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第九章 アールクヴィスト領は平和
第212話 夏が過ぎ
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八月下旬。ロードベルク王国東部への兵器輸出の準備で多少の慌ただしさはありながらも、アールクヴィスト領は平和な日々を謳歌していた。
移民と奴隷の増加によって人口は2500人を超え、領軍の兵数も順調に増加。正規軍も予備役もまだ定員を満たすには至らないが、一部の見習い兵士やクレイモアの新人たちが一応は一人前になるなど、着実に規模拡充を成していた。
領都ノエイナの人口は2000人に迫り、鉱山村キルデも人口300人以上に。現在四つある開拓村もそれぞれ農村として自立を果たしつつあり、「食糧生産拠点の分散」という狙いも達成されている。
そんなアールクヴィスト領の領主ノエインが、個人的に今最も関心を持っているのが、我が子の成長だ。
「さあー休憩の時間だよー。愛しの妻と息子に会いに来たよー」
平日の午後。屋敷二階の領主執務室からマチルダと共に一階の居間へと降りてきたノエインは、相好を崩しながらクラーラと彼女の抱く赤ん坊に近づく。
「あらあら、またお父様が会いに来られましたよ。今日だけでもう三度目ですねえ」
抱きかかえた我が子にそう語りかけて苦笑しながらも、クラーラは赤ん坊の顔をノエインの方に向けた。
息子が生まれてからのノエインは、仕事の休憩時間だと言っては日に何度も執務室から居間にやってきて、妻と我が子と触れ合っている。
「さあエレオス、お父さんに顔を見せておくれぇ」
ノエインにとっては世継ぎとなるこの赤ん坊には、エレオスという名が与えられた。エレオス・アールクヴィストだ。
古典語で「慈悲」という意味を持つこの名前には、次代の領主として領民への深い慈愛を持った人間に育ってほしいというノエインとクラーラの思いが込められている。
当然ながら自身の名前の由来などまだ理解できないエレオスは、しまりのない笑顔を自分に向けてくる父親を、興味深そうにじっと見つめていた。
「今は起きてるんだね」
「ええ。ちょうどさっきお乳をあげたところでしたから。また少ししたら眠ってしまうでしょうけど……」
まだ生後二か月足らずのエレオスは、当然ながら飲んで寝てをくり返す生活だ。ノエインが仕事を休憩して息子のもとに来ても毎回都合よく起きてくれているわけではなく、今回はちょうどいいタイミングで顔を見られて幸運だとノエインは思った。
貴族の子は実母ではなく乳母に育てられる場合が多いが、クラーラはせめて我が子が赤ん坊のうちはできるだけ自分が育てたいと考えた。ノエインも彼女の意思を尊重し、乳母は雇わず手伝い役を屋敷に呼ぶに留めている。警備の関係もあって、手伝い役は従士家の人間であるマイ、ジーナ、ミシェルが交代で務めてくれていた。
「僕も抱いていい?」
「ええ、もちろんです……どうぞ」
クラーラからエレオスを受け取り、頭と背中に手を回してしっかりと抱きかかえるノエイン。毎日一回はこうして我が子を抱きかかえているので、手つきも慣れたものだ。
「……はあぁ、極上の時間。疲れも吹き飛ぶね」
我が子の体温と、赤ん坊特有のふんわり甘い匂いを感じながらだらしなく笑う。その様子をクラーラは笑顔で見守り、ノエインを挟んだ反対ではマチルダも主人とその息子の触れ合いを微笑ましく見ていた。
マチルダから見ても、エレオスは可愛いと思う。
これまでノエイン以外の存在を可愛いなどと思ったことはなく、従士たちの子どもを見ても正直「子どもだ」としか思えなかったマチルダだが、ノエインの血を引き、顔立ちからも彼の子なのだと見て取れるエレオスは、確かに可愛いと感じる。
自分もノエインと一緒にこの子を守りたいと思える。この子の成長を見守り、自分にできることがあれば教え導きたいと思える。
自分にとって唯一絶対の存在であるノエインに血を分けた子どもが生まれたら、自分はその子のことをどう思うのだろうと未知数に感じていた部分もあったマチルダだが、エレオスに愛情と言っていい気持ちを感じられることに今は安堵していた。自分は一生経験しないが、母親になるとはこのような感覚なのだろうかと考える。
「……ほら、マチルダも抱っこする?」
「……はい、是非」
