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悲しい真相
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――翌日。わたしは出社する車内で、貢に前の日の夜に感じた小さな引っかかりについて話した。
「――ママね、きっと知ってるのよ。でも、何かワケがあってわたしには話せないんだと思うの。……わたしのカン、間違ってるかな?」
「加奈子さんが……、そうですか。いえ、絢乃さんのカンは正しいと思います。絢乃さんに言えなかったのはきっと、あなたのためを思ってなんじゃないでしょうか」
貢は唸るように、難しい顔でそう答えた。――それにしても、「わたしのため」とはどういうことだろう? それは訊いてはいけないことなのだろうか。
「うん、そうかもね。……ねえ、『永遠に叶わない恋』って、もうひとつの意味があるんじゃないかな。たとえば、相手が故人――つまり、もうこの世にいないとか」
そう言いながら、わたしの頭に浮かんだ人物はたった一人だった。小川さんの身近にいた男性で、母もよく知っている人物。しかも、故人……。
「やっぱり……、そうなの?」
わたしは前夜の自分の推理が間違っていないかもしれないと思うと、驚きを隠せなかった。だって、そんなのあまりにも悲しすぎて、彼女に救いがなさすぎるから。
「どうなさったんですか、絢乃さん?」
「……ううん。ゴメン、何でもない」
心配そうに訊いてくれた貢を安心させようとかぶりを振って見せたけれど、わたしの頭の中からはその人のことがこびりついて離れなかった。
……母がわたしに話せないはずだ。そんなことを聞けば、わたしがショックを受けることなんて目に見えていたから。
まさか、父が秘書の小川さんと不倫関係にあったかもしれない、なんて……。
* * * *
「――えっ!? 小川先輩の好きな人は、源一前会長!? 本当なんですか、それ」
会長室に着くと、わたしはドアをびっちり閉めてから貢にその話をした。その時の彼の反応がこれだった。
「桐島さん、声が大きいわよ! ……ホントかどうかはまだ分からないけど、可能性は高いと思う。それこそ前田さんよりも」
ドアが完全に閉まっていれば、この部屋での会話が室外に漏れ聞こえることはないのだけれど。大声でリアクションした貢をたしなめつつ、わたしは頷いた。
「まさか……、信じられません」
「わたしだって同じよ。――とにかく、もう一度村上さんにお話を聞いてみましょう」
――というわけで、わたしと貢は同じフロアの社長室のドアをノックした。
「――はい」
返事の声は秘書の小川さんではなく、村上さん自身の声だった。
「おはようございます。篠沢ですけど、入ってもいいですか? 例の件で、ちょっとお訊きしたいことがあって」
〝例の件〟と言うと、村上さんは理解してくれたようで、「どうぞ、お入りください」と返事があった。
「失礼します。朝から押しかけてゴメンなさいね」
「いえいえ。おはようございます、会長。桐島くんも。――小川くんは今、ちょっと席を外してましてね。どうぞ、おかけ下さい」
彼に応接スペースのソファーを勧められたので、わたしと貢は「ありがとうございます」とお礼を言って腰を下ろした。
「例の件というと、小川くんの件ですね? 彼女が席を外しているタイミングでよかったですよ。――それで、僕に訊きたいこととは?」
「小川さんの様子がおかしくなってからなんですけど。具体的に、彼女に気になる言動とか、心配になるような様子とかはありました?」
「気になる言動……、さて、どうでしたかね」
彼は首を傾げながら、一生懸命に思い出そうとして下さった。
「実はわたし、分かっちゃったんです。小川さんの好きな人が誰なのか。……でも、まだ確証がなくて」
「そうですか……。ああ、そういえば彼女、最近よく涙ぐんでいるようでね。僕が声をかけても、『何でもありません』としか言ってくれないんですよ」
「涙ぐんでた……? やっぱりそうですか。分かりました。ありがとうございます」
