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序章 憧れと出会い

第6話 ぬちぐすい

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 麻乃の案内で後を歩く勇次郎。エントランスに見えるところを抜けようとすると、そこはやはり大きな磨りガラスでできた自動ドア。音もなく開くと、クレンリネス会社でよくある足の裏の埃を取るマットが敷かれていた。勇次郎はつい、足の裏の汚れを落とさんばかりに、パタパタと軽く足踏みをしてしまう。

 その先は通路に沿って両側が白いタイルで、中央が素焼きのレンガが敷き詰められている。壁材よりも薄手の色で、足の裏から鳴る音も小気味よい。おそらくは、滑り止めの高価もあるのかもしれない。

 外側からは何階建てだとわかりにくかったが、ここはどうやら二階建てのようだ。何故わかったかというと、エレベーターの階数表示が、二階までしかないから。その上は屋上を指す『R』の文字があったからだろう。

 ホテルのようにも見えたが、実際はお屋敷と呼ばれる住居である。エレベータがあるのはきっと、搬入などの必要性があるからだと思われる。

 麻乃がボタンを押すと、『ポン』という優しい電子音が鳴った。彼女が先に乗り込み、左手でドアの開閉部分を押さえてくれる。まるで百貨店のエレベーターガールのようだ。

「どうぞ、勇次郎様」
「はい、ありがとうございます。その、美しい仕草ですね」
「ありがとうございます。子供の時に、今はなきもう一つの百貨店で、それはまた指先まで美しいしぐさで働いていらした、エレベーター担当のお姉さんを真似ただけでございます。確かこうだったと思います。こほん、……『上にまいります。上でございます。閉まるドアにご注意くださいませ』」

 うん、確かに似てる。勇次郎はそう思ったはずだ。

 エレベーター内の操作盤にも、『1』、『2』、『R』の文字があった。『BF』の文字が見当たらないところから察するに、地下室はないのだろうと思える。

 麻乃は右手で開閉ボタンを操作すると、添えた左手の動きに同調するかのように、ドアが閉まっていく。まるで勇次郎が子供のころに見た、百貨店のエレベーターガールそっくりの動きだった。

「ほんと、丁寧ですね」
「いえその、ありがとうございます、……あそうだ」
「どうかされましたか?」
「僕と母さんの荷物、受け取りにいかなくていいんですか?」
「大丈夫ですよ。後ほど、お部屋に備え付けられている、ウォークインクローゼットに収めておきますので」
「あ、そんなのがあるんですね……」

 カルチャーショック弱だった。
 今まで住んでいた部屋にも、狭いウォークインクローゼットはあった。それでも押し入れが拡張された程度。あれだけの荷物が入るようなものだと、彼には想像できないレベルだったはずだ。

 エレベーターが停止して、ドアが開く。

「『二階でございます』。どうぞ、お降りください」

 今度は麻乃は先に降りない。実にそっくりだと想っただろう、エレベーターガールに。

「はい、すみません」
「いいえ」

 勇次郎は先に降りたからといって、自分が案内される場所を知らない。右も左も、ただ広く、遠くまで続く廊下。果てが見えないわけではないが、とにかく広く感じる。住んでいたマンションのワンフロアよりも、広いのではないかと疑ってしまうほどだ。

「この一番奥にある部屋が、旦那様、静馬様のお部屋がありまして、その手前が奥様、縁子様の部屋になります」
「あ、別々なんですね」
「左様でございます。お二人はご新婚ではございますが、激務でございますゆえ。静かに眠りたいと、縁子様からのお願いがあった。そう、静馬様より伺っておりますので、おそらくは……」

(いや、確かに疲れてるときは『ぜーったいに起こさないでね』と言われたことが何度もある。けれどさ、本当に、放置プレイじゃないの?)

