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1・侍女見習い・イライザ
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「――見てみて,ポール兄さん!わたし,お城で侍女見習いとして働けることになったの!これが通知よ!」
春のある日,わたし――イライザ・バルディは,ご近所のルーザー家の玄関ドアを勢いよく開け,叫んだ。
ポール兄さんはわたしの九つ歳上の幼なじみで,わたしにとっては実の兄のような存在だ。
「そうか!よかったなあ,イライザ。頑張れ」
「うん!」
わたしが手渡した通知の手紙に目を通したポール兄さんが,一緒に喜んでくれた。
兄さんは一足先に,お城で兵士として働いている。実家に帰ってきていたのは,今日がたまたま非番だったからで,いつもはお城の敷地内の宿舎で生活しているのだ。
「何か困ったことがあったら,オレに相談しろよ。オレが守ってやるから」
「うん!ありがとう,兄さん!」
正直,わたし一人でお城で働くのは心細いと思っていたから,ポール兄さんもついていてくれるなら安心だ。
実はウチの両親がわたしのお城勤めを許してくれたのは,ポール兄さんも一緒だからというところが大きかったのだ。
この国の法律では,十八歳からが成人扱いで,就職にも結婚にも親の承諾は要らなくなるのだけれど。わたしは十七歳で,まだ未成年だから,両親のお許しが必要だったわけである。
レーセル城でのお勤めは,わたしの幼い頃からの憧れだった。特に,「帝国一の才女」と謳われたリディア皇帝の時代から後,女性の社会的地位はぐんと上がった。そんな中,レーセル城の女官になることは,この国の女性にとってのステータスになったのだ。
しかも,リディア皇帝の時代から後には,女官になるための身分の制限が撤廃され,門扉も昔よりずっと広くなったらしい。
かつては中級以上の貴族の娘に限定されていたのが,今ではありがたいことに労働階級でも,わたしみたいな下級貴族でも,試験にさえ受かれば女官としてお勤めができる。
……まあこれは,わたしの愛読書『レーセル帝国の歴史』の中に書かれていることだけれど。
「――そういえばイライザ,城に後宮があるのを知ってるか?」
「うん,まあ一応は。試験の時,お城の設備の問題にも出ていたし,歴史書にも出てくるからね。でも,イヴァン陛下の頃から全く利用されてないんでしょ?」
"後宮"とは,皇后陛下以外の皇帝の妻や側室の住まいとなっている場所のことだ。
でも,イヴァン陛下はすごい愛妻家で,リディア陛下の母君であるマリアン皇后さまをご病気で亡くされてからは,晩年まで新たな皇后さまや側室を迎えることなく,後宮も使われることがなかったらしい。
その後,リディア陛下が皇室を含むすべての一夫多妻を廃止されたから,後宮という場所は今となってはお城に"ある"というだけの場所と化している。もちろん廃墟というわけではなく,キチンとお手入れはされているらしいけれど。
「でも,ポール兄さん。どうしていきなり後宮の話なんか?」
「うん……。実はな,今の皇帝陛下とアン皇后さまとの間には,お子様ができないらしいんだ。それでな,近々『側室をお迎えになるんじゃないか』って,城中のもっぱらの噂でな」
リディア陛下がそうだったように,この国では女子でも皇太子になれる。それなのに,その女子すら誕生しないなんて……。
「それって,アン様にお子様ができないから,他の女性を側室に迎えてお世継ぎを産ませようってこと?そんなのおかしいわ!原因はアン様の方にあるとは限らないのに」
「オレに怒ってどうする。――まあ,アン様は病弱なお方だし,子供ができにくい体質ってこともあるだろうし。陛下の体質には何の問題もなかったらしいからな」
「えっ,そうなの?それじゃあ,数百年ぶりに後宮が使われるってことね」
数百年ぶりに迎えられる側室はどんな女性で,どんな風に陛下からのご寵愛を受けるんだろう――?
