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第十章 混乱と動乱
第223話 気苦労と喜び
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「――ということで、再計算した結果、アールクヴィスト子爵家の今年の見込み収入はこうなりました。冬に計算した最悪の想定より多少はマシです」
「……ほんとに『多少はマシ』って感じだね」
五月の下旬。領主執務室を訪れた財務担当従士のアンナから、ノエインは報告の書類を受け取っていた。
その内容は今年のアールクヴィスト子爵家の見込み収入についてだ。今年の収入がいくらになるかで、来年の領地運営の予算をどれくらいとれるかが決まる。
そして、その予想結果は――かなり残念な数字と言わざるを得なかった。
「ラピスラズリの販売量の減少に、砂糖の生産量の減少に、今年は油の生産も壊滅的で……ケーニッツ子爵領への食糧輸出だけでは全然巻き返せませんね」
「いくら大凶作の只中で食糧を売ってあげるとはいえ、相手の足元を見るのも限度があるからね……義理のお父様だし」
例えばジャガイモを空前絶後の高値で売りつけたとして、それでも背に腹は代えられないからとアルノルドは買うだろう。だが、そんなことをすればケーニッツ家の全員から嫌われる。クラーラが心苦しい思いをするし、何より今後の両家の関係に禍根を残す。
こちらも大凶作の年に食糧を分けるリスクを負うのだから、いつもより高値で売ることは許容されるだろう。が、とても他の事業の減収を補えるほどではない。所詮は食べ物だ。
「にしてもほんと……経済的には雀の涙って感じの効果しかなかったなあ」
今年は甜菜を植えるはずだった農地も食糧増産に使ったので砂糖はろくに作れないし、鉱山資源の採掘スケジュールはようやく正常に戻ったが贅沢品のラピスラズリは買い手が激減している。国外では最大の買い手であるベトゥミア共和国も、今年になってロードベルク王国からの宝石類の輸入を控えているらしい。本当にまともな売り先がないのだ。
その結果、アールクヴィスト領の見込み収入は前年比で五割以上の減少だ。ジャガイモで埋めるには大きすぎる損害だった。
「子爵家の予備費は3000万レブロほどありますが、三分の一は金や銀、ラピスラズリに換えてあるので、現金として金庫にあるのは2000万レブロほどです。見込み減収がこれだと……」
「……いつもみたいなお金の使い方してたら、現金の蓄えが一年で消し飛ぶね」
「ええ。幸い、王領からの移民を停止したので支援費用の分が浮きますが……それでも、ある程度は予備費に手をつけないといけないでしょうね。。社交費用や趣味のお金など、ノエイン様の生活面でもできる限りの節約をお願いします」
「もちろん分かってるよ。書物の収集は今年は我慢するし、社交に関してはそもそも遊ぶ余裕のある貴族自体がほとんどいないだろうし」
そこまで話したところで、ノエインもアンナもなんとなくため息をつく。
そのタイミングが被り、二人で顔を見合わせて苦笑する。今年は景気の悪い話ばかりで、ついため息が増えてしまう。
「……そういえば、アンナの家も大豆を植えてるよね。栽培は上手くいってる?」
育てる上で世話の手間が少ない大豆は、各家庭の敷地内での栽培が奨励されていた。今は領内のあらゆる家の庭先で、枝豆の段階に成長した大豆が揺れている。
「ええ、何せうちは夫が農業担当従士ですからね。私まで大豆栽培のコツを身につけちゃって、マイさんやジーナさん、ミシェル、ロゼッタ、あとリックさんやダントさんの奥さんにまで手入れの助言をしてますよ」
