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第九章 アールクヴィスト領は平和

第216話 国家再建

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 そして、クロエ・タジネットは意識を取り戻した。

 まず、頭が揺れているかのような不快感を覚える。まるでひどく酒に酔った翌日のようだ。

 視界もぼやけ、耳もぼんやりとしか聞こえない。背中には硬い毛布の感触があり、どこかに寝かされているのだとかろうじて分かる。

 周囲では何やら慌ただしく人が動き回り、口々に大声で話しているのが分かる。が、その内容までは理解できない。

 不意に背中に手を回されて、半ば無理やり起こされる。口元に何かコップのようなものを押しつけられる。これを飲めということか。

 強引にコップの中のものを口に流しこまれ、飲み込む。

 と、強烈な苦みを感じながら一気に意識が覚醒した。視覚と聴覚も急激に回復する。

「ゲホッ、ゴホッゴホッ!」

「ようやく起きたか」

 飲まされた液体のあまりの苦みと、急に敏感になった感覚に驚いて咳き込んでいると、そう声をかけられる。

 クロエは顔を上げて、そこで初めて自分がどこかの部屋の中でベッドに寝かされていたことに気づいた。部屋の造りを見るに、どこかの砦か城の中だろうか。

 そして、自分に声をかけた男の方を見る。

「……パラディール伯爵閣下」

 目の前に立っていたのは、オーギュスト・パラディール伯爵だった。ランセル王国では名の知れた武門の大貴族でありながら、急進的な軍閥とは一定の距離を置いていた男だ。彼が王女派連合軍の実質的な指揮官として動いていたという話は、クロエも聞いていた。

「久しいな、タジネット子爵。卿が起きるまでに三日経ったぞ。今しがた卿が飲んだのは高価な魔力回復薬だ。私の奢りだ。感謝しろよ」

 もう50歳近いはずのパラディール伯爵だが、軍服の上からでも分かる鍛え上げられた肉体と黒々とした髪、整えられた髭、不敵に笑う表情は、実年齢より若い印象を感じさせる。

 伯爵の軽い口調とは裏腹に、室内には物々しい雰囲気が漂う。クロエの監視役か、伯爵の護衛役か、その両方か。いかにも精鋭と言った兵士たちがクロエの動きを警戒している。妙な動きをすれば即斬られるだろう。

「……何故、私は生きているのですか?」

「ははは! 最初に聞くのがそれか。卿の大事なカドネ元国王の行方は気にならんのか?」

 クロエが尋ねると、パラディール伯爵は豪快に笑った。彼の言うことがもっともだと思い、クロエは質問を変える。

「カドネ陛下は、逃げ延びたのですか?」

「ああ、卿があのような意味不明な威力の魔法を放って、兵士たちの足を凍らせたおかげでな。およそ四百人だ。卿は四百人の足を一瞬で氷で埋めたんだぞ? あれは凄まじかった。国の戦史に残るだろうよ」

 パラディール伯爵は手近な椅子をクロエのベッドの横に起き、どかりと座る。

「兵士たちが凍傷になる前に足を掘り起こして救い出すため、多くの人手を割かねばならなくてな。カドネの追跡には少数の精鋭を回したのだが……山道の途中でもあいつの親衛隊の残党が防衛線を張っておったわ。おかげで追跡は手遅れ。カドネは少なくとも我々の手には落ちなかったぞ。よかったではないか」

 伯爵に言われ、クロエは微妙な顔をした。カドネを逃がせたのに、しっかり時間稼ぎを成したのに、喜べない自分がいる。

「だが、この時期にあんなところへ逃げて行って、どうするつもりなのか……山岳地帯を無事に抜け切れる可能性が一割、その先の大陸北部で生き永らえる可能性がさらにそこから一割といったところか? 不安定な小国だらけの北部をどう生きるつもりなのだろうな」

 パラディール伯爵の言葉に、クロエも内心で同意する。

 あの山道は温かい時期でもそれなりに危険のある道だ。勇気ある商人が多少の怪我や死のリスクを承知で行き来するような、北方との細い交易路だ。麓はともかく山の上の方では魔物も出るし、落石や崖崩れなどの危険もある。

 それを冬も近いこの時期に、従者たちの介助があるとはいえあの不自由な体で越えようとするなど正気ではない。越えたとしてもその先は、北方民族がいくつもの小国を成す地帯だ。ランセル王国での実権も後ろ盾もことごとく失い、もはやただの手負いの男でしかないカドネが、そこでどう生きるというのか。