 勇次郎は少し静馬が不憫に思えてしまった。

 エレベーターから数えて四つ目、ネームプレートがまだ何も記載されていない部屋の前で、麻乃は立ち止まった。そこでどこからか取り出したカード型のキー。壁にあるスロットに軽く差し込むと『カチャリ』と軽快な音が鳴る。

「こちらが勇次郎様のお部屋になります。左隣が私の部屋でございまして、その隣が杏奈お嬢様の部屋にございます」
「え? 同じフロア、って仕方ないのかな……」
「大丈夫でございますよ。防音はしっかりと――」
「いや、そういう心配してくれなくて大丈夫ですから」

 麻乃は口元に手をやり、にやりと笑ったような気がする。目が間違いなく、楽しそうだった。そう、勇次郎と文庫をからかうときの、鈴子にそっくりな目をしてたからだった。

 麻乃が先に入り、スカートをゆったりと両手で持ち上げて会釈をする。まるで、舞踏会のご令嬢のような、優雅さのある仕草。勇次郎が以前見たことがある、アニメのワンシーンにそんな光景があったのを記憶していた。

「うわぁ……」

 ある意味絶景だった。
 床は白いタイル張り。天蓋まではなかったが、キングサイズのベッドが置かれ、その近くには会社の役員が使いそうなほど大きな机。
 そこには、フルリクライニング可能な超高級椅子。奥には、麻乃が言っていたウォークインクローゼットに繋がる扉らしきものがある。

 何より、窓から一望できる、東海岸の海辺。これは絶対に、何時間見ていても飽きない光景。

「何もございませんが、必要なものがありましたらお申し付けくださいませ。遅くとも、一両日中にご用意いたしますので」
「いやいやいや。十分ですって。僕の荷物もあるんだし」
「午前中には、搬入作業も終わるかと想います」

 そう言うと、麻乃は奥にある扉を開けた。そこにあるのは、ガレージのような明るい空間。『どうやって搬入するんだろう』と想った勇次郎の予想を超えていた。そこは、外から搬入できるように、なっていたのである。

 同行してくれた運送会社のスタッフが、忙しそうに荷物を移動させている姿が見える。クローゼットの広さは、前に住んでいた勇次郎の部屋よりも大きい。それこそ、車が二台は入りそうなガレージそのものである。

 そういう意味では、助かったとも言えるだろう。なにせ、勇次郎の荷物には、自転車や工具なども入っているのだから。

「勇次郎様は、コーヒーがよろしいですか? それとも紅茶が?」
「んっと、何でもあるの?」
「はい。ご要望されると予想していたものは、取りそろえておりますが」
「それならさ」

 ちょっとだけ意地悪な表情になる勇次郎。

「はい」
「ルートビア、あるかな?」
「はい。ございますが」
「……あるんだ」
「お持ちいたしましょうか?」
「うん。お願い。僕の好物だからさ」
「お嬢様が『飲む湿布』と忌避しているルートビアをお飲みなられるとは、意外でございました」
「あ、会長は飲めないんだ。知らなかった」
「少々おまちくださいませ」

 一礼して部屋を出て行く麻乃。

 ややあって、用意されたものに驚く勇次郎。麻乃がトレーの上に持ってきたのは、キンキンに冷えたあの見慣れたマークの入った、公式のジョッキ。そこに入った、強炭酸で漆黒の飲み物、匂いでわかる本物のルートビア。

「どうぞお召し上がりください」
「うん。ありがとう」

 勇次郎はストローの袋を破り、ジョッキに挿す。ストローを咥えて三分の一ほど一気飲み。

「――ふぅ。『ぬちぐすい』、だよねー」

 ちなみに、『ぬちぐすい』とは、『命の薬』という沖縄の方言である。ルートビアはそれこそ好き嫌いのはっきりしたドリンクであり、沖縄のソウルフードのひとつでもあったりするのだ。

「えぇ。美味しゅうございますよね」
「麻乃さんも飲めるんだ?」
「もちろんでございます。これが飲めないだなんて、人生の半分を損していると言っても過言ではございませんので」
「うんうん」

 三度に分けて、飲み干す。すると、

「お代わりはどういたしますか?」
「もちろん、お願いします」
「はい。わかっていらっしゃいますね」
「そりゃそうでしょう」

 新しく冷凍庫で冷やされたジョッキが用意されたのは言うまでもなかった。
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