「ねえ,ポール兄さんは陛下にお目にかかったことあるの?」
現在の皇帝陛下は,あまり人前に姿をお見せにならないことで有名だ。わたしも,今までに一度もお目にかかったことがない。
でも,さすがにお城に仕えている兄さんなら,一度くらいはチラッとでも見かけたことくらいあるはず。……だけど。
「実はオレも,一度も実際にお目にかかったことはないんだ。だが,色々と噂は聞いてるぞ。年齢はオレとそんなに変わらないとか,背丈はそんなに高くないとか。アン皇后さまとは相思相愛だとか」
「へえ……」
「あ,あとな,普段からあんまりお城に居つかないとか」
「……はあ?」
最後に兄さんが言ったことの意味が掴めず,わたしは間の抜けた声を漏らした。
「何でも,よく城を抜け出しては,お忍びでレムルの町をウロウロしてるらしい」
"レムル"とはこの国の帝都であり,レーセル城の城下町でもある。
「……はあ。でも,皇帝陛下がそんな自由人で,この国は大丈夫なの?」
「まあ,大丈夫だろう。大臣がしっかり者だからな。陛下が外を出歩けるほど,この国が平和になったと思えば」
「……そうかもね」
兄さんみたいに前向きに考えれば安心かも。猫だって,天敵がいなければ路上をゴロゴロしていられるんだもの。それとほぼ同じ。……ん,ちょっと違う?
要するに,陛下の御身もこの国も安泰だってことだ。
「――それじゃ,オレはそろそろ宿舎に戻らないと。明日も朝から仕事だからな」
「えっ,もうそんな時間?……あ,ホントだ」
懐中時計を開いて時刻を確かめたら,もう夕方の五時になるところだった。宿舎での夕食は六時からと決まっている(と,ポール兄さんから聞いたことがある)。この家は帝都レムルから少し離れているので,お城まで戻るのに三十分はかかるのだ。
「イライザが正式に城で働くのは,確か来週からだったな?」
「うん,そうよ。来週の初めに任命式があるの」
お城の侍従や女官は年に一回,試験によって任命されることになっている。
「じゃ,しっかりやれ。何かあれば,オレが助けるよ」
「うん。じゃあまた,お城でね」
ということは,ポール兄さんにはこの先しばらく,非番の日がないってことか。
しばらく会えないのは淋しいけれど,来週からは同じ城内で働けるんだもの。ほんの数日,淋しいのをガマンすれば済むことだ。
――それにしても。
「皇帝陛下って,どんな方なのかしら?」
兄さんが宿舎に戻って行ってから,わたしは呟いた。
ポール兄さんの話を聞いた限り,陛下の人物像は謎だらけだ。
わたしも,お名前くらいは知っている。レオナルド・エルヴァ―ト陛下。わたしが歴史上で最も尊敬する女性皇帝リディア・エルヴァ―ト陛下の直系の子孫にあたる方で,彼女の夫デニス氏が隣国スラバットの血を引いていたため,そのご子息ジョルジュ陛下以降の皇帝陛下の瞳はみな茶色いという。
わたしも含めて純粋なレーセル人は青い瞳をしているから,珍しい茶色の瞳で見つめられたら,たちまちその魅力に引きこまれてしまうだろう。
「わたしもお城でバッタリ出くわしたら,恋に落ちたりしちゃうのかな……」
わたしはこの年齢まで,"恋"というものを経験したことが一度もない。ポール兄さんのことはもちろん大好きだけれど,それは"恋"とは全く別の感情だ。
ドキドキはしなくて,一緒にいるとホッとする。元々武術に長けた人だから,守ってもらえると思うと安心する。ただそれだけ。
もしもわたしの初恋の相手が,レオナルド陛下だったらどうしよう?それでもって,側室にわたしが選ばれてしまったら……?
