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前を向け! ④
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――僕は会社へ戻るクルマの中で、改めて秘書室へ異動する意思を固めた。
「――もしもし、桐島です。小川先輩、今話して大丈夫ですか?」
ハンズフリーでスマホから先輩の携帯に電話をかけると、彼女はすぐに出てくれた。とっくに昼休みは終わっていて仕事中だったはずなのに大丈夫だろうか? と電話した張本人が心配したところで、「お前が言うんかい」という感じだが。
『桐島くん? ――うん、大丈夫だけど。ミッションは完了したの?』
「はい。今戻るところなんですけど。――俺、秘書室に異動しようと思います。で、先輩から人事部の山崎部長に根回ししてもらってもいいですか? ホントは自分で言わないといけないと思うんですけど、事情が事情なんで」
『事情が事情、って。つまり島谷さんからの嫌がらせが原因じゃないってことね?』
時間的に、小川先輩のところにも加奈子さんから連絡が行っているはずだと思い、僕はその「事情」を彼女に話した。
「そうなんです。……先輩のところにも連絡行きました? 会長が末期ガンで、あと三ヶ月しか生きられないらしいって」
『うん、奥さまから電話があったよ。……で?』
「これ、あくまでも最悪の事態を考えておかないと、っていう話で聞いてほしいんですけど。会長が亡くなった後、多分後継者になられるのは絢乃さんだと思うんです。で、俺はその時、秘書として絢乃さんのことを支えたいと思って。……ただ時間があまりないんで、正規の手続きを踏んでたら間に合わないと思うんです。だから……」
これじゃまるで、僕は源一会長が亡くなるのを待っているみたいな言い方だ。でも、僕には全然そんなつもりはなく、あくまで備えとしてそう決めたに過ぎないのだ。
『……分かった。それはあくまで、万が一の時に備えてってことね? で、正規の手順をすっ飛ばして異動したい、と。そういうことなら、あたしも力貸すわ。可愛い後輩の頼みだしね』
「えっ、ホントですか!?」
『うん。山崎部長の秘書の上村さんと親しいから、彼女から部長に話通しといてもらうね。桐島くんとしては早いほうがいいでしょ? 明日……は土曜日か。じゃあ週明けにでも面談セッティングしてもらう?』
「ええ、それで大丈夫です。先輩、あざっす!」
僕は小川先輩にお礼を言った。話の分かる先輩を持てて僕は幸せだ。
――会社に戻れば、またいつもどおりの仕事に追われる。先輩がどの程度島谷氏の説得に成功したのか定かではないが、もしかしたら普段以上に風当たりがキツくなるかもしれない。が、異動の意志を固めたことで、正直そんなことはどうでもよくなっていた。
「――ところで先輩、課長の説得ってどうなりました?」
『ふっふっふ、あたしを誰だと思ってるの? 「今後の出世に響きますよー」って言ったら、あの人真っ青になってた。チョロいもんだわ♪』
「…………先輩、それって〝脅迫〟とか言いません?」
嬉々として語った彼女に、僕は頭が痛くなった。うまく説得してくれたのは非常にありがたいのだが、少々やり過ぎな気もする。