苦笑しながら答えるアンナ。従士家の女性全員の指導役になっているらしい。さすがはエドガーの妻だ。
「財務だけじゃなくて食糧増産にまで貢献してもらって、領主として感謝してもしきれないね」
ノエインもおどけて言いながら笑った。
・・・・・
「……こっちの農地も、一回目の栽培は成功だね」
「はい。ただの空き地を掘り返しただけの場所でも正常に育つとは、やはりジャガイモの栽培効率は素晴らしいです」
アンナからの報告を受けた日の夕方。領主家屋敷の敷地内にある領主所有農地で、ノエインはザドレクと並んで話していた。目の前には収穫目前のジャガイモ畑と大豆畑が広がっている。
「他の農地も十分な収穫量を見込めるってエドガーから聞いたし、これでうちの食糧と、ケーニッツ子爵領への輸出分は足りそうだね……よかった」
春先から初夏にかけての栽培が成功したのを確認して、ノエインはほっと息を吐いた。
ジャガイモがちゃんとした農地でなくてもある程度育つのは分かっていたが、それでもこうして食糧増産計画が軌道に乗るのを見届けるまでは完全に安心はできなかったのだ。夏からの作付と領内での消費、さらにはケーニッツ子爵領へ渡す種芋の分を無事に生産できたことに胸をなで下ろす。
「……それで、ノエイン様。夏からの二度目の栽培ですが、本当に屋敷の敷地内でもさらに耕作地を広げるのですか?」
「もちろん、やっちゃってくれていいよ。中庭も、門から玄関までの前庭も、使える土地は全部畑に変えちゃって」
麦と同じように、ジャガイモや大豆は同じ農地で連作ができない。ジャガイモの後に大豆、大豆の後にジャガイモを植えるのも駄目だ。作物に病気が発生しやすくなる。これは過去にクリスティが実験したことから分かっている。
なので、今年二回目の作付は、一回目とは別の農地にしなければならない。この夏からは今まで以上になりふり構わず、道の脇だろうが玄関の周りだろうが土地が空いているならどこでもジャガイモや大豆を植える羽目になるだろう。
領主家の屋敷とて例外ではない。本来は客人に見せるために綺麗に整えておくべき前庭まで農地として使うようノエインはザドレクに命じていた。
「……かしこまりました。敷地内の見栄えは相当に悪くなるかと思いますが、やらせていただきます」
「頼むね。領民たちも家の敷地を掘り返してるんだから、領主の僕だけ庭を守るわけにはいかないし」
神妙な顔のザドレクに、ノエインは苦笑しながら頷いた。
・・・・・
「はあ~あ。今日も疲れたよぉ~エレオスぅ~」
「ぷぁーう」
仕事を終え、屋敷の居間でどっかりとソファに座り込んだノエインが我が子を抱き上げると、エレオスも変な声を出しながらそれに応えた。あと一月半ほどで一歳になるエレオスは、最近は多彩なリアクションでノエインを楽しませてくれる。
「計算通りの食糧を作れる見通しが立ったし、ようやくひと段落できるよ」
「今日もお疲れ様でした……私の実家との関係のために、あなたに余計な負担をかけてしまって申し訳ありません」
「クラーラが謝る必要ないさ。これは領主としての判断でもあるから……ケーニッツ子爵家との関係の維持とか、隣領に健在でいてほしいとか、色んな計算をした上での食糧増産と輸出だからね」
隣に座ったクラーラに言われ、ノエインは微笑みながらもこれは損得のためだとはっきり伝える。彼女の場合は、自分の実家への義理で夫が要らぬ苦労をしていると思う方が辛いだろう。
「……ありがとうございます」
クラーラがようやく微笑んでくれたのを見て、ノエインも少し安心する。
「ぷうぅ~、ぽぉ」
と、父親に抱かれるのは飽きたのか、エレオスがノエインの右隣に座るマチルダへと手を伸ばす。
「あははは、やっぱりエレオスは僕よりマチルダの抱っこがお気に入りか……少しの間お願いしていい?」