側室の務めは,お世継ぎを産むこと。ということは,当然陛下と体の繋がりを持つということで……。
「……ってことは,わたしの"初めて"は陛下とかもしれないの!?どうしよう……?」
わたしはまだ起きてもいないことにうろたえたり,照れたりして忙しかった。――もちろんこれは全部,わたしの妄想が暴走しまくっているだけ,なのだけれど。
「ううん!まずは,お仕事に集中しなくっちゃ。せっかく憧れの職に就けるんだから」
わたしは頭をブンブン振って,とりあえず妄想を振り払った。
まだ成人になっていないのに,(ポール兄さんのおかげとはいえ)お父さんとお母さんからやっとお許しが出たんだ もの。まだしてもいない恋にうつつを抜かしている場合じゃない!
下級貴族の娘だからって,バカにされないように。お父さん達の誇りと尊厳を傷付けないように,しっかりやらなくっちゃ!
****
――気持ちを切り替えて数日後。任命式の日がやってきた。
「イライザ・バルディ。本日をもって,正式にあなたを,レーセル城所属の侍女見習いに任命致します。誠心誠意を尽くし,皇帝陛下と皇后さまにお仕えなさい」
女官長のナタリア・エトルリア様から任命状を受け取ったわたしは,感無量の笑顔で返事をした。
「はい。精一杯務めます!」
子供の頃からの夢が叶った。このお城でお勤めができるだけで,わたしは充分嬉しい。
でもこの後,もっと嬉しいことが……。
「皆さん,本日はおめでとう。わたくしからも,お祝い申し上げます」
物腰柔らかい高貴な二十代半ばの女性が,わたし達新入り女官の任命を祝って下さった。
「これは……,皇后さま!女官長として,私からもお礼申し上げます。誠にありがとうございます」
ナタリア様でさえ敬意を払う,この女性が……皇后さま!?
「初めまして,の者もいるかしら。わたくしは皇帝レオナルド陛下の妃,アン・ルイーズです。『皇后さま』と呼ばれるのはあまり好きではないので,気軽に『アン様』と呼んで下さいね」
アン様はお美しい方だけれど,ツンケンした感じは全くない。むしろ,朗らかな笑顔には親しみすら覚える。
ポール兄さんの話では,陛下との間にまだお子様ができないらしい。けれど,アン様は充分にお幸せそうに見える。きっと,陛下から大事にされているんだろうなと,見るだけで分かる。
「はっ,初めまして!わたしはイライザ・バルディと申します。アン様,これから,誠心誠意お仕え致します!」
アン様に元気いっぱいご挨拶してから,気合い入りすぎちゃったかな……と反省していたら。
「イライザね。よろしく。あなたの元気は,皆を明るくしそうですね」
アン様は笑顔でそう仰って下さった。本当に,お優しい方!
「はいっ!」
それだけで,わたしは俄然やる気が湧いてくる。このお城はわたしにとって最高の職場になる,とそう思えた。
任命式の後,わたし達はお互いの自己紹介をした。
この春お城に上がった女官見習いは,わたしを含めて全部で一〇人。歳はわたしより下の十六歳から二〇歳まで。同い歳の女の子も何人かいた。
「――イライザ,だったわよね?これからよろしく」
解散後,わたしと同じお部屋係になった,アリサ・バンシェールが気さくに声をかけてくれた。彼女もわたしと同じで,今年で十七歳になる。
「ええ,アリサ。こちらこそよろしく。一緒に頑張りましょうね!」
わたしも,笑顔でアリサに応じた。
「ええ。頑張りましょう」
彼女とは,いいお友達になれそうな気がした。
****
――お城で働き始めてから,数日後。
「ねえアリサ。陛下にお会いしたことある?」
わたしはアン様のお部屋の窓を拭きながら,ホウキで掃き掃除をしているアリサに訊ねてみた。
彼女は中級貴族の家柄の出身だけれど,気さくで優しい子だ。宿舎でもわたしと同室である。