「お役に立ててよかった。僕のカンでは、彼女の想い人は故人だと思います。彼女はきっと、今すごく苦しんでいます。会長、どうか彼女を救ってあげて下さい。お願いします」
「貴方のカン、多分正しいですよ。彼女のことは任せて下さい」
彼にもう一度お礼を言って、わたしと貢は社長室を後にした。会長室に戻る途中、母に確認の電話をかけてみた。
「――もしもしママ? ママは小川さんの好きな人が誰なのか、前々から知ってたんだよね? わたしの推理では、それって多分」
『……そうよ。あなたのパパ』
「やっぱりね。ありがとう」
電話を切ったわたしの心の中は、不思議とスッキリしていた。ショックはあまり受けなくて、その代わりに何だか切ない気持ちがわき上がっていた。
小川さんは、一体どんな気持ちで父のことを想い続けていたのだろう? 父が亡くなってからも、ずっと……。
――会長室に戻ると、わたしは迅速に行動を開始した。
「今から小川さんをここに呼んで、話を聞くわ。広田室長には、わたしから連絡をしておく。それと、桐島さん。貴方にひとつお願いがあるの」
「何でしょうか?」
「前田さんを、ここまで連れてきてほしいの」
「分かりました。営業二課に行ってきます!」
彼が会長室を飛び出していくのを見届けてから、私は内線電話で秘書室を呼び出した。
* * * *
――十数分後、小川さんが会長室にやってきた。
「……会長、失礼します。室長から、会長が私に何かお話があると伺いましたけど。――あの、桐島くんは?」
「いらっしゃい、小川さん。桐島さんは今、別の用でちょっと外してるの。そうぞ、ソファーにでも座って楽にしてて。お茶淹れてくるから」
「えっ、会長が!? そんな……何だか申し訳ないです」
「いいから。わたしだって、お茶くらい淹れられるのよ。じゃあ待っててね」
――それから数分後、わたしは二人分の湯呑みを載せたトレーを抱えて、給湯室から会長室に戻った。会長室から直接給湯室と行き来できる動線を設けてくれた祖父に感謝だ。
「――はい、どうぞ」
わたしはトレーをローテーブルの上に置くと、自分の分の湯呑みを持って彼女の向かい側に腰を下ろした。
「ありがとうございます。頂きます。――それで……あの、私にお話というのは?」
「……あのね、実はわたし、村上社長から貴女のことで相談を受けたの。最近、貴女の様子がおかしい、って。よく涙ぐんでるそうね? それでね、わたしなりに原因を考えてみたの。貴女には好きな人がいて、しかもその相手はすでに亡くなってる人じゃないか、って。――違う?」
そこまで言うと、わたしは彼女の反応を窺ってみた。すると、お茶を啜っていた彼女はこっくりと頷いた。……やっぱりそうか。
「はい、その通りです。……じゃあ、その相手が誰なのかも、会長はもう分かってらっしゃるんですね?」
「ええ。もし間違ってたら申し訳ないんだけど……、その相手って、わたしの父でしょう?」
「…………はい。すみません、会長……」
彼女は肯定した後、ボロボロと泣き出した。これにはわたしの良心がチクリと痛んだ。本当にこれでよかったのだろうかと。
「貴女が謝る必要なんてない。わたしこそ、貴女を追い詰めるようなことしてゴメンなさい」
わたしは彼女に詫びながら、彼女の隣へ移ってその背中をさすり始めた。
「……母は知ってたの? 貴女の、父への気持ち」
「はい……。私から、奥さまには打ち明けたことがあったので。ですが、奥さまは許して下さいました。『あなたが夫を想っているだけなら構わない。夫はあなたの気持ちに応えないだろうから』と。……私も、会長のご家庭を壊すつもりなんてありませんでしたし、想っているだけで幸せでしたから」
「そう……」
彼女のいう〝会長のご家庭〟というのは、〝今会長であるわたしの家庭〟と〝当時会長だった父の家庭〟の両方の意味があったのだろう。
「私、源一会長がもう長く生きられないと分かった時、会社を辞めようとも思ったんです。もう私が会長のためにできることはないんだ、と思って……」
「……そうなの?」
