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僕に天使が舞い降りた日 ②

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 僕はこの瞬間、絢乃さんに一目ぼれしたのだ。まだどこの誰なのかも分からずに――。
 たったの数ヶ月前、あんなひどい仕打ちにったのに。「もう恋なんてしない」と心に誓ったことさえなかったことになるくらい、ごく自然に彼女に惹かれた。

「――ねぇ、そこのあなた。さっきウチの絢乃と見つめ合っていなかった?」

「…………ぅおっ!? は、はいぃぃっ!?」

 後ろから落ち着いた女性の声がして、僕は思わず飛びずさった。……ん? 待てよ。今、「ウチの絢乃」って言わなかったか、この人?

「あ……、奥さまでしたか。取り乱してしまって申し訳ありません。僕は篠沢商事総務課の、桐島貢と申します」

 僕に声をかけてきたのは篠沢会長の奥さま、加奈子かなこさんだった。「奥さま」とはいっても彼女が実質篠沢財閥のドンで、会長が婿養子だったというのは社内でも有名な話だったのだが。

「あら、あなた社員だったの。桐島くんね。――上司の島谷さんは? 姿が見えないようだけど」

「ああ、実は僕、課長の代理なんです。島谷は今日、急に都合が悪くなったとかで……」

 あんな人でも上司だったので、僕は彼の顔を潰さないよう上手く言いつくろった。

「あらそう。宮仕えも大変ねぇ。まぁ、ウチの夫も結婚前はそうだったから、私も気持ちはよぉーーく分かるわ。サラリーマンって大変よねー」

「…………はぁ。――ところで、先ほど『ウチの絢乃』とおっしゃっていませんでした?」

「ええ。さっきの子、私とあの人の娘なの。名前は絢乃。今十七歳。私立茗桜めいおう女子の二年生よ」

「へぇ……、高校生なんですか。大人っぽいですね」

 絢乃さんがまだ高校生だったと聞いて、僕は驚きを隠せなかった。服装や髪型、メイクのせいだろうか。それとも彼女の持つ雰囲気のせいだろうか。実年齢よりずっと大人に見えていたのだ。

「そうよー、まだ未成年。だからたぶらかしちゃダメよ」

「しませんよ、そんなこと!」

 僕は相手が会長夫人だということも忘れて吠えた。恋愛にトラウマを持つ人間がそんなことをするわけがないじゃないか!

「でも、あの子に一目ぼれしたでしょう? あなた」

「……………………」

 それは思いっきり図星だった。そんな僕の反応をご覧になって、加奈子夫人は楽しそうにニヤニヤ笑った。

「ところで、あなたお酒は飲まないの?」

 彼女は僕が手にしていたウーロン茶のグラスに目を留めて、首を傾げた。

「ええ、まぁ……。元々そんなに飲める方ではないんですが、マイカー通勤しているもので」

「そう。じゃあ、今日もクルマで来てるわけね」

「そうですが……」

 僕がそう答えた次の瞬間、加奈子夫人はイタズラっぽい笑みを浮かべた。

「あら、ちょうどよかった。それじゃあ桐島くん、今日の帰り、絢乃をあなたのクルマで家まで送ってきてくれないかしら? あの子も若い男の人と接点がなかったから、あなたに送ってもらった方が嬉しいと思うのよ」

「え……。えっと」

 元々断り下手な僕は、引き受けたとて自分に何のメリットもない島谷課長の雑用も断れずにいた。が、この頼まれごとは僕にもメリットがある。絢乃さんとお近づきになれるというメリットが。

「分りました。僕でよければお引き受けします」

「本当に? ありがとう。ただし、あの子のことお持ち帰りしちゃダメよ」

「ですから、しませんってば」

 からかう加奈子夫人を、僕は必死に牽制けんせいした。僕たちの会話を絢乃さんに聞かれたらどうなることかとヒヤヒヤしていたのだ。……実は、少し離れたところからバッチリ見られていたらしいのだが。

「――ところで、絢乃さんは一体どなたを探していらっしゃったんでしょうか。ずいぶん焦っていらっしゃったみたいですが」

 彼女の視線があちこちをさまよっていたように見えたので、僕は気になっていたのだ。

「ああ、きっと夫を探してるのね。あの人、パーティーの途中でフラッといなくなっちゃったから。あの人がこのごろ激せしてること、あなたも知ってるでしょ? だからあの子も心配してて」

「ええ、僕も存じていますし、社員のみんなも心配しております」

 それはもちろんウソでもホラでもなく、事実だった。源一会長の痩せ方が文字どおりあまりにも病的だったので、昼休みの社員食堂ではその話題があちこちで飛び交っていたのだ。

「私は多分、あの人何かの病気なんじゃないかと思ってるんだけど。とにかく大の病院嫌いでね、どれだけ勧めても行きたがらないのよ。だからって、首にリードつけて引っぱって行くわけにもいかないじゃない? 犬じゃあるまいし」

「……確かに」

 僕は思わず、大型犬になった源一会長が加奈子さんにリードで引