閉まる音がする。
この場所は休みの日も含め、何度も訪れたからか杏奈も慣れたもの。校舎へ入って、そのまま職員用エレベーター前に立つ。『ぽん』と今風の音が鳴り、ドアが開くと先に宗右衛門が乗り、『開く』ボタンを押したままにし、事故のないように杏奈を乗せる。該当階へ到着すると、宗右衛門が半首出して辺りを確認、その後杏奈が降りて、まずは静馬の研究室へ。
ここは、静馬も一年に一度入るか入らないか。実際、用事がないことから、立ち入ることもないのだろう。年に数回、麻乃は長い休みに入ると整理整頓をし、月に一度は掃除に入ってくれている。それ以外のときは施錠されており、こうして杏奈が鍵を開けない限り誰も立ち入ることはないという。
その分、書類やファイルなどの分類がしっかりなされていて、放り出されている資料も見当たらない。静馬の机の上は、電話以外ものが置かれていない、埃も見えないほど綺麗なもの。まるで、博物館の展示室のようにも見えるのだ。
宗右衛門と手分けをして資料を集めると、しっかりと施錠を行う。来た道を戻るようにエレベーターホールへ向かう。途中、すれ違った職員はその場に立ち止まり、壁際に寄って会釈をする。杏奈は、足を止めることなく、右手を上げて職員に応える。その際『お疲れ様です。ありがとう』と、静かに声をかける。この辺りが、杏奈の評判を地味に上げている一因でもあったようだ。
先ほど乗ってきたエレベーターに再度乗ると、今度は最上階へ向かう。最上階は大会議室と、理事長室しかない。降りて左は大会議室、右が理事長室である。宗右衛門が早足で理事長室前に出ると、鍵を開けてドアを押す。かるくきしむ音をたてて、重たそうなドアが開くと、そこには二人掛けの長椅子がひとつ、ひとり掛けの小さな椅子が二つの応接間があり、その奥にもうひとつドアがあって、そこはの鍵は、今現在は杏奈と麻乃しか持っていない。
「お時間になりましたら、お呼びいたします」
「ありがとう。何かあったらこちらからもお願いするわね」
「はい。かしこまりました」
応接間の横には給湯室もあり、そこで備品などの確認や準備を始める宗右衛門。
杏奈はそのまま鍵を開けて、奥の私室へ。ドアが開くと、某製薬会社製、杏奈お気に入りの部屋用芳香剤が柔らかく香る。週に一度は麻乃がここへ来て、掃除をしてくれている。同時に、杏奈の几帳面な性格もあって、常に綺麗に維持されている。
この私室の右壁にはドアがあり、その奥はなんとバスルームになっている。龍馬はその昔、ここを使っていたとき、暇があると今のように海に出ていて、釣りや素潜りをしていたこともあった。海の状況によっては、汗だくになったり、潮風で全身がべたつくこともあった。だから、シャワーが浴びられるようにと、用意されたらしい。
正直、杏奈は運動をするので、夏場は汗が出やすい体質だった。正直言えば、この部屋のバスルームは助かる。着替えもそれなりに用意してある。第二の杏奈部屋になっているのだった。
窓際に置かれた、ちょっと古めのどっしりとした机。これはかなりの年代物らしく、まだ龍馬がここで執務をしていたころからあったものらしい。
椅子は最新のもので、杏奈の部屋に同じものがある。机の上にはノートパソコンとタブレットが一台ずつ。電源を入れると、某ゲーミングパソコンのメーカーロゴが浮かぶ。高性能な機材は、余裕を生み出す。杏奈のように、多少無理な使い方をしてもついてきてくれる。これは自転車でも同じ考えを持っていた。
オペレーティングシステムが全て立ち上がると、壁紙にはなんと、今年三連覇したときの『病み系魔法少女』の姿をした、恥ずかしそうな表情の勇次郎が両手でマイクを持つ姿がそこにあった。もちろん、横にあるタブレットも、スマホの待ち受けも勇次郎の写真だったりするのだ。
「……勇きゅん」
この部屋は、諸処の事情により(杏奈が補修させたとも言うが)かなり優秀な素材で防音がなされている。だからこんなつぶやきをしても、外で待機している宗右衛門の耳に入ることはない。杏奈はここで音楽をかけることもないのと。宗右衛門は何かあればノックで知らせてくれるので、多少気を抜いても困ることはない。
勇次郎からもらったばかりのソーシャルネットワークサービス、ビームのアカウントを確認。メッセージが来てないのを見てしょんぼりする。再度、勇次郎の写真を見直して、充電開始。
しばしの間勇次郎の写真を堪能すると、両の手のひらで頰をぺちぺちと軽く叩く。細かい予定はすでに、宗右衛門が立てていてくれるが、メールをチェックし、今日のアポイント件数をある程度把握しておく。
彼女は父、静馬からお小遣いをもらっていない。その代わりこうして、龍馬や静馬の名代で面談などを代行するのが、彼女のアルバイトのひとつになっている。
頑張ってお屋敷に帰ったなら、勇次郎が待つ生活があるというだけで、以前よりも頑張れる自分がいることを再確認していた。
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