 去り際にカドネは何やら貴種流離譚の主人公のような妄言を語っていたが、まず間違いなくそんなに上手くはいかない。北方の小国たちも、カドネの亡命を受け入れるよりはアンリエッタ王女と新たに国交を結ぶことを選ぶはずだ。もうカドネに希望はない。

「……それで、何故私は生かされているのですか? 私はあなた方から見れば逆賊と呼んでいい存在のはずです」

「死にたかったのか?」

 逆に問われて、クロエは一瞬言葉に詰まった。

「……いえ、というより」

「軍閥貴族の役割を全うするとか、タジネット子爵家の誇りを最後まで守るとか、自分はここで散るべきだとか、どうせそのようなことを考えておったのだろう、卿は」

「……」

 図星だった。クロエは黙り込む。

「……早逝された卿の父君は私もよく知っていた。派閥も思想も違ったが、彼は強き武人だった。その教えを受けて育った卿が、どのような考えでカドネに従い続けていたかはおおよそ想像がつく」

 呆れが混じったような声色でパラディール伯爵が語る。

「はっきり言おう。クロエ・タジネット子爵、王女派連合に……いや、もはや呼び方が違うな。新たなランセル王国のもとに下れ」

「なっ!? ……ですが私は……私のせいで、カドネ国王は逃げ延びたのですよ?」

 驚愕してクロエは言った。

「死んだも同然の暴君のことなど気にしている段ではない。この国がどれだけ疲弊しているか、卿には分かるだろう? 特に軍事だ。立て続けの対外戦争とこの内乱で、有能な将兵が、貴族が、どれほど死んだと思っている。この先ロードベルク王国と対等な友好関係を築き維持するためにも、ランセル王国の軍事力を立て直さなければならない。指揮官としても魔法使いとしても優秀な卿に、あの世で楽をさせている余裕はこの国にはない」

「……しかし」

「卿はアンリエッタ女王陛下に、この国の王にお仕えできないというのか?」

 伯爵の言葉に、クロエは黙り込んだ。

「カドネが消えた今、この国の頂点に立たれるのはアンリエッタ殿下だ。まだ戴冠前だが、実質的に我々が王として戴くべきはアンリエッタ殿下だけだ。タジネット卿、卿は殿下をお守りできないのか? 卿が守っていたのは王ではなくカドネ個人だったのか?」

「……」

 やや強引な、ともすれば屁理屈のようにも聞こえる話にクロエは黙り込む。

「卿は武門の貴族だろう。であれば、己の酔狂のために勝手に死ぬことは許されん。王が代わるまで生き延びたのなら、これもまた卿の運命だ。命尽きるまで新たな王に仕えろ。それがお前の定めた、誇り高きタジネット子爵家当主のあるべき姿ではないのか?」

「……はい」

 なんだか上手いこと言いくるめられた気がしないでもないが、クロエは納得して頷いた。

 そうだ、自分の意思など関係なく、ただこの国の王と定められた人物のために戦うのだと決めたのは自分自身ではないか。王が代わったというのなら、新たな王のために戦い、新たな王を守るのが自分の使命だ。

 自分は王の剣だ。王の盾だ。それだけの人間だ。それだけの人間として生き、いつか剣が折れて盾が割れるかの如く死のう。

「……アンリエッタ殿下の御為に、身命を賭して戦うことを固く誓います。どうか私に働きの場をお与えください」

 クロエの言葉を聞き、表情の変化を見たパラディール伯爵が小さく笑う。

「……旗頭を失ったことを未だ知らずに、細々と抵抗する往生際の悪いカドネ派の残党狩りもある。アンリエッタ殿下の戴冠式に向けた準備も、国軍の再編も、政治機構の再編も……貴族の仕事はいくらでもあるぞ。三日も寝たのなら十分であろう。早く起きるがよい」

「はっ」



 こうして、カドネ・ランセル1世とその一派は力を失い、アンリエッタ・ランセル王女とそれを支持する親王女派貴族連合が実権を掌握。ランセル王国は新たな道を歩み始めた。

 運命の悪戯か、または神の意思か、クロエ・タジネット子爵は国が変わり始める起点に立ち合い、国のさらなる未来をも見ていくことになった。
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