会長秘書はいわば会長の執務を代行する立場にいて、その発言力や影響力も会長のそれとほぼ等しいのだ。ヘタをすれば、パワハラに該当しかねない。……まぁ、相手も部下たちにハラスメント行為を働いていたのでこれでおあいこになるだろうが。
僕がそのことを指摘すると、先輩は案の定「これでおあいこでしょ?」と不敵に言ってのけた。
『とにかく、あなたは会社に戻ってきても課長さんからネチネチ言われる心配なくなったから。安心して戻ってらっしゃい。さっき頼まれた件は任せといて』
「はい、何から何までありがとうございます、先輩。――じゃ、もうすぐ社に着きますんで」
安心して会社に戻れることが分かり、ホッとした僕は通話を切った。
「――今日の夕飯、久々に兄貴の店で食べようかな。今日は遅番だって言ってたし」
兄は新宿にある洋食系レストランチェーンで店長として働いている(ちなみに現在進行形である)。毎週末は実家に泊まり、食事も家族と一緒に摂っている僕だが、実家暮らしの兄は時々僕のアパートまで食事を作りに来てくれていた(そしてしばしば僕にも手伝わせていた)。何だかんだ言って弟に世話を焼きたい兄は、ひとり暮らしの僕の栄養管理に気を遣ってくれていたりするのだ。
「せっかく臨時収入も入ったしな……」
絢乃さんから頂いた五千円を、使わないという選択肢もあったが、使わなければ彼女に申し訳ないなと思った。……僕はその時点では、絢乃さんの涙を見た唯一の男だったわけだし。口止め料も含まれていたのなら、使ってしまわなければ「誰にも話しませんよ」という証明にならないかも、という思いもあったのだ。
〈兄貴、今晩兄貴の店に行ってもいいか? たまには夕飯にいいもの食いたい〉
――会社に戻ると、自分のデスクで兄にメッセージを送信した。時間的に、兄はまだ職場には着いていないはずだと思った。
するとすぐに既読がついて、返信がきた。
〈オレは何時でも大歓迎♪
予約席用意して待ってっけど、一応来る前に連絡よろしく〉
「……〝予約席〟って何だよ」
僕はスマホの画面にツッコミを入れた。チェーン店のレストランに席をリザーブするシステムなんてあっただろうか。
* * * *
――その日は無事、定時で帰ることができた。
島谷課長も小川先輩からの脅しがよっぽど堪えたと見え、僕に残業を押し付けなかったどころか、「今日は定時で上がりなさい」と気持ち悪いくらい僕に優しかった。
「――いらっしゃい! 早かったな、貢」
兄の勤務先であるレストランに入ると、出迎えてくれたのはホールのスタッフではなく店長の兄だった。というかコックコートで接客って……。
「うん、今日は珍しく残業なかったから。……つうかなんで兄貴が接客してんだよ? 兄貴、キッチンがメインじゃなかったっけ?」
「ああ、まぁな。今、学生バイトのみんなはテスト前やら学祭前やらで忙しくてバイト入れないらしくてさぁ。仕方ねぇからオレとフリーターのメンバーでホール回してんの。――ま、座れや。お冷や持ってってやるから」
「うん……」
兄は本当に予約席を用意していた。そこで僕は、兄にミラノドリアとボロネーゼパスタをオーダーした。「そんなに食って金大丈夫か」と訊かれたので、臨時収入があったのだとだけ答えた。
「――で、臨時収入ってどこから入ったんだよ?」
運ばれてきた料理を(運んだのはもちろん兄だ)美味しく頂いていると、兄は僕の向かいの席にドッカリ座って興味津々で訊ねてきた。どうでもいいが、仕事サボってていいのかよ?
