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前を向け! ①

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 ――僕はその後、アパート近くのコンビニに寄って夜食用のパンを買い込んだ。この店は実家からも近く、僕が子供の頃からよく利用していた。

「――はい、五百四十円ね。貢くん、アンタたまにはもっと栄養のあるもの食べなさいよ?」

 店員のおばちゃんが、レジで会計をしていた僕にまるで母親のようなことを言った。ちなみに彼女は、家族経営をしていたこの店の店長の奥さんだった。

「実家のご両親とかお兄ちゃん、心配してるんじゃないの?」

「おばちゃん、実家には毎週末帰ってますよ。今日はもう夕飯済ませてきたから、軽く夜食で食べとこうと思っただけです」

「そうなの? だったらいいんだけど……。はい、千円お預かりで四百六十円のお返しね」

「……どうも」

「アンタ、早くお嫁さんもらいなさいよ? いつまでも実家やお兄ちゃんアテにしてたら、いつまで経っても自立しないわよ」

「それ言うなら兄貴の方が先だと思いますけど」

 余計なお世話だ、とばかりに僕は反論した。この当時で兄はすでにアラサーだった。が、兄に恋人がいると知ったのはその四ヶ月ほど後のことだった。ちなみにその彼女は、今兄嫁である。

「まぁ、そうよねぇ。ゴメンねぇ、おばちゃん余計なこと言っちゃったわね。はい、ありがとう」

 会計の済んだカレーパンとクリームパン、そして五〇〇ミリペットボトルのカフェラテを有料のレジ袋に入れてもらい、僕はコンビニを出た。


   * * * *


「――ただいま」

 アパート二階のいちばん奥にあるドアを開けると、僕は誰もいない(ひとり暮らしなんだから当たり前なのだが、家族全員がこの部屋の合鍵を持っているため誰かが来ている可能性もあった)部屋の玄関でくたびれた革靴を脱いだ。
 篠沢家の大豪邸を外から眺めた後なので、風呂とトイレが一体になったユニットバス付きのワンKの部屋がものすごくちっぽけに見え、絢乃さんとの格差をイヤでも思い出させられた。でも社会に出てからその当時で二年半、ずっと暮らしてきた住まいでもあったので、愛着がまったくないというわけでもなかった。

 ベージュのラグを敷いたフローリングの床に通勤用のカバンを置くと、とりあえず着ていたジャケットを脱いでベッドの上に放り投げ、ネクタイを緩めた。もちろんそのままほっぽり出しておくわけがなく、後からスーツは一式まとめてハンガーにかけるつもりだった。

「あー、腹減った。いただきます」

 ポリ袋から買ってきたパン類とカフェラテを出して座卓の上に置き、まずはカレーパンの封を開けてかぶりついた。
 ラテの甘さでカレーの辛さを中和しつつモグモグやっていると、座卓の上に出してあったスマホが鳴り出した。

「…………ぅおっ、絢乃さんから電話!? マジか!」

 画面に表示された発信者の名前を見た途端、僕は喉を詰まらせそうになった。そして、自分の口がまだモゴモゴしていることを思い出し、パニックになった。
 しゃく中に電話に出るのは失礼にあたるが、早く出ないと切られてしまう! ……いや、僕からかけ直せばよかっただけの話なのだが、いかんせん冷静さを欠いていた僕はそんなことさえ思い至らなかった。

「――はい、桐島です」

 とにかく出ねば、と通話ボタンをスワイプし、まだ若干モゴモゴしている状態で応答した。 絢乃さん、怒るだろうな……と不安だったので、声は少々震えていたかもしれない。

『……あ、桐島さん。絢乃です。今日は色々ありがとう。――今、大丈夫かな? 何か食べてる?』

 カンの鋭い彼女にはすぐに見抜かれてしまったが、その声からはお怒りの様子も呆れられている様子も感じられなかった。むしろ笑うのを必死でこらえられている、という感じがしたのは僕の気のせいか? 僕が無事に帰れたことにホッとされていたからだろうか。