「もちろんです、ノエイン様」
頷くマチルダにエレオスを手渡すノエイン。
今ではマチルダの兎耳にあまり興味を示さなくなったエレオスだが、その代わりなのか、別のものに大きな興味を示すようになっていた。
「……」
「ほんとにエレオスは胸が好きだねぇ」
「生みの母のものでは大きさが物足りないということなんでしょうか……」
マチルダに抱えられ、何やら真剣な表情で彼女の豊かな胸をばいんばいんと押し揺らすエレオス。
そんな我が子を見て、ノエインは呆れ顔で、クラーラは少しだけ悔しさをにじませながら話す。普人の平均と比べればクラーラも十分に大きい方だが、種族的な特性として胸が豊かなマチルダには及ばない。
「いいかいエレオス、その行為を許すのは君が赤ちゃんのうちだけだからね。本来マチルダのおっぱいは僕だけのものだ」
「おぉ、おぉ~ぷ?」
「まあ、まだ一歳にもならない息子にやきもちですか?」
大真面目な顔で息子に語りかけるノエインにクラーラが笑う。一方のマチルダは、主人が自分に向ける独占欲に満更でもなさそうな表情になる。
「おぉ、お~、……おっ、ぱい? おぉっぱい?」
と、マチルダの胸をぺちぺち叩きながら、エレオスが言った。それを聞いたノエインたちが固まり、場が静まり返る。
「……え、」
ノエインが沈黙を破る。
「エレオスが喋った!」
「まあ、凄いわエレオス!」
「おぉ…っぱい?」
「また喋った! まだ一歳前なのに!」
「この子は天才かもしれないわ!」
おおはしゃぎするノエインとクラーラ。マチルダも少し驚いたように目を見開いてエレオスを見る。当のエレオスはきょとんとしている。
しばらく喜びを分かち合い、ノエインとクラーラは少し落ち着いて座る。そして、肩を落としてため息をつく。
「……喋ったのはいいけど」
「……よりにもよって、生まれて初めての一言が『おっぱい』ですか」
我が子が意味のある言葉を発した喜びと、その意味があんまりにもあんまりであることへのショックに包まれる父と母。
「……どうしよう。この調子で使用人や部下たちの前でも言い出したら困るよ」
「そうですね……私の実家で、両親や兄夫婦の前で同じように言い出すのも問題です」
「ああ、それがあった。どうしよう大問題だ」
クラーラの言葉にノエインは青ざめる。義父母と義兄夫婦から、一体どんな子どもの育て方をしているんだと言われること間違いなしだ。
「……」
真剣な顔で悩み出す領主夫婦。マチルダも二人にどう声をかければいいか分からず黙り込む。めでたい場のはずだが、今「おめでとうございます」というのも憚られる。エレオスが自分の胸に興味を持った結果ということもあり、少しばかり責任も感じる。
「……別の言葉を覚えさせればいいんだ。記憶を上書きさせれば」
ふと、思いついたようにノエインが呟く。
「そ、そうね……マチルダさん、エレオスを貸してください」
マチルダからエレオスを受け取ったクラーラは、その顔を見つめながら語る。
「いい、エレオス? 私はあなたのママよ。言ってごらんなさい? マーマ」
「まあま?」
「そう、そうよエレオス! ほら、マチルダさんもあなたのママよ、ねえ?」
「は、はい……エレオス様、私もママです。マーマ」
照れているのか、少し顔を赤くしながらマチルダもエレオスに語る。
「まあま。まあーま」
「上手よエレオス、さすがだわ!」
「……!」
クラーラがエレオスを褒める。マチルダは「ママ」と呼ばれたことで口元をニヤつかせる。
「つ、次は僕だよエレオス。僕は君のパパだよ、パーパ」
「ぱぁ……ぱぉ……おぉっぱい?」
「なんで!」
ノエインの顔がショックに包まれ、それを見たエレオスは何がおかしいのかきゃっきゃっきゃと手を叩いて笑う。