「う~ん,ないわね。あたしも,どんな方なのか一度お目にかかりたいんだけど」
「そう……。わたしもなの」
ポール兄さんの話では,陛下は普段,城内ではめったに人前に姿を現さないらしい。だから,城の侍従でも陛下のご尊顔を知っている人はそうそういないんだとか。
それなら余計に,どんな方なのか知りたくなる。
「でも,アン様のご様子を見てたら,素敵な方だってことは分かるわ。お子様はできなくても,愛されているんだなあって」
わたしはうっとりと目を細める。だって,アン様はいつお会いしても,とてもお幸せそうだから。
「そうね。だからこそ,陛下が側室をお迎えになることを誰よりもお望みなのよ,アン様は」
「えっ?」
アリサのもたらした思わぬ情報に,わたしは勢いよく彼女を振り返った。一本の三つ編みにした長い金髪が,ブンッと風を切る。
「あら,知らなかった?陛下に側室を迎えることを提案なさったのは,他でもないアン様なのよ」
「そうなの?わたし,知らなかった」
さすがはアリサ。この城イチの情報通だ。
「アン様は,ご自分が子供を産めないことに責任を感じてらっしゃるのよ。で,他の女性に頼ってでも,陛下にお世継ぎを残して差し上げたいんだわ」
「はあ……,なるほど。それだけアン様の愛は深いってことね」
もちろん陛下に対してもそうだけれど,この国への愛もだ。
「そうなると,側室になる女性は責任重大ね」
お城に上がるまではわたしもそうなるかも……と妄想していたくせに,何だか自分とは縁のないことのように言うと,アリサに呆れられた。
「あんたねえ……。他人事みたいに言っているけど,その相手があんたになる可能性だってあるんだからね?」
「……へっ?ないわよ,わたしは!こんな平凡な下級貴族の娘を,陛下が見初められると思う?ありえない!」
「そこまでムキにならなくても……。あら」
アリサがわたしの腕を小突く。なによ,とわたしがドアの方を振り向くと……。
「イライザにアリサ。二人とも,いつもご苦労さま」
「あっ,アン様!もったいないお言葉です」
朗らかな笑顔の皇后アン様が,わたし達の仕事をわざわざ労って下さった。わたし達は頭を下げる。
「二人とも,頭をお上げなさい。わたくしは,あなた方にいつもとても感謝しているのよ。ありがとう」
この方が主なんて!わたしはこのお城の女官見習いになって本当によかった。いいお友達にも上司にも主にも恵まれて働けるんだもの!
他でもない皇后アン様からの激励を受け,わたしとアリサは張り切って仕事を再開させた。
春のある日,わたし――イライザ・バルディは,ご近所のルーザー家の玄関ドアを勢いよく開け,叫んだ。
ポール兄さんはわたしの九つ歳上の幼なじみで,わたしにとっては実の兄のような存在だ。
「そうか!よかったなあ,イライザ。頑張れ」
「うん!」
わたしが手渡した通知の手紙に目を通したポール兄さんが,一緒に喜んでくれた。
兄さんは一足先に,お城で兵士として働いている。実家に帰ってきていたのは,今日がたまたま非番だったからで,いつもはお城の敷地内の宿舎で生活しているのだ。
「何か困ったことがあったら,オレに相談しろよ。オレが守ってやるから」
「うん!ありがとう,兄さん!」
正直,わたし一人でお城で働くのは心細いと思っていたから,ポール兄さんもついていてくれるなら安心だ。
実はウチの両親がわたしのお城勤めを許してくれたのは,ポール兄さんも一緒だからというところが大きかったのだ。
この国の法律では,十八歳からが成人扱いで,就職にも結婚にも親の承諾は要らなくなるのだけれど。わたしは十七歳で,まだ未成年だから,両親のお許しが必要だったわけである。