その情報は初耳だったので、わたしが訪ね返すと彼女は頷いた。
「ですが、広田室長に引き留められました。『あなたはこの会社に必要な人だから』と。それで、村上社長の秘書の方が寿退職されることになったので、その後任を私が務めることになったんです」
「そうだったんだ……」
あの中途半端な時期の、急な配置換え。わたしにもやっと合点がいった。あれは、広田室長なりの小川さんへの励ましだったのだ。
「そうよ、小川さん。貴女にはまだ、貴女を必要としてくれてる人がいるの! 村上さんもそうだけど、もう一人」
「……えっ?」
わたしはそこで、男性二人の靴音に気づいた。貢がちゃんと彼を連れてきてくれたようだ。
「貴女の身近に、貴女のことを一途に想い続けてくれてる人がいるじゃない。ね、前田さん?」
「え…………!?」
驚きのあまり、会長室の執務スペースを振り返った彼女の涙は引っ込んでいた。
「前田くん! どうしてあなたがここにいるの!?」
「桐島くんに言われたんだ。『小川先輩を励ましてあげて下さい』ってな。お前が最近元気ないのは、俺も心配だったからさ」
前田さんは優しい笑顔で、でもちょっと照れ臭そうに彼女の疑問に答えてくれた。
彼の横で、貢が「会長に頼まれたんです」とあっさり種明かし。
「会長が……、そうだったんですね」
「ええ。多分、父が今生きてここにいても、きっと同じようなことをしてたと思うから」
前田さんの彼女への愛は、誠実でまっすぐだ。家庭のある自分を不毛に想い続けているよりずっと、彼女も幸せだろう。……父だってきっとそう思っていたはず。
「小川、だいたいの話は桐島くんから聞いた。源一会長のこと、すぐに忘れてくれとは言わねえよ。そんなのムリだろうから。……ただ、俺じゃダメかな?」
「……は?」
「今すぐ彼氏にしてくれとかそんなんじゃなくて。最初は友達からっていうか……、帰りに一緒にメシ食いに行くとかさ、そんなとこから始めるってのはどうかな?」
この告白の仕方からも、彼の誠実さが滲み出ているなぁとわたしは思った。小川さんは、好きだった人を永遠に失った。その心の痛みに寄り添う彼は、本当に彼女のことを大切に想っているんだなぁ、と。
「私でいいのかな。……でも、ありがと。私の方こそ、よろしく」
小川さんが、前田さんが差し出した手を握り返した。彼女の中で新たな恋が生まれつつあることを、わたしと貢は微笑ましく見守っていたのだった――。
* * * *
――二人が退出してから、わたしと貢はやっと普段の業務に入った。……けれど。
「何だか切ないね。小川さんも、前田さんも」
家庭があり、しかも鬼籍に入ってしまった父をずっと不毛に想い続けていた小川さん。そして、自分も彼女への恋心を抱きながらも、そんな彼女をもどかしく見守り続けていた前田さん。……小川さんだって、彼のことを何とも思っていなかったはずはないのだ。
「ですねぇ。僕なんて、小川先輩は大学時代からよく知っている人なんで、余計にそう思います。でも、先輩もこれでやっと前に進めるようになったんじゃないですかね」
「そうだね。だといいんだけどなぁ……」
あの二人は、なかなか縮まりそうで縮まらなかった距離の間でずっともがいていたのだ。……じゃあ、わたしたちは? パソコン作業に没頭するフリをしながら、わたしは貢の方をチラリと窺った。
わたしと貢はこの頃、交際を始めてからすでに四か月以上が経過していた。
付き合い始めたら二人の距離感なんてすぐに縮まると思っていたのに……。物理的には縮まったはずのわたしたちの距離だけれど、心の距離は離れつつあることを、わたし自身も感じていた。
どうしてこうなってしまったんだろう……。
チラ見していたつもりが、いつの間にか彼の顔を凝視してしまっていたらしい。ふと彼と目が合ってしまい、彼が首を傾げていた。
「……? どうかされました?」
「あ……、ううん! 何でもないの。……あ、ねえ桐島さん、この件についてなんだけど――」
わたしはとっさにごまかし、仕事についての相談でカムフラージュした。