この日以来、ノエインたちがエレオスに言葉を教えて記憶を上書きしようとする光景が、屋敷の居間でたびたびくり広げられることになった。
「……ほんとに『多少はマシ』って感じだね」
五月の下旬。領主執務室を訪れた財務担当従士のアンナから、ノエインは報告の書類を受け取っていた。
その内容は今年のアールクヴィスト子爵家の見込み収入についてだ。今年の収入がいくらになるかで、来年の領地運営の予算をどれくらいとれるかが決まる。
そして、その予想結果は――かなり残念な数字と言わざるを得なかった。
「ラピスラズリの販売量の減少に、砂糖の生産量の減少に、今年は油の生産も壊滅的で……ケーニッツ子爵領への食糧輸出だけでは全然巻き返せませんね」
「いくら大凶作の只中で食糧を売ってあげるとはいえ、相手の足元を見るのも限度があるからね……義理のお父様だし」
例えばジャガイモを空前絶後の高値で売りつけたとして、それでも背に腹は代えられないからとアルノルドは買うだろう。だが、そんなことをすればケーニッツ家の全員から嫌われる。クラーラが心苦しい思いをするし、何より今後の両家の関係に禍根を残す。
こちらも大凶作の年に食糧を分けるリスクを負うのだから、いつもより高値で売ることは許容されるだろう。が、とても他の事業の減収を補えるほどではない。所詮は食べ物だ。
「にしてもほんと……経済的には雀の涙って感じの効果しかなかったなあ」
今年は甜菜を植えるはずだった農地も食糧増産に使ったので砂糖はろくに作れないし、鉱山資源の採掘スケジュールはようやく正常に戻ったが贅沢品のラピスラズリは買い手が激減している。国外では最大の買い手であるベトゥミア共和国も、今年になってロードベルク王国からの宝石類の輸入を控えているらしい。本当にまともな売り先がないのだ。
その結果、アールクヴィスト領の見込み収入は前年比で五割以上の減少だ。ジャガイモで埋めるには大きすぎる損害だった。
「子爵家の予備費は3000万レブロほどありますが、三分の一は金や銀、ラピスラズリに換えてあるので、現金として金庫にあるのは2000万レブロほどです。見込み減収がこれだと……」
「……いつもみたいなお金の使い方してたら、現金の蓄えが一年で消し飛ぶね」
「ええ。幸い、王領からの移民を停止したので支援費用の分が浮きますが……それでも、ある程度は予備費に手をつけないといけないでしょうね。。社交費用や趣味のお金など、ノエイン様の生活面でもできる限りの節約をお願いします」
「もちろん分かってるよ。書物の収集は今年は我慢するし、社交に関してはそもそも遊ぶ余裕のある貴族自体がほとんどいないだろうし」
そこまで話したところで、ノエインもアンナもなんとなくため息をつく。
そのタイミングが被り、二人で顔を見合わせて苦笑する。今年は景気の悪い話ばかりで、ついため息が増えてしまう。
「……そういえば、アンナの家も大豆を植えてるよね。栽培は上手くいってる?」
育てる上で世話の手間が少ない大豆は、各家庭の敷地内での栽培が奨励されていた。今は領内のあらゆる家の庭先で、枝豆の段階に成長した大豆が揺れている。
「ええ、何せうちは夫が農業担当従士ですからね。私まで大豆栽培のコツを身につけちゃって、マイさんやジーナさん、ミシェル、ロゼッタ、あとリックさんやダントさんの奥さんにまで手入れの助言をしてますよ」
苦笑しながら答えるアンナ。従士家の女性全員の指導役になっているらしい。さすがはエドガーの妻だ。
「財務だけじゃなくて食糧増産にまで貢献してもらって、領主として感謝してもしきれないね」
ノエインもおどけて言いながら笑った。
・・・・・
「……こっちの農地も、一回目の栽培は成功だね」