微笑みながら問いかけてきたノエインに頷いて、今度はマチルダがエレオスを抱く。自分を抱える相手をやはり興味深げにじっと見つめてくるエレオスを見て、マチルダは自然と慈愛に満ちた表情になる。
「こうして見ると、エレオスはお母さんが二人もいるみたいだね。いいなあ」
「ふふふ、確かにそうですね」
ノエインのそんな呟きを聞いてクラーラが笑った。マチルダも小さく照れ笑いを見せる。
エレオスはなおも、マチルダに興味深げな視線を向ける。その視線はマチルダの顔、そしてその下の胸に降り――何を思ったのか、その胸に小さな手を伸ばしてわしっと掴んだ。
目の前の、シャツに包まれた大きな膨らみが何なのかを観察するように、エレオスはマチルダの胸を触る。というか揉む。
「……」
妊娠と出産を経たクラーラのものよりもなお大きい自分の胸を目の前に、物珍しさを感じているのだろうか。そう思いながら、マチルダは黙って胸を掴まれる。
横目でノエインとクラーラを見やると、眠そうに目を閉じてあくびをするクラーラにノエインが「夜中も授乳で起きるから眠いよね」と語りかけているところだった。ちょうど二人ともこちらを見ていない。
と、観察に飽きたのか、エレオスがマチルダの胸から手を離した。そして今度はマチルダの頭を見ながら、そこに手を伸ばすようにぐーぱー握っている。
マチルダはこの国では珍しく、艶やかな黒い髪を持っている。この黒髪が気になるのだろうか。そう思ってマチルダがエレオスに顔を寄せると――エレオスはマチルダの髪よりもさらに上、頭から生えた兎耳に手を伸ばした。そのまま遠慮なく手で掴んで引き寄せる。
「っ…………」
一瞬驚いたが、マチルダは努めて無言を貫く。
普人と同じように、いや普人以上に耳は獣人にとって敏感な感覚器官であり、それを撫でるというのは極めて親しい者にしか許されない。しかし、エレオスは赤ん坊なのでそんなことは理解できない。
興味の赴くままにマチルダの兎耳を触り――そのままあんむと口に咥えて噛んだ。
「~~!」
甘噛み程度の強さとはいえ、思わぬ奇襲にマチルダは妙な声が出そうになったのをこらえる。こんな大胆な行為は夜にベッドの中でノエインにしかされない。
「あらっ、マチルダさんが大変っ」
「あっ、こらこらエレオスっ」
と、そこで事態に気づいたクラーラが声を上げ、ノエインがマチルダからエレオスを受け取り、以てようやくマチルダはエレオスの好奇心から解放された。
「ごめんマチルダ、よそ見してた……大丈夫?」
「……大丈夫です、ノエイン様」
あまり大丈夫そうではない声色でマチルダが答えると、ノエインも、その隣のクラーラも苦笑する。
「まったく……そういうことは大きくなってから、自分の恋人や奥さんにするものだぞーエレオス」
「まあ、生後二か月も経ってない息子に父親がする助言じゃありませんね」
ノエインが言うとクラーラが少し呆れた顔で突っ込み、一方のマチルダはようやく呼吸を整えて落ち着いた。
当たり前だがこれらの意味が分からないエレオスは、せっかく興味を持った兎耳を取り上げられたせいか少し不満げな表情だ。
王歴217年の夏。アールクヴィスト領は平和だった。
・・・・・
九月の中旬。パラス皇国との戦争に備えてロードベルク王国東部に輸出するバリスタとクロスボウ、それらの矢が全て完成し、アールクヴィスト子爵家とスキナー商会による隊商が出発する日が来た。
「北東部経由で南東部まで行って、そこから帰って来て……冬が本格化する前には戻れそうでよかったね」
「そうですね。復路は往路ほど時間がかからないでしょうから……行きに一か月強、帰りに一か月として、十一月下旬にはアールクヴィスト領に着きたいですね」
ノエインが声をかけると、アールクヴィスト子爵家からの遣いとして隊商に同行する従士バートが答える。
隊商の集結場所は、バリスタとクロスボウの積み込みなどもあるため領軍本部の敷地内だった。輸出品を中心に大量の荷が合計八台もの馬車に積み込まれ、今は積み荷の最終確認が行われている。
ノエインも領主として彼らを激励し、出発を見送るためにここへ来ていた。他にも従士長ユーリや、バートの妻のミシェルなども見送りに出ている。
「今は国内の治安も安定しているから道中の危険は少ないだろうが、くれぐれも気をつけてな。注文通りに兵器を届けなければ閣下とアールクヴィスト家の評価が損なわれるし、もちろんお前たちの身の安全が大切だというのもある」