――その後、わたしたちの絆が試されるような出来事が起こり、二人の関係は修復不可能になる寸前まで悪化するのだけれど、それはこの二ヶ月ほど先の秋のことだった。
E N D
「――ママね、きっと知ってるのよ。でも、何かワケがあってわたしには話せないんだと思うの。……わたしのカン、間違ってるかな?」
「加奈子さんが……、そうですか。いえ、絢乃さんのカンは正しいと思います。絢乃さんに言えなかったのはきっと、あなたのためを思ってなんじゃないでしょうか」
貢は唸るように、難しい顔でそう答えた。――それにしても、「わたしのため」とはどういうことだろう? それは訊いてはいけないことなのだろうか。
「うん、そうかもね。……ねえ、『永遠に叶わない恋』って、もうひとつの意味があるんじゃないかな。たとえば、相手が故人――つまり、もうこの世にいないとか」
そう言いながら、わたしの頭に浮かんだ人物はたった一人だった。小川さんの身近にいた男性で、母もよく知っている人物。しかも、故人……。
「やっぱり……、そうなの?」
わたしは前夜の自分の推理が間違っていないかもしれないと思うと、驚きを隠せなかった。だって、そんなのあまりにも悲しすぎて、彼女に救いがなさすぎるから。
「どうなさったんですか、絢乃さん?」
「……ううん。ゴメン、何でもない」
心配そうに訊いてくれた貢を安心させようとかぶりを振って見せたけれど、わたしの頭の中からはその人のことがこびりついて離れなかった。
……母がわたしに話せないはずだ。そんなことを聞けば、わたしがショックを受けることなんて目に見えていたから。
まさか、父が秘書の小川さんと不倫関係にあったかもしれない、なんて……。
* * * *
「――えっ!? 小川先輩の好きな人は、源一前会長!? 本当なんですか、それ」
会長室に着くと、わたしはドアをびっちり閉めてから貢にその話をした。その時の彼の反応がこれだった。
「桐島さん、声が大きいわよ! ……ホントかどうかはまだ分からないけど、可能性は高いと思う。それこそ前田さんよりも」
ドアが完全に閉まっていれば、この部屋での会話が室外に漏れ聞こえることはないのだけれど。大声でリアクションした貢をたしなめつつ、わたしは頷いた。
「まさか……、信じられません」
「わたしだって同じよ。――とにかく、もう一度村上さんにお話を聞いてみましょう」
――というわけで、わたしと貢は同じフロアの社長室のドアをノックした。
「――はい」
返事の声は秘書の小川さんではなく、村上さん自身の声だった。
「おはようございます。篠沢ですけど、入ってもいいですか? 例の件で、ちょっとお訊きしたいことがあって」
〝例の件〟と言うと、村上さんは理解してくれたようで、「どうぞ、お入りください」と返事があった。
「失礼します。朝から押しかけてゴメンなさいね」
「いえいえ。おはようございます、会長。桐島くんも。――小川くんは今、ちょっと席を外してましてね。どうぞ、おかけ下さい」
彼に応接スペースのソファーを勧められたので、わたしと貢は「ありがとうございます」とお礼を言って腰を下ろした。
「例の件というと、小川くんの件ですね? 彼女が席を外しているタイミングでよかったですよ。――それで、僕に訊きたいこととは?」
「小川さんの様子がおかしくなってからなんですけど。具体的に、彼女に気になる言動とか、心配になるような様子とかはありました?」
「気になる言動……、さて、どうでしたかね」
彼は首を傾げながら、一生懸命に思い出そうとして下さった。
「実はわたし、分かっちゃったんです。小川さんの好きな人が誰なのか。……でも、まだ確証がなくて」
「そうですか……。ああ、そういえば彼女、最近よく涙ぐんでいるようでね。僕が声をかけても、『何でもありません』としか言ってくれないんですよ」
「涙ぐんでた……? やっぱりそうですか。分かりました。ありがとうございます」
「お役に立ててよかった。僕のカンでは、彼女の想い人は故人だと思います。彼女はきっと、今すごく苦しんでいます。会長、どうか彼女を救ってあげて下さい。お願いします」