「はい。ただの空き地を掘り返しただけの場所でも正常に育つとは、やはりジャガイモの栽培効率は素晴らしいです」
アンナからの報告を受けた日の夕方。領主家屋敷の敷地内にある領主所有農地で、ノエインはザドレクと並んで話していた。目の前には収穫目前のジャガイモ畑と大豆畑が広がっている。
「他の農地も十分な収穫量を見込めるってエドガーから聞いたし、これでうちの食糧と、ケーニッツ子爵領への輸出分は足りそうだね……よかった」
春先から初夏にかけての栽培が成功したのを確認して、ノエインはほっと息を吐いた。
ジャガイモがちゃんとした農地でなくてもある程度育つのは分かっていたが、それでもこうして食糧増産計画が軌道に乗るのを見届けるまでは完全に安心はできなかったのだ。夏からの作付と領内での消費、さらにはケーニッツ子爵領へ渡す種芋の分を無事に生産できたことに胸をなで下ろす。
「……それで、ノエイン様。夏からの二度目の栽培ですが、本当に屋敷の敷地内でもさらに耕作地を広げるのですか?」
「もちろん、やっちゃってくれていいよ。中庭も、門から玄関までの前庭も、使える土地は全部畑に変えちゃって」
麦と同じように、ジャガイモや大豆は同じ農地で連作ができない。ジャガイモの後に大豆、大豆の後にジャガイモを植えるのも駄目だ。作物に病気が発生しやすくなる。これは過去にクリスティが実験したことから分かっている。
なので、今年二回目の作付は、一回目とは別の農地にしなければならない。この夏からは今まで以上になりふり構わず、道の脇だろうが玄関の周りだろうが土地が空いているならどこでもジャガイモや大豆を植える羽目になるだろう。
領主家の屋敷とて例外ではない。本来は客人に見せるために綺麗に整えておくべき前庭まで農地として使うようノエインはザドレクに命じていた。
「……かしこまりました。敷地内の見栄えは相当に悪くなるかと思いますが、やらせていただきます」
「頼むね。領民たちも家の敷地を掘り返してるんだから、領主の僕だけ庭を守るわけにはいかないし」
神妙な顔のザドレクに、ノエインは苦笑しながら頷いた。
・・・・・
「はあ~あ。今日も疲れたよぉ~エレオスぅ~」
「ぷぁーう」
仕事を終え、屋敷の居間でどっかりとソファに座り込んだノエインが我が子を抱き上げると、エレオスも変な声を出しながらそれに応えた。あと一月半ほどで一歳になるエレオスは、最近は多彩なリアクションでノエインを楽しませてくれる。
「計算通りの食糧を作れる見通しが立ったし、ようやくひと段落できるよ」
「今日もお疲れ様でした……私の実家との関係のために、あなたに余計な負担をかけてしまって申し訳ありません」
「クラーラが謝る必要ないさ。これは領主としての判断でもあるから……ケーニッツ子爵家との関係の維持とか、隣領に健在でいてほしいとか、色んな計算をした上での食糧増産と輸出だからね」
隣に座ったクラーラに言われ、ノエインは微笑みながらもこれは損得のためだとはっきり伝える。彼女の場合は、自分の実家への義理で夫が要らぬ苦労をしていると思う方が辛いだろう。
「……ありがとうございます」
クラーラがようやく微笑んでくれたのを見て、ノエインも少し安心する。
「ぷうぅ~、ぽぉ」
と、父親に抱かれるのは飽きたのか、エレオスがノエインの右隣に座るマチルダへと手を伸ばす。
「あははは、やっぱりエレオスは僕よりマチルダの抱っこがお気に入りか……少しの間お願いしていい?」
「もちろんです、ノエイン様」
頷くマチルダにエレオスを手渡すノエイン。
今ではマチルダの兎耳にあまり興味を示さなくなったエレオスだが、その代わりなのか、別のものに大きな興味を示すようになっていた。
「……」
「ほんとにエレオスは胸が好きだねぇ」