レーセル城でのお勤めは,わたしの幼い頃からの憧れだった。特に,「帝国一の才女」と謳われたリディア皇帝の時代から後,女性の社会的地位はぐんと上がった。そんな中,レーセル城の女官になることは,この国の女性にとってのステータスになったのだ。
しかも,リディア皇帝の時代から後には,女官になるための身分の制限が撤廃され,門扉も昔よりずっと広くなったらしい。
かつては中級以上の貴族の娘に限定されていたのが,今ではありがたいことに労働階級でも,わたしみたいな下級貴族でも,試験にさえ受かれば女官としてお勤めができる。
……まあこれは,わたしの愛読書『レーセル帝国の歴史』の中に書かれていることだけれど。
「――そういえばイライザ,城に後宮があるのを知ってるか?」
「うん,まあ一応は。試験の時,お城の設備の問題にも出ていたし,歴史書にも出てくるからね。でも,イヴァン陛下の頃から全く利用されてないんでしょ?」
"後宮"とは,皇后陛下以外の皇帝の妻や側室の住まいとなっている場所のことだ。
でも,イヴァン陛下はすごい愛妻家で,リディア陛下の母君であるマリアン皇后さまをご病気で亡くされてからは,晩年まで新たな皇后さまや側室を迎えることなく,後宮も使われることがなかったらしい。
その後,リディア陛下が皇室を含むすべての一夫多妻を廃止されたから,後宮という場所は今となってはお城に"ある"というだけの場所と化している。もちろん廃墟というわけではなく,キチンとお手入れはされているらしいけれど。
「でも,ポール兄さん。どうしていきなり後宮の話なんか?」
「うん……。実はな,今の皇帝陛下とアン皇后さまとの間には,お子様ができないらしいんだ。それでな,近々『側室をお迎えになるんじゃないか』って,城中のもっぱらの噂でな」
リディア陛下がそうだったように,この国では女子でも皇太子になれる。それなのに,その女子すら誕生しないなんて……。
「それって,アン様にお子様ができないから,他の女性を側室に迎えてお世継ぎを産ませようってこと?そんなのおかしいわ!原因はアン様の方にあるとは限らないのに」
「オレに怒ってどうする。――まあ,アン様は病弱なお方だし,子供ができにくい体質ってこともあるだろうし。陛下の体質には何の問題もなかったらしいからな」
「えっ,そうなの?それじゃあ,数百年ぶりに後宮が使われるってことね」
数百年ぶりに迎えられる側室はどんな女性で,どんな風に陛下からのご寵愛を受けるんだろう――?
「ねえ,ポール兄さんは陛下にお目にかかったことあるの?」
現在の皇帝陛下は,あまり人前に姿をお見せにならないことで有名だ。わたしも,今までに一度もお目にかかったことがない。
でも,さすがにお城に仕えている兄さんなら,一度くらいはチラッとでも見かけたことくらいあるはず。……だけど。
「実はオレも,一度も実際にお目にかかったことはないんだ。だが,色々と噂は聞いてるぞ。年齢はオレとそんなに変わらないとか,背丈はそんなに高くないとか。アン皇后さまとは相思相愛だとか」
「へえ……」
「あ,あとな,普段からあんまりお城に居つかないとか」
「……はあ?」
最後に兄さんが言ったことの意味が掴めず,わたしは間の抜けた声を漏らした。
「何でも,よく城を抜け出しては,お忍びでレムルの町をウロウロしてるらしい」
"レムル"とはこの国の帝都であり,レーセル城の城下町でもある。
「……はあ。でも,皇帝陛下がそんな自由人で,この国は大丈夫なの?」
「まあ,大丈夫だろう。大臣がしっかり者だからな。陛下が外を出歩けるほど,この国が平和になったと思えば」
「……そうかもね」
兄さんみたいに前向きに考えれば安心かも。猫だって,天敵がいなければ路上をゴロゴロしていられるんだもの。それとほぼ同じ。……ん,ちょっと違う?
