魔物の森のハイジ

カイエ

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#1

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 恐怖で足が震えている。
 短距離走で鍛えたはずが、力を込めようとしても上手く力が入らない。これでは走れない。よたよた走っていては、男に追いつかれてしまう。
 あたしは一刻も早く走り出したい気持ちを抑えて、足に力を取り戻すために、あえてクラウチングスタイルを取る。
 
(On Your Mark……)
 
 足よ動け。試合のことを思い出せ。いつものように走り出せ。
 無駄なことのようにも思ったが、本気で走るためにあたしはあえてそれをした。
 
(Set……)
 
 足に力が戻るのがわかる。
 こうしている間にも、男が飛び出してくるのではないか。
 恐怖をねじ伏せる。
 
(Go!)
 
 そして矢のように飛び出す!
 あたしは短距離走の選手だが、長距離が苦手なわけではない。
 しばらく走れば、男から逃げ切れるだろう。
 
 恐ろしさのあまり、つい後ろを振り返る。無駄な動きだ。
 しかし今のところ、男が追いかけてくる様子はないようだ。
 気づいていないのか、それとも……
 
(いつでも追いつけると思っているのか)
 
 ゾッとした。
 何度頭から振り払っても、男に乱暴されている自分を想像してしまう。
 恐怖で体の力が抜けそうになる。
 挫けそうになる自分を叱咤する。
 
(冗談じゃない!)
(まだ恋人だってできたことがないのに!)
 
 必死になって走る。
 それでも走っているうちに、ちょっとずつ落ち着いてくるのがわかる。
 これくらい離れれば、さすがに追いつかれることはないのではないか。
 いや、もう少しはなれないと安心はできない。雪には足跡がついている。追おうと思えばできるはずだ。
 それにしても、革靴は走りづらい。それよりも雪が怖い。
 思ったよりは滑らずに済んでいるが、ぐんぐん体力を奪うのがわかる。
 
 そして、永遠に続くかと思った白樺の森を抜けた。
 しかし。
 
(そんな……!)
 
 絶望で足が止まる。
 森を抜けると、一面の白だった。
 はるか遠くに白樺の森が見えるが、見渡す限りの大雪原だ。
 
「何なのよ……」
 
 何なんだ、ここは。
 
「何なのよ……ッ!」
 
 ついさっきまで東京に居たはずなのに。
 
「パパ……! ママ……!」
 
 両親や友人、大好きだったコーチなど、色んな人の名前が、口をついて出る。
 
「パパ……! ママ……! さっちん……! 三浦先生……!誰でもいいから助けて……!」
 
 こんな、地平線が見えるそうな大雪原を逃げ惑っても、そのうち凍死するしかない。
 凍死するか、あの男におもちゃにされるか。
 
(選べるわけ無いでしょ、そんなの!)
 
 まだあの男に乱暴されると決まったわけではないが、あの恐ろしい形相を見る限り、紳士的な扱いは期待できそうもない。
 誰もいない広大な土地にポツンと建った小屋に監禁されて、一生を送ることを想像して、背筋が凍る。
 いや、背筋が冷たいのは、心理的なものだけではなかった。
 実際に身体から体温がどんどん奪われているのだ。
 
(下手に走るべきじゃなかった……汗のせいで体温が……)
 
 寒い。
 どうしよう。
 
 立ちすくんでいるままでは良くないだろう、そのくらいはわかる。
 しかし、どちらへ向かえばいいのだろう。
 大雪原に向かえば、凍死は免れないだろう。
 かといって、小屋に戻るなんて絶対にありえない。
 
 せめて、近くに別の……たとえば無人の小屋か何かがあればいいのだけれど。
 
(ううぅ、寒い……!)
 
 どうしようもなくて、ゆっくり森の近くを歩く。
 立ち止まっているとすぐ死んでしまいそうだった。
 雪混じりの風が冷たくて、手足が痛くなってきた。
 せめて、森の中に入れば少しくらい風を防いでくれないだろうか。
 
 森へ足を踏み入れる。
 森は、雪混じりとはいえまだ土が残っていて、これなら足跡を残さずに歩くこともできそうだった。
 あの男は未だに追っては来ていないようだが、少しでも痕跡を残さないほうが良いだろう。
 
 小一時間も歩くと、もはや身体が動かない。
 
(もっと動けると思ったんだけど……寒さってこんなに体力を奪うんだ!)
 
 短距離走なら都内でも悪くない記録を持っているのだ。
 だからもう少し体力があるつもりだった。
 しかし、冷気は容赦なくあたしの体力を奪う。
 
 森の中をさまよいながら、それでも少しでも小屋から離れる。
 そのうち本当に身体が動かなくなってきた。
 
(寒い……)
 
 白樺の幹は細く頼りない。
 少しは風を防いでくれるかと思ったら、全く役に立たなかった。
 森の奥にはところどころに背の低いこんもりとした藪もあって、あたしは寒さに耐えられずにそこに潜り込む。
 藪の中は、風こそ少しはマシだったが、暖かさなど一切感じなかった。
 雪を避けて地面に座ると、お尻からどんどん体温が奪われていくのがわかる。
 
(寒い……!!)
 
 奥歯がガチガチと鳴る。
 このまま死んでしまうのだろうか。
 もしかして、あたしはあのレストランで死んでしまって、ここが死後の世界なのだろうか。
 それなら、この不思議な状況だってなんとなく理解できる。
 
(こんな目に合うほど悪いことをした記憶はないんだけどな)
 
 良い子ではなかったかもしれないが、不良でもなかったつもりだ。
 両親には学費で迷惑をかけたかもしれないが、少なくとも仲は良かったし、家の手伝いだって少しは頑張っていた。
 
(なんでこんな事になったんだろう)
 
 きっと、このままあたしは凍死してしまうのだろう。
 あの恐ろしい男の好きにさせるくらいなら、ここで死んだほうがマシかもしれない。
 せめて苦しまずに死ねればいいな。
 
「ガサ、ガササッ……!」

 そんな事を考えて、うつらうつらしていると、周りで不審な音がした。

(!!)
(男が追いついてきた?!)
 
 どうしよう、今のあたしには逃げる力は残っていない。
 どうか、気づかずにどこかへ行って欲しい。
 
「「グルルルルル……」」
 
(!!)
 
 あの男じゃない! なにか別のものだ!
 ぷんと漂ってくる、獣っぽい匂い。
 そして、木々の隙間から、毛むくじゃらの犬のような足が見えた。
 
(狼?!)
 
 それも、一匹ではない、数匹がこの藪野周りをウロウロしているらしい。
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