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第九章 アールクヴィスト領は平和

第215話 暴君敗走

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「……なあ、タジネット子爵、お前は本当に来てくれないのか?」

「はっ、私がお仕えできるのはここまでです」

 ランセル王国の中央北端、大陸を南北に分断するように走るレスティオ山地の麓で、カドネ・ランセル1世に問いかけられたクロエ・タジネット子爵は答えた。

 目の前のカドネ国王に、軍閥貴族たちの英雄と称えられた頃の権勢は見る影もない。顔は青白く、表情に自信はなく、常にびくびくと怯えている。

 そして今、ついに、カドネ国王は自身の国を捨てて逃げようとしている。大陸北部との数少ない交易路として切り開かれた細く険しい山道を越え、行く先のあてもないのに北部に落ち延びようとしている。もう冬も近く、山の上では雪も降っているだろうに。体力の衰えたカドネ国王が無事に北にたどり着く可能性はどれほどか。

 カドネを囲むのは、未だに忠誠心を捨てない物好きな親衛隊兵士や官僚や使用人、そしてこの逃避行に巻き込まれた奴隷、総勢50人ほど。

 150万の人口を抱える国の王の傍に、最後に残ったのはたったの50人だ。いや、こんな状態の彼に50人も残っていると言うべきかもしれない。

 そして、クロエ・タジネットはこの50人に含まれない。

「……どうしても駄目か? 今の俺はこんな有り様だが、大陸北部のどこかの国に亡命して、そこの協力をうまく取りつけて兵を借りれば、きっと反逆者どもから権力を取り戻せる。そしたらお前は俺の一番の重臣になれるぞ? 何でもやる、金でも爵位でも……そうだ、侯爵にしてやる。だから――」

「申し訳ございません、陛下。たとえ首を刎ねられようとも、この先にご同行することはできません」

 カドネの楽観的な誘いを、常識的に考えれば絶対に実現しない妄想に基づく誘いを、クロエは固辞する。

 クロエ個人は最早カドネを慕ってなどいないが、それでもカドネは今はまだ、正式な戴冠の儀式を経て王位に就いた国王だ。彼が王としてこの国にいる限りは、クロエは武門の貴族としてカドネを守ると決めていた。

 そして、カドネが国を捨てるとき、クロエの義務も終わる。王は国を捨てない。国を捨てるのは王ではない。異国の地へと去るカドネに、クロエは付き従うことはできない。

 だから、自分はここまではカドネに付き従い、カドネを守る。この先は守らない。これが、貴族としての使命感と個人的な感情に折り合いをつけるためにクロエが導き出した答えだった。

 傍から見れば馬鹿な理屈だと、自己満足の意地を張っているだけだと見られるだろう。だがクロエは自分が望もうが望むまいが軍閥貴族だ。王のために戦えと、そのためにお前を生み育てたのだと前当主の父に言われて育った。クロエにはこんな考え方しかできなかった。できずにここまで来てしまった。

「間もなく王女派連合の軍勢がここへ来ます。ランセル王国の地を去られるのならば、お早く出発された方が良いかと。ここは私が時間を稼ぎます」

「……すまない。俺はお前たちの期待に応えられなかった。お前の献身は忘れない。クロエ・タジネット子爵」

「……さあ、お急ぎください」

 カドネの謝罪にも謝意にも答えず、クロエはそれだけ言った。

 寒く険しい山道へと入っていくカドネたちを、クロエは見送る。残りわずかな供を連れた、戦いにことごとく敗れた王の惨めな背中を見守る。

 彼らの姿が見えなくなったところで、クロエは後ろを振り返った。

 いよいよ国を捨てるカドネにこの先も付き従うことはできない。だが、レスティオ山地の南側は一応はランセル王国の領土であり、カドネたちは一応はまだランセル王国内にいる。まだカドネは王だ。

 だから、自分はここで王女派連合の追撃を、一人で防ぐ。これもまた幼稚で馬鹿馬鹿しい、自分だけに都合のいい理由付けだ。思わず口の端が歪む。これはただ、自分が軍閥貴族らしく、タジネット子爵家の人間らしく祖国の大地で死ぬための理屈だ。

 日が傾き、午前が午後になり、王女派連合の追手が現れた。その数は数百、いや千を超えるだろう。

 だが、山道に続くのは森を切り開いた道で、幅はさほど広くない。千の兵が一気に押し寄せることはできない。幸い自分は優れた水魔法の才を持っている。時間稼ぎくらいはできるだろう。

 水魔法を上手く使えば、相手を殺さずに足止めする方法はいくらでもある。もはや同胞を殺す必要はないし、殺したくもない。討ち取られる瞬間まで、時間を稼げばいいのだ。

 クロエから数十メートルの距離を置いて、追手の軍勢が停止する。

「私はタジネット子爵家当主、クロエ・タジネットだ! ここを押し通ろうとする者は、カドネ・ランセル1世陛下に仇なす逆賊と見なす!私が生きているうちは、一兵たりとも先へは行かせぬ!」