「ええ、大丈夫ですよ。もう自宅に着いて、夜食にコンビニで買ってきたパンを食べていただけですから」

 バカヤロー、俺。何を食べてたかなんていちいち報告する必要ないだろ。絢乃さんとは初対面だったのに、気を許しすぎだ。
 ……と心の中でセルフツッコミを入れていると、彼女は笑いながら「ああ、そうなんだね」と言った。めちゃめちゃ笑われてるじゃん、俺。

『――あのね、桐島さん。さっき、ママと一緒にパパの説得頑張ってみたの』

 ひとりで勝手にヘコんでいると、次の瞬間彼女の声のトーンが真剣なものに変わった。僕は「そうですか」と相槌を打ってから、もういい加減モゴモゴをやめなきゃいけないと思い、「ちょっと待って下さいね」と彼女に言い置いて急いで口に残っていたものをカフェラテで流し込んだ。

「――で、どうでした?」

 早く話の続きが聞きたくて、僕はそう訊ねた。果たして彼女は、お父さまを説得することに成功したのか。……まぁ、おっかない夫人も一緒に説得をこころみただろうし、源一氏が子煩悩ぼんのうだというのは有名な話だったので、うまくいかなかったとは考えにくかったが。

『明日ママに付き添ってもらって病院に行ってくる、って。大学病院にパパのお友だちが内科医として勤務してるから、その先生に診てもらうんだって』

 するとやっぱり、説得には成功されたと思しき返事が返ってきて、その声の明るさに僕もとりあえずホッとした。
 それにしても、ご友人にドクターがいらっしゃるなんて源一会長は環境に恵まれている。医者に診てもらうにしても、まったく見ず知らずのドクターが相手よりは知人のドクターが担当になってくれる方がハードルがグンと低くなるだろう。

「そうですか、ちゃんと病院に行かれるんですね。それはよかった」

『うん。まだ安心はできないけど、とりあえずパパが病院に行く気になってくれただけでも一歩前進かな。アドバイスをくれたのが貴方だってことは言わなかったけど、言った方がよかった?』

 絢乃さんはまず第一関門を突破できたことに安心されたようで、次に僕が助言したことについてお父さまに話した方がよかったのか否かを確かめられた。心優しい彼女はきっと、説得がうまくいかなくてお父さまがご機嫌を損なわれた場合に僕がを受けないよう、あえてそのことを伝えなかったのだと思う。

「いえ……まぁ、僕はどちらでもよかったですけど。絢乃さん、ご存じでした? お父さまは篠沢商事の社員や、篠沢グループの役員全員の顔と名前を記憶されてるんですよ。なので、今日会場にいたのが僕だということも気づかれていたはずです」

 あのパーティー会場で、僕が源一会長と直接言葉を交わすことはなかったが、彼の方は僕の顔を物珍しげにチラチラとご覧になっていたような気がする。「あれ、あんなに若い社員が来ているなんて珍しいな」という感じだったのだろう(ちなみに、会社では接点があった)。
 そのことを伝えると、絢乃さんはお父さまの並外れた記憶力に驚愕されていた。

「――それはともかく、絢乃さんは明日どうされるんですか? お母さまとご一緒に付き添いに?」

 僕がそう訊ねると、彼女は「パパのことはママに任せて、わたしは学校に行くことにした」と答えられた。お友だちに心配をかけたくないし、自分が一緒に行ってもかえって両親に気を遣わせるだけだから、と。まだ十七歳なのに、こういう時の判断がしっかりできるなんてスゴい人だなと思った。
 
 彼女はどうやら入浴前だったようで、電話口からかすかに水音も聞こえていた。もしや、室内にバスルームまで完備されているのか……!?
「お風呂に入るところだったから」と通話を終えようとしていた彼女に、湯冷めしないよう諭してから僕は電話が切れるのを待った。

 ――彼女は何度も僕に「ありがとう」を言っていた。けれど、〝ありがとう〟を言いたいのは僕の方だった。
 もう一度、女性を信じようという気を起こさせてくれて。そして僕を裏切らないでいてくれて。

「絢乃さん、ありがとうございます……」

 僕はスマホを見つめながら、前を向く勇気が湧いてくるのをひしひしと感じていた。
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