「貴方のカン、多分正しいですよ。彼女のことは任せて下さい」
彼にもう一度お礼を言って、わたしと貢は社長室を後にした。会長室に戻る途中、母に確認の電話をかけてみた。
「――もしもしママ? ママは小川さんの好きな人が誰なのか、前々から知ってたんだよね? わたしの推理では、それって多分」
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「今から小川さんをここに呼んで、話を聞くわ。広田室長には、わたしから連絡をしておく。それと、桐島さん。貴方にひとつお願いがあるの」
「何でしょうか?」
「前田さんを、ここまで連れてきてほしいの」
「分かりました。営業二課に行ってきます!」
彼が会長室を飛び出していくのを見届けてから、私は内線電話で秘書室を呼び出した。
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――十数分後、小川さんが会長室にやってきた。
「……会長、失礼します。室長から、会長が私に何かお話があると伺いましたけど。――あの、桐島くんは?」
「いらっしゃい、小川さん。桐島さんは今、別の用でちょっと外してるの。そうぞ、ソファーにでも座って楽にしてて。お茶淹れてくるから」
「えっ、会長が!? そんな……何だか申し訳ないです」
「いいから。わたしだって、お茶くらい淹れられるのよ。じゃあ待っててね」
――それから数分後、わたしは二人分の湯呑みを載せたトレーを抱えて、給湯室から会長室に戻った。会長室から直接給湯室と行き来できる動線を設けてくれた祖父に感謝だ。
「――はい、どうぞ」
わたしはトレーをローテーブルの上に置くと、自分の分の湯呑みを持って彼女の向かい側に腰を下ろした。
「ありがとうございます。頂きます。――それで……あの、私にお話というのは?」
「……あのね、実はわたし、村上社長から貴女のことで相談を受けたの。最近、貴女の様子がおかしい、って。よく涙ぐんでるそうね? それでね、わたしなりに原因を考えてみたの。貴女には好きな人がいて、しかもその相手はすでに亡くなってる人じゃないか、って。――違う?」
そこまで言うと、わたしは彼女の反応を窺ってみた。すると、お茶を啜っていた彼女はこっくりと頷いた。……やっぱりそうか。
「はい、その通りです。……じゃあ、その相手が誰なのかも、会長はもう分かってらっしゃるんですね?」
「ええ。もし間違ってたら申し訳ないんだけど……、その相手って、わたしの父でしょう?」
「…………はい。すみません、会長……」
彼女は肯定した後、ボロボロと泣き出した。これにはわたしの良心がチクリと痛んだ。本当にこれでよかったのだろうかと。
「貴女が謝る必要なんてない。わたしこそ、貴女を追い詰めるようなことしてゴメンなさい」
わたしは彼女に詫びながら、彼女の隣へ移ってその背中をさすり始めた。
「……母は知ってたの? 貴女の、父への気持ち」
「はい……。私から、奥さまには打ち明けたことがあったので。ですが、奥さまは許して下さいました。『あなたが夫を想っているだけなら構わない。夫はあなたの気持ちに応えないだろうから』と。……私も、会長のご家庭を壊すつもりなんてありませんでしたし、想っているだけで幸せでしたから」
「そう……」
彼女のいう〝会長のご家庭〟というのは、〝今会長であるわたしの家庭〟と〝当時会長だった父の家庭〟の両方の意味があったのだろう。
「私、源一会長がもう長く生きられないと分かった時、会社を辞めようとも思ったんです。もう私が会長のためにできることはないんだ、と思って……」
「……そうなの?」
その情報は初耳だったので、わたしが訪ね返すと彼女は頷いた。
「ですが、広田室長に引き留められました。『あなたはこの会社に必要な人だから』と。それで、村上社長の秘書の方が寿退職されることになったので、その後任を私が務めることになったんです」
「そうだったんだ……」
あの中途半端な時期の、急な配置換え。わたしにもやっと合点がいった。あれは、広田室長なりの小川さんへの励ましだったのだ。