「ちょっと……人の送迎を頼まれてさ。臨時収入はそのお礼で、五千円もらった」
あまり根掘り葉掘り訊かれるのもウザいので、簡潔にそう答えた。が、思わずニヤけてしまったのを兄にはバッチリ見られてしまった。
「……なぁ、それって女の子か? そこんところ、もっと詳しく聞かせろ」
僕は仕方なく、それが会長令嬢である絢乃さんだったこと、会長のご病気のこと、そして僕自身が秘書室に異動しようと決意したことを話した。
「そうかそうか! お前が前向いてくれて兄ちゃんは嬉しい! 頑張れよ!」
「う……うん。頑張る……けど」
僕は困惑した。兄は何に対して頑張れと言ったのだろう? 新しい仕事……にしてはなんか話がズレているような。
「秘書になりたいと思ったの、そのコのためなんだろ? これがキッカケで、お前のトラウマが治るといいな」
「え……いや、まぁ。うん……」
僕の決意を聞いて、絢乃さんへの恋心が兄にもバレてしまったようだった。それ以来、兄は僕の恋の後押しをしてくれるようになったのだった。
「――もしもし、桐島です。小川先輩、今話して大丈夫ですか?」
ハンズフリーでスマホから先輩の携帯に電話をかけると、彼女はすぐに出てくれた。とっくに昼休みは終わっていて仕事中だったはずなのに大丈夫だろうか? と電話した張本人が心配したところで、「お前が言うんかい」という感じだが。
『桐島くん? ――うん、大丈夫だけど。ミッションは完了したの?』
「はい。今戻るところなんですけど。――俺、秘書室に異動しようと思います。で、先輩から人事部の山崎部長に根回ししてもらってもいいですか? ホントは自分で言わないといけないと思うんですけど、事情が事情なんで」
『事情が事情、って。つまり島谷さんからの嫌がらせが原因じゃないってことね?』
時間的に、小川先輩のところにも加奈子さんから連絡が行っているはずだと思い、僕はその「事情」を彼女に話した。
「そうなんです。……先輩のところにも連絡行きました? 会長が末期ガンで、あと三ヶ月しか生きられないらしいって」
『うん、奥さまから電話があったよ。……で?』
「これ、あくまでも最悪の事態を考えておかないと、っていう話で聞いてほしいんですけど。会長が亡くなった後、多分後継者になられるのは絢乃さんだと思うんです。で、俺はその時、秘書として絢乃さんのことを支えたいと思って。……ただ時間があまりないんで、正規の手続きを踏んでたら間に合わないと思うんです。だから……」
これじゃまるで、僕は源一会長が亡くなるのを待っているみたいな言い方だ。でも、僕には全然そんなつもりはなく、あくまで備えとしてそう決めたに過ぎないのだ。
『……分かった。それはあくまで、万が一の時に備えてってことね? で、正規の手順をすっ飛ばして異動したい、と。そういうことなら、あたしも力貸すわ。可愛い後輩の頼みだしね』
「えっ、ホントですか!?」
『うん。山崎部長の秘書の上村さんと親しいから、彼女から部長に話通しといてもらうね。桐島くんとしては早いほうがいいでしょ? 明日……は土曜日か。じゃあ週明けにでも面談セッティングしてもらう?』
「ええ、それで大丈夫です。先輩、あざっす!」
僕は小川先輩にお礼を言った。話の分かる先輩を持てて僕は幸せだ。
――会社に戻れば、またいつもどおりの仕事に追われる。先輩がどの程度島谷氏の説得に成功したのか定かではないが、もしかしたら普段以上に風当たりがキツくなるかもしれない。が、異動の意志を固めたことで、正直そんなことはどうでもよくなっていた。
「――ところで先輩、課長の説得ってどうなりました?」
『ふっふっふ、あたしを誰だと思ってるの? 「今後の出世に響きますよー」って言ったら、あの人真っ青になってた。チョロいもんだわ♪』
「…………先輩、それって〝脅迫〟とか言いません?」
嬉々として語った彼女に、僕は頭が痛くなった。うまく説得してくれたのは非常にありがたいのだが、少々やり過ぎな気もする。
会長秘書はいわば会長の執務を代行する立場にいて、その発言力や影響力も会長のそれとほぼ等しいのだ。ヘタをすれば、パワハラに該当しかねない。……まぁ、相手も部下たちにハラスメント行為を働いていたのでこれでおあいこになるだろうが。
僕がそのことを指摘すると、先輩は案の定「これでおあいこでしょ?」と不敵に言ってのけた。