「承知しております。必ずや役目を果たし、帰還いたします……この後レトヴィクでマイルズ商会とも合流するわけですし、俺たちと合わせて馬車十台以上の隊商を襲うような野盗も魔物もいないでしょう。フィリップさんやベネディクトさんの雇った護衛もいるわけですし」
従士長ユーリの言葉にまずは軍人然とした態度で返してから、少し口調を崩して言うバート。
今回の兵器輸出では、アールクヴィスト領軍から同行するのはバート直属の部下が数人だけだ。隊商の護衛はフィリップのスキナー商会や、ベネディクトのマイルズ商会が雇う傭兵団が務める。
これには今はアールクヴィスト領軍の人員をあまり領外に出せないという理由もあるが、フィリップやベネディクトの立場も考えてのことだった。彼らにも商品輸送などで懇意にしている傭兵がおり、そうした傭兵に長期で稼げる護衛の仕事を回して繋がりを保ちたいという事情がある。
「バートさん、お待たせしました。いつでも発てます」
ノエインたちのところへやって来て、バートに声をかけたのはフィリップだ。今回はスキナー商会にとっても大仕事ということで、商会長の彼も王国東部へと赴く。彼にとってこの輸送は、流通ルートを広げて遠くの商会に顔と名前を売る絶好の機会でもある。
「分かりました。出発前に家族と少し話してきても?」
「ええ、もちろんです……アールクヴィスト閣下も、皆様も、お見送り感謝いたします」
バートに頷いたフィリップは、ノエインたちの方に顔を向ける。
「フィリップ、気をつけて行ってきてね。せっかくここまで育ってくれた御用商人に万が一のことがあったら困るよ?」
「承知しております。この仕事で商人としてまた一歩成長し、今後も閣下のお役に立たせていただくつもりですのでご安心ください」
ノエインが冗談交じりに言うと、フィリップも笑って返す。二人が話している間に、バートは娘のアマンダを抱きかかえた妻ミシェルと言葉を交わし、妻と娘にキスをしていた。
家族にしばしの別れを告げたバートは、再びノエインたちの前に来て敬礼する。
「それでは閣下、行ってまいります」
それに対してノエインも、領主としての態度で答えた。
「ああ。君たちが役目を果たし、成果を上げて帰ってくることを期待しているよ」
季節が夏から秋へと移り変わっていく中で、隊商は領都ノエイナを出発した。
移民と奴隷の増加によって人口は2500人を超え、領軍の兵数も順調に増加。正規軍も予備役もまだ定員を満たすには至らないが、一部の見習い兵士やクレイモアの新人たちが一応は一人前になるなど、着実に規模拡充を成していた。
領都ノエイナの人口は2000人に迫り、鉱山村キルデも人口300人以上に。現在四つある開拓村もそれぞれ農村として自立を果たしつつあり、「食糧生産拠点の分散」という狙いも達成されている。
そんなアールクヴィスト領の領主ノエインが、個人的に今最も関心を持っているのが、我が子の成長だ。
「さあー休憩の時間だよー。愛しの妻と息子に会いに来たよー」
平日の午後。屋敷二階の領主執務室からマチルダと共に一階の居間へと降りてきたノエインは、相好を崩しながらクラーラと彼女の抱く赤ん坊に近づく。
「あらあら、またお父様が会いに来られましたよ。今日だけでもう三度目ですねえ」
抱きかかえた我が子にそう語りかけて苦笑しながらも、クラーラは赤ん坊の顔をノエインの方に向けた。
息子が生まれてからのノエインは、仕事の休憩時間だと言っては日に何度も執務室から居間にやってきて、妻と我が子と触れ合っている。
「さあエレオス、お父さんに顔を見せておくれぇ」
ノエインにとっては世継ぎとなるこの赤ん坊には、エレオスという名が与えられた。エレオス・アールクヴィストだ。
古典語で「慈悲」という意味を持つこの名前には、次代の領主として領民への深い慈愛を持った人間に育ってほしいというノエインとクラーラの思いが込められている。
当然ながら自身の名前の由来などまだ理解できないエレオスは、しまりのない笑顔を自分に向けてくる父親を、興味深そうにじっと見つめていた。
「今は起きてるんだね」
「ええ。ちょうどさっきお乳をあげたところでしたから。また少ししたら眠ってしまうでしょうけど……」
まだ生後二か月足らずのエレオスは、当然ながら飲んで寝てをくり返す生活だ。ノエインが仕事を休憩して息子のもとに来ても毎回都合よく起きてくれているわけではなく、今回はちょうどいいタイミングで顔を見られて幸運だとノエインは思った。