「そうよ、小川さん。貴女にはまだ、貴女を必要としてくれてる人がいるの! 村上さんもそうだけど、もう一人」
「……えっ?」
わたしはそこで、男性二人の靴音に気づいた。貢がちゃんと彼を連れてきてくれたようだ。
「貴女の身近に、貴女のことを一途に想い続けてくれてる人がいるじゃない。ね、前田さん?」
「え…………!?」
驚きのあまり、会長室の執務スペースを振り返った彼女の涙は引っ込んでいた。
「前田くん! どうしてあなたがここにいるの!?」
「桐島くんに言われたんだ。『小川先輩を励ましてあげて下さい』ってな。お前が最近元気ないのは、俺も心配だったからさ」
前田さんは優しい笑顔で、でもちょっと照れ臭そうに彼女の疑問に答えてくれた。
彼の横で、貢が「会長に頼まれたんです」とあっさり種明かし。
「会長が……、そうだったんですね」
「ええ。多分、父が今生きてここにいても、きっと同じようなことをしてたと思うから」
前田さんの彼女への愛は、誠実でまっすぐだ。家庭のある自分を不毛に想い続けているよりずっと、彼女も幸せだろう。……父だってきっとそう思っていたはず。
「小川、だいたいの話は桐島くんから聞いた。源一会長のこと、すぐに忘れてくれとは言わねえよ。そんなのムリだろうから。……ただ、俺じゃダメかな?」
「……は?」
「今すぐ彼氏にしてくれとかそんなんじゃなくて。最初は友達からっていうか……、帰りに一緒にメシ食いに行くとかさ、そんなとこから始めるってのはどうかな?」
この告白の仕方からも、彼の誠実さが滲み出ているなぁとわたしは思った。小川さんは、好きだった人を永遠に失った。その心の痛みに寄り添う彼は、本当に彼女のことを大切に想っているんだなぁ、と。
「私でいいのかな。……でも、ありがと。私の方こそ、よろしく」
小川さんが、前田さんが差し出した手を握り返した。彼女の中で新たな恋が生まれつつあることを、わたしと貢は微笑ましく見守っていたのだった――。
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――二人が退出してから、わたしと貢はやっと普段の業務に入った。……けれど。
「何だか切ないね。小川さんも、前田さんも」
家庭があり、しかも鬼籍に入ってしまった父をずっと不毛に想い続けていた小川さん。そして、自分も彼女への恋心を抱きながらも、そんな彼女をもどかしく見守り続けていた前田さん。……小川さんだって、彼のことを何とも思っていなかったはずはないのだ。
「ですねぇ。僕なんて、小川先輩は大学時代からよく知っている人なんで、余計にそう思います。でも、先輩もこれでやっと前に進めるようになったんじゃないですかね」
「そうだね。だといいんだけどなぁ……」
あの二人は、なかなか縮まりそうで縮まらなかった距離の間でずっともがいていたのだ。……じゃあ、わたしたちは? パソコン作業に没頭するフリをしながら、わたしは貢の方をチラリと窺った。
わたしと貢はこの頃、交際を始めてからすでに四か月以上が経過していた。
付き合い始めたら二人の距離感なんてすぐに縮まると思っていたのに……。物理的には縮まったはずのわたしたちの距離だけれど、心の距離は離れつつあることを、わたし自身も感じていた。
どうしてこうなってしまったんだろう……。
チラ見していたつもりが、いつの間にか彼の顔を凝視してしまっていたらしい。ふと彼と目が合ってしまい、彼が首を傾げていた。
「……? どうかされました?」
「あ……、ううん! 何でもないの。……あ、ねえ桐島さん、この件についてなんだけど――」
わたしはとっさにごまかし、仕事についての相談でカムフラージュした。
――その後、わたしたちの絆が試されるような出来事が起こり、二人の関係は修復不可能になる寸前まで悪化するのだけれど、それはこの二ヶ月ほど先の秋のことだった。
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