『とにかく、あなたは会社に戻ってきても課長さんからネチネチ言われる心配なくなったから。安心して戻ってらっしゃい。さっき頼まれた件は任せといて』
「はい、何から何までありがとうございます、先輩。――じゃ、もうすぐ社に着きますんで」
安心して会社に戻れることが分かり、ホッとした僕は通話を切った。
「――今日の夕飯、久々に兄貴の店で食べようかな。今日は遅番だって言ってたし」
兄は新宿にある洋食系レストランチェーンで店長として働いている(ちなみに現在進行形である)。毎週末は実家に泊まり、食事も家族と一緒に摂っている僕だが、実家暮らしの兄は時々僕のアパートまで食事を作りに来てくれていた(そしてしばしば僕にも手伝わせていた)。何だかんだ言って弟に世話を焼きたい兄は、ひとり暮らしの僕の栄養管理に気を遣ってくれていたりするのだ。
「せっかく臨時収入も入ったしな……」
絢乃さんから頂いた五千円を、使わないという選択肢もあったが、使わなければ彼女に申し訳ないなと思った。……僕はその時点では、絢乃さんの涙を見た唯一の男だったわけだし。口止め料も含まれていたのなら、使ってしまわなければ「誰にも話しませんよ」という証明にならないかも、という思いもあったのだ。
〈兄貴、今晩兄貴の店に行ってもいいか? たまには夕飯にいいもの食いたい〉
――会社に戻ると、自分のデスクで兄にメッセージを送信した。時間的に、兄はまだ職場には着いていないはずだと思った。
するとすぐに既読がついて、返信がきた。
〈オレは何時でも大歓迎♪
予約席用意して待ってっけど、一応来る前に連絡よろしく〉
「……〝予約席〟って何だよ」
僕はスマホの画面にツッコミを入れた。チェーン店のレストランに席をリザーブするシステムなんてあっただろうか。
* * * *
――その日は無事、定時で帰ることができた。
島谷課長も小川先輩からの脅しがよっぽど堪えたと見え、僕に残業を押し付けなかったどころか、「今日は定時で上がりなさい」と気持ち悪いくらい僕に優しかった。
「――いらっしゃい! 早かったな、貢」
兄の勤務先であるレストランに入ると、出迎えてくれたのはホールのスタッフではなく店長の兄だった。というかコックコートで接客って……。
「うん、今日は珍しく残業なかったから。……つうかなんで兄貴が接客してんだよ? 兄貴、キッチンがメインじゃなかったっけ?」
「ああ、まぁな。今、学生バイトのみんなはテスト前やら学祭前やらで忙しくてバイト入れないらしくてさぁ。仕方ねぇからオレとフリーターのメンバーでホール回してんの。――ま、座れや。お冷や持ってってやるから」
「うん……」
兄は本当に予約席を用意していた。そこで僕は、兄にミラノドリアとボロネーゼパスタをオーダーした。「そんなに食って金大丈夫か」と訊かれたので、臨時収入があったのだとだけ答えた。
「――で、臨時収入ってどこから入ったんだよ?」
運ばれてきた料理を(運んだのはもちろん兄だ)美味しく頂いていると、兄は僕の向かいの席にドッカリ座って興味津々で訊ねてきた。どうでもいいが、仕事サボってていいのかよ?
「ちょっと……人の送迎を頼まれてさ。臨時収入はそのお礼で、五千円もらった」
あまり根掘り葉掘り訊かれるのもウザいので、簡潔にそう答えた。が、思わずニヤけてしまったのを兄にはバッチリ見られてしまった。
「……なぁ、それって女の子か? そこんところ、もっと詳しく聞かせろ」
僕は仕方なく、それが会長令嬢である絢乃さんだったこと、会長のご病気のこと、そして僕自身が秘書室に異動しようと決意したことを話した。
「そうかそうか! お前が前向いてくれて兄ちゃんは嬉しい! 頑張れよ!」
「う……うん。頑張る……けど」
僕は困惑した。兄は何に対して頑張れと言ったのだろう? 新しい仕事……にしてはなんか話がズレているような。
「秘書になりたいと思ったの、そのコのためなんだろ? これがキッカケで、お前のトラウマが治るといいな」
「え……いや、まぁ。うん……」
僕の決意を聞いて、絢乃さんへの恋心が兄にもバレてしまったようだった。それ以来、兄は僕の恋の後押しをしてくれるようになったのだった。
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