貴族の子は実母ではなく乳母に育てられる場合が多いが、クラーラはせめて我が子が赤ん坊のうちはできるだけ自分が育てたいと考えた。ノエインも彼女の意思を尊重し、乳母は雇わず手伝い役を屋敷に呼ぶに留めている。警備の関係もあって、手伝い役は従士家の人間であるマイ、ジーナ、ミシェルが交代で務めてくれていた。
「僕も抱いていい?」
「ええ、もちろんです……どうぞ」
クラーラからエレオスを受け取り、頭と背中に手を回してしっかりと抱きかかえるノエイン。毎日一回はこうして我が子を抱きかかえているので、手つきも慣れたものだ。
「……はあぁ、極上の時間。疲れも吹き飛ぶね」
我が子の体温と、赤ん坊特有のふんわり甘い匂いを感じながらだらしなく笑う。その様子をクラーラは笑顔で見守り、ノエインを挟んだ反対ではマチルダも主人とその息子の触れ合いを微笑ましく見ていた。
マチルダから見ても、エレオスは可愛いと思う。
これまでノエイン以外の存在を可愛いなどと思ったことはなく、従士たちの子どもを見ても正直「子どもだ」としか思えなかったマチルダだが、ノエインの血を引き、顔立ちからも彼の子なのだと見て取れるエレオスは、確かに可愛いと感じる。
自分もノエインと一緒にこの子を守りたいと思える。この子の成長を見守り、自分にできることがあれば教え導きたいと思える。
自分にとって唯一絶対の存在であるノエインに血を分けた子どもが生まれたら、自分はその子のことをどう思うのだろうと未知数に感じていた部分もあったマチルダだが、エレオスに愛情と言っていい気持ちを感じられることに今は安堵していた。自分は一生経験しないが、母親になるとはこのような感覚なのだろうかと考える。
「……ほら、マチルダも抱っこする?」
「……はい、是非」
微笑みながら問いかけてきたノエインに頷いて、今度はマチルダがエレオスを抱く。自分を抱える相手をやはり興味深げにじっと見つめてくるエレオスを見て、マチルダは自然と慈愛に満ちた表情になる。
「こうして見ると、エレオスはお母さんが二人もいるみたいだね。いいなあ」
「ふふふ、確かにそうですね」
ノエインのそんな呟きを聞いてクラーラが笑った。マチルダも小さく照れ笑いを見せる。
エレオスはなおも、マチルダに興味深げな視線を向ける。その視線はマチルダの顔、そしてその下の胸に降り――何を思ったのか、その胸に小さな手を伸ばしてわしっと掴んだ。
目の前の、シャツに包まれた大きな膨らみが何なのかを観察するように、エレオスはマチルダの胸を触る。というか揉む。
「……」
妊娠と出産を経たクラーラのものよりもなお大きい自分の胸を目の前に、物珍しさを感じているのだろうか。そう思いながら、マチルダは黙って胸を掴まれる。
横目でノエインとクラーラを見やると、眠そうに目を閉じてあくびをするクラーラにノエインが「夜中も授乳で起きるから眠いよね」と語りかけているところだった。ちょうど二人ともこちらを見ていない。
と、観察に飽きたのか、エレオスがマチルダの胸から手を離した。そして今度はマチルダの頭を見ながら、そこに手を伸ばすようにぐーぱー握っている。
マチルダはこの国では珍しく、艶やかな黒い髪を持っている。この黒髪が気になるのだろうか。そう思ってマチルダがエレオスに顔を寄せると――エレオスはマチルダの髪よりもさらに上、頭から生えた兎耳に手を伸ばした。そのまま遠慮なく手で掴んで引き寄せる。
「っ…………」
一瞬驚いたが、マチルダは努めて無言を貫く。
普人と同じように、いや普人以上に耳は獣人にとって敏感な感覚器官であり、それを撫でるというのは極めて親しい者にしか許されない。しかし、エレオスは赤ん坊なのでそんなことは理解できない。
興味の赴くままにマチルダの兎耳を触り――そのままあんむと口に咥えて噛んだ。
「~~!」
甘噛み程度の強さとはいえ、思わぬ奇襲にマチルダは妙な声が出そうになったのをこらえる。こんな大胆な行為は夜にベッドの中でノエインにしかされない。
「あらっ、マチルダさんが大変っ」
「あっ、こらこらエレオスっ」
と、そこで事態に気づいたクラーラが声を上げ、ノエインがマチルダからエレオスを受け取り、以てようやくマチルダはエレオスの好奇心から解放された。
「ごめんマチルダ、よそ見してた……大丈夫?」