「生みの母のものでは大きさが物足りないということなんでしょうか……」
マチルダに抱えられ、何やら真剣な表情で彼女の豊かな胸をばいんばいんと押し揺らすエレオス。
そんな我が子を見て、ノエインは呆れ顔で、クラーラは少しだけ悔しさをにじませながら話す。普人の平均と比べればクラーラも十分に大きい方だが、種族的な特性として胸が豊かなマチルダには及ばない。
「いいかいエレオス、その行為を許すのは君が赤ちゃんのうちだけだからね。本来マチルダのおっぱいは僕だけのものだ」
「おぉ、おぉ~ぷ?」
「まあ、まだ一歳にもならない息子にやきもちですか?」
大真面目な顔で息子に語りかけるノエインにクラーラが笑う。一方のマチルダは、主人が自分に向ける独占欲に満更でもなさそうな表情になる。
「おぉ、お~、……おっ、ぱい? おぉっぱい?」
と、マチルダの胸をぺちぺち叩きながら、エレオスが言った。それを聞いたノエインたちが固まり、場が静まり返る。
「……え、」
ノエインが沈黙を破る。
「エレオスが喋った!」
「まあ、凄いわエレオス!」
「おぉ…っぱい?」
「また喋った! まだ一歳前なのに!」
「この子は天才かもしれないわ!」
おおはしゃぎするノエインとクラーラ。マチルダも少し驚いたように目を見開いてエレオスを見る。当のエレオスはきょとんとしている。
しばらく喜びを分かち合い、ノエインとクラーラは少し落ち着いて座る。そして、肩を落としてため息をつく。
「……喋ったのはいいけど」
「……よりにもよって、生まれて初めての一言が『おっぱい』ですか」
我が子が意味のある言葉を発した喜びと、その意味があんまりにもあんまりであることへのショックに包まれる父と母。
「……どうしよう。この調子で使用人や部下たちの前でも言い出したら困るよ」
「そうですね……私の実家で、両親や兄夫婦の前で同じように言い出すのも問題です」
「ああ、それがあった。どうしよう大問題だ」
クラーラの言葉にノエインは青ざめる。義父母と義兄夫婦から、一体どんな子どもの育て方をしているんだと言われること間違いなしだ。
「……」
真剣な顔で悩み出す領主夫婦。マチルダも二人にどう声をかければいいか分からず黙り込む。めでたい場のはずだが、今「おめでとうございます」というのも憚られる。エレオスが自分の胸に興味を持った結果ということもあり、少しばかり責任も感じる。
「……別の言葉を覚えさせればいいんだ。記憶を上書きさせれば」
ふと、思いついたようにノエインが呟く。
「そ、そうね……マチルダさん、エレオスを貸してください」
マチルダからエレオスを受け取ったクラーラは、その顔を見つめながら語る。
「いい、エレオス? 私はあなたのママよ。言ってごらんなさい? マーマ」
「まあま?」
「そう、そうよエレオス! ほら、マチルダさんもあなたのママよ、ねえ?」
「は、はい……エレオス様、私もママです。マーマ」
照れているのか、少し顔を赤くしながらマチルダもエレオスに語る。
「まあま。まあーま」
「上手よエレオス、さすがだわ!」
「……!」
クラーラがエレオスを褒める。マチルダは「ママ」と呼ばれたことで口元をニヤつかせる。
「つ、次は僕だよエレオス。僕は君のパパだよ、パーパ」
「ぱぁ……ぱぉ……おぉっぱい?」
「なんで!」
ノエインの顔がショックに包まれ、それを見たエレオスは何がおかしいのかきゃっきゃっきゃと手を叩いて笑う。
この日以来、ノエインたちがエレオスに言葉を教えて記憶を上書きしようとする光景が、屋敷の居間でたびたびくり広げられることになった。
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