要するに,陛下の御身もこの国も安泰だってことだ。
「――それじゃ,オレはそろそろ宿舎に戻らないと。明日も朝から仕事だからな」
「えっ,もうそんな時間?……あ,ホントだ」
懐中時計を開いて時刻を確かめたら,もう夕方の五時になるところだった。宿舎での夕食は六時からと決まっている(と,ポール兄さんから聞いたことがある)。この家は帝都レムルから少し離れているので,お城まで戻るのに三十分はかかるのだ。
「イライザが正式に城で働くのは,確か来週からだったな?」
「うん,そうよ。来週の初めに任命式があるの」
お城の侍従や女官は年に一回,試験によって任命されることになっている。
「じゃ,しっかりやれ。何かあれば,オレが助けるよ」
「うん。じゃあまた,お城でね」
ということは,ポール兄さんにはこの先しばらく,非番の日がないってことか。
しばらく会えないのは淋しいけれど,来週からは同じ城内で働けるんだもの。ほんの数日,淋しいのをガマンすれば済むことだ。
――それにしても。
「皇帝陛下って,どんな方なのかしら?」
兄さんが宿舎に戻って行ってから,わたしは呟いた。
ポール兄さんの話を聞いた限り,陛下の人物像は謎だらけだ。
わたしも,お名前くらいは知っている。レオナルド・エルヴァ―ト陛下。わたしが歴史上で最も尊敬する女性皇帝リディア・エルヴァ―ト陛下の直系の子孫にあたる方で,彼女の夫デニス氏が隣国スラバットの血を引いていたため,そのご子息ジョルジュ陛下以降の皇帝陛下の瞳はみな茶色いという。
わたしも含めて純粋なレーセル人は青い瞳をしているから,珍しい茶色の瞳で見つめられたら,たちまちその魅力に引きこまれてしまうだろう。
「わたしもお城でバッタリ出くわしたら,恋に落ちたりしちゃうのかな……」
わたしはこの年齢まで,"恋"というものを経験したことが一度もない。ポール兄さんのことはもちろん大好きだけれど,それは"恋"とは全く別の感情だ。
ドキドキはしなくて,一緒にいるとホッとする。元々武術に長けた人だから,守ってもらえると思うと安心する。ただそれだけ。
もしもわたしの初恋の相手が,レオナルド陛下だったらどうしよう?それでもって,側室にわたしが選ばれてしまったら……?
側室の務めは,お世継ぎを産むこと。ということは,当然陛下と体の繋がりを持つということで……。
「……ってことは,わたしの"初めて"は陛下とかもしれないの!?どうしよう……?」
わたしはまだ起きてもいないことにうろたえたり,照れたりして忙しかった。――もちろんこれは全部,わたしの妄想が暴走しまくっているだけ,なのだけれど。
「ううん!まずは,お仕事に集中しなくっちゃ。せっかく憧れの職に就けるんだから」
わたしは頭をブンブン振って,とりあえず妄想を振り払った。
まだ成人になっていないのに,(ポール兄さんのおかげとはいえ)お父さんとお母さんからやっとお許しが出たんだ もの。まだしてもいない恋にうつつを抜かしている場合じゃない!
下級貴族の娘だからって,バカにされないように。お父さん達の誇りと尊厳を傷付けないように,しっかりやらなくっちゃ!
****
――気持ちを切り替えて数日後。任命式の日がやってきた。
「イライザ・バルディ。本日をもって,正式にあなたを,レーセル城所属の侍女見習いに任命致します。誠心誠意を尽くし,皇帝陛下と皇后さまにお仕えなさい」
女官長のナタリア・エトルリア様から任命状を受け取ったわたしは,感無量の笑顔で返事をした。
「はい。精一杯務めます!」
子供の頃からの夢が叶った。このお城でお勤めができるだけで,わたしは充分嬉しい。
でもこの後,もっと嬉しいことが……。
「皆さん,本日はおめでとう。わたくしからも,お祝い申し上げます」
物腰柔らかい高貴な二十代半ばの女性が,わたし達新入り女官の任命を祝って下さった。
「これは……,皇后さま!女官長として,私からもお礼申し上げます。誠にありがとうございます」
ナタリア様でさえ敬意を払う,この女性が……皇后さま!?