 剣を抜き、高らかに宣言する。この国ではもはやカドネに与する者こそが逆賊扱いされると分かった上で言い切る。

 王女派連合軍は、クロエの宣言に武力で応えてくる。

 先頭集団、弓兵部隊がクロエに向けて弓を引く。百を超える矢が放たれる。クロエは自らを覆うように氷の壁を生み出して身を守る。どれほど剛腕の者が強弓を引こうと、石壁のごとく分厚い氷は貫けない。矢は全てクロエの生み出した氷の壁に阻まれるか、狙いを外れてクロエの周辺の地面に落ちる。

 遠距離からは仕留めきれないと見た王女派連合軍は進撃してくる。槍を構え、剣を抜き、前進してくる。

 それに対してクロエは、ただ大量の水を生み出した。

 山地に続くのもあって、この道は緩やかな坂になっている。クロエが生み出した水は塊となって、勢いよく坂道を下る。膝よりも高い水流に襲われ、王女派連合軍の兵士たちは前進するどころか立つこともままならずに転んでいく。

 このまま全ての敵を押し流してしまえ。そう思ってさらに多くの水を生む。土や泥を巻き込んで濁流となった大量の水は、そのまま後方で騎乗している王女派連合軍の指揮官たちのもとまで到達――する前に、突如として出現した土壁によって阻まれた。

 長い距離を下るうちに左右の森に溢れ出し、勢いの衰えていた水流は、土壁に当たってあっけなく横に流れていく。

「……そう簡単にはやられてくれないか」

 呟いて、苦々しい笑みを浮かべるクロエ。

 カドネ本人を追ってくるくらいだから、敵も手練れ揃いなのだろう。優秀な魔法使いも随行しているらしい。

 と、水流を阻んだ土壁の後ろから、一人の騎士が飛び上がった。人間の跳躍ではあり得ない高度まで舞い、そのまま空中を駆けてくる。飛行できるほどの技量を持った風魔法使いまで連れているらしい。自分一人を相手に大盤振る舞いだなとクロエは内心で笑う。

 クロエは空中に手を掲げ――霧状に熱湯を生み出す。水魔法使いは氷を生み出せるように、同じ要領で湯も生み出せる。魔力消費量は多くなるが、火傷するほどまで温度を上げることも可能だ。

 爆発的に噴き出した熱い蒸気の直撃を受けて、飛んできた風魔法使いがたまらず下がる。そこへクロエはすかさず氷のつぶてを広範囲に散らばるように撃ち出し、それをもろに浴びた風魔法使いは飛行の勢いを失い、森の中に墜ちていった。落下の勢いを魔法で減速させていたようなので、死んではいまい。

 そうこうしているうちに、水で転ばされた兵士たちも戦線に復帰する。ぬかるんだ道を苦労しながら進み、左右の森に流された兵士はそのままクロエの側面に回りこむように森の中を移動してくる。

 正面と左右から兵士に包囲されていく。こうなっては相手を殺さずに押し留めるのは至難の業だろう。

「……ふっ」

 クロエは不敵な笑みを浮かべた。どうせもう死ぬのだ。ならば語り草になるような大技を放って死んでやる。

 クロエは片膝をついてしゃがみ、地面に両手で触れる。そして、周囲に向けて一気に魔力を放出する。

 クロエの役目は時間稼ぎだ。追手の足止めだ。なら、彼らを氷で覆って動けなくさせてしまえばいい。

 兵士の全身を覆ったりしては窒息死させてしまうので、膝より少し下あたりまでが氷で覆われるように、今立っている道とその周囲の森までを魔力で包み、一気に氷を生み出す。

 瞬間、強烈な頭痛がクロエを襲う。あまりにも大量の魔力を一度に使用した負担が肉体に圧しかかる。

 それでもクロエは魔法の発動を止めない。頭が割れるような痛みが走り、鼻から血が溢れ、目からも血の涙が流れるのを感じながら魔法を放つ。

 そして、魔法が完成し、辺りを氷が覆った。驚愕の表情を浮かべる王女派連合軍兵士たちの足を氷が包み、動きを封じている。

 ざっと見て、足元を凍らせられた兵士はクロエに接近していた数百人といったところだ。さすがに全軍は無理だったか。

 たった一人の魔法使いによる足止めの成果としては十分だろう。いい死に様だ。魔力枯渇によって薄れゆく意識の中で、クロエはそう思う。

 気絶しているうちに首を取られるだろう。ここで終わりだ。

 限界を迎えて、クロエ・タジネットは意識を手放した。
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