「……大丈夫です、ノエイン様」
あまり大丈夫そうではない声色でマチルダが答えると、ノエインも、その隣のクラーラも苦笑する。
「まったく……そういうことは大きくなってから、自分の恋人や奥さんにするものだぞーエレオス」
「まあ、生後二か月も経ってない息子に父親がする助言じゃありませんね」
ノエインが言うとクラーラが少し呆れた顔で突っ込み、一方のマチルダはようやく呼吸を整えて落ち着いた。
当たり前だがこれらの意味が分からないエレオスは、せっかく興味を持った兎耳を取り上げられたせいか少し不満げな表情だ。
王歴217年の夏。アールクヴィスト領は平和だった。
・・・・・
九月の中旬。パラス皇国との戦争に備えてロードベルク王国東部に輸出するバリスタとクロスボウ、それらの矢が全て完成し、アールクヴィスト子爵家とスキナー商会による隊商が出発する日が来た。
「北東部経由で南東部まで行って、そこから帰って来て……冬が本格化する前には戻れそうでよかったね」
「そうですね。復路は往路ほど時間がかからないでしょうから……行きに一か月強、帰りに一か月として、十一月下旬にはアールクヴィスト領に着きたいですね」
ノエインが声をかけると、アールクヴィスト子爵家からの遣いとして隊商に同行する従士バートが答える。
隊商の集結場所は、バリスタとクロスボウの積み込みなどもあるため領軍本部の敷地内だった。輸出品を中心に大量の荷が合計八台もの馬車に積み込まれ、今は積み荷の最終確認が行われている。
ノエインも領主として彼らを激励し、出発を見送るためにここへ来ていた。他にも従士長ユーリや、バートの妻のミシェルなども見送りに出ている。
「今は国内の治安も安定しているから道中の危険は少ないだろうが、くれぐれも気をつけてな。注文通りに兵器を届けなければ閣下とアールクヴィスト家の評価が損なわれるし、もちろんお前たちの身の安全が大切だというのもある」
「承知しております。必ずや役目を果たし、帰還いたします……この後レトヴィクでマイルズ商会とも合流するわけですし、俺たちと合わせて馬車十台以上の隊商を襲うような野盗も魔物もいないでしょう。フィリップさんやベネディクトさんの雇った護衛もいるわけですし」
従士長ユーリの言葉にまずは軍人然とした態度で返してから、少し口調を崩して言うバート。
今回の兵器輸出では、アールクヴィスト領軍から同行するのはバート直属の部下が数人だけだ。隊商の護衛はフィリップのスキナー商会や、ベネディクトのマイルズ商会が雇う傭兵団が務める。
これには今はアールクヴィスト領軍の人員をあまり領外に出せないという理由もあるが、フィリップやベネディクトの立場も考えてのことだった。彼らにも商品輸送などで懇意にしている傭兵がおり、そうした傭兵に長期で稼げる護衛の仕事を回して繋がりを保ちたいという事情がある。
「バートさん、お待たせしました。いつでも発てます」
ノエインたちのところへやって来て、バートに声をかけたのはフィリップだ。今回はスキナー商会にとっても大仕事ということで、商会長の彼も王国東部へと赴く。彼にとってこの輸送は、流通ルートを広げて遠くの商会に顔と名前を売る絶好の機会でもある。
「分かりました。出発前に家族と少し話してきても?」
「ええ、もちろんです……アールクヴィスト閣下も、皆様も、お見送り感謝いたします」
バートに頷いたフィリップは、ノエインたちの方に顔を向ける。
「フィリップ、気をつけて行ってきてね。せっかくここまで育ってくれた御用商人に万が一のことがあったら困るよ?」
「承知しております。この仕事で商人としてまた一歩成長し、今後も閣下のお役に立たせていただくつもりですのでご安心ください」
ノエインが冗談交じりに言うと、フィリップも笑って返す。二人が話している間に、バートは娘のアマンダを抱きかかえた妻ミシェルと言葉を交わし、妻と娘にキスをしていた。
家族にしばしの別れを告げたバートは、再びノエインたちの前に来て敬礼する。
「それでは閣下、行ってまいります」
それに対してノエインも、領主としての態度で答えた。
「ああ。君たちが役目を果たし、成果を上げて帰ってくることを期待しているよ」
季節が夏から秋へと移り変わっていく中で、隊商は領都ノエイナを出発した。
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