「初めまして,の者もいるかしら。わたくしは皇帝レオナルド陛下の妃,アン・ルイーズです。『皇后さま』と呼ばれるのはあまり好きではないので,気軽に『アン様』と呼んで下さいね」
アン様はお美しい方だけれど,ツンケンした感じは全くない。むしろ,朗らかな笑顔には親しみすら覚える。
ポール兄さんの話では,陛下との間にまだお子様ができないらしい。けれど,アン様は充分にお幸せそうに見える。きっと,陛下から大事にされているんだろうなと,見るだけで分かる。
「はっ,初めまして!わたしはイライザ・バルディと申します。アン様,これから,誠心誠意お仕え致します!」
アン様に元気いっぱいご挨拶してから,気合い入りすぎちゃったかな……と反省していたら。
「イライザね。よろしく。あなたの元気は,皆を明るくしそうですね」
アン様は笑顔でそう仰って下さった。本当に,お優しい方!
「はいっ!」
それだけで,わたしは俄然やる気が湧いてくる。このお城はわたしにとって最高の職場になる,とそう思えた。
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――お城で働き始めてから,数日後。
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わたしはアン様のお部屋の窓を拭きながら,ホウキで掃き掃除をしているアリサに訊ねてみた。
彼女は中級貴族の家柄の出身だけれど,気さくで優しい子だ。宿舎でもわたしと同室である。
「う~ん,ないわね。あたしも,どんな方なのか一度お目にかかりたいんだけど」
「そう……。わたしもなの」
ポール兄さんの話では,陛下は普段,城内ではめったに人前に姿を現さないらしい。だから,城の侍従でも陛下のご尊顔を知っている人はそうそういないんだとか。
それなら余計に,どんな方なのか知りたくなる。
「でも,アン様のご様子を見てたら,素敵な方だってことは分かるわ。お子様はできなくても,愛されているんだなあって」
わたしはうっとりと目を細める。だって,アン様はいつお会いしても,とてもお幸せそうだから。
「そうね。だからこそ,陛下が側室をお迎えになることを誰よりもお望みなのよ,アン様は」
「えっ?」
アリサのもたらした思わぬ情報に,わたしは勢いよく彼女を振り返った。一本の三つ編みにした長い金髪が,ブンッと風を切る。
「あら,知らなかった?陛下に側室を迎えることを提案なさったのは,他でもないアン様なのよ」
「そうなの?わたし,知らなかった」
さすがはアリサ。この城イチの情報通だ。
「アン様は,ご自分が子供を産めないことに責任を感じてらっしゃるのよ。で,他の女性に頼ってでも,陛下にお世継ぎを残して差し上げたいんだわ」
「はあ……,なるほど。それだけアン様の愛は深いってことね」
もちろん陛下に対してもそうだけれど,この国への愛もだ。
「そうなると,側室になる女性は責任重大ね」
お城に上がるまではわたしもそうなるかも……と妄想していたくせに,何だか自分とは縁のないことのように言うと,アリサに呆れられた。
「あんたねえ……。他人事みたいに言っているけど,その相手があんたになる可能性だってあるんだからね?」
「……へっ?ないわよ,わたしは!こんな平凡な下級貴族の娘を,陛下が見初められると思う?ありえない!」
「そこまでムキにならなくても……。あら」
アリサがわたしの腕を小突く。なによ,とわたしがドアの方を振り向くと……。
「イライザにアリサ。二人とも,いつもご苦労さま」
「あっ,アン様!もったいないお言葉です」
朗らかな笑顔の皇后アン様が,わたし達の仕事をわざわざ労って下さった。わたし達は頭を下げる。
「二人とも,頭をお上げなさい。わたくしは,あなた方にいつもとても感謝しているのよ。ありがとう」
この方が主なんて!わたしはこのお城の女官見習いになって本当によかった。いいお友達にも上司にも主にも恵まれて働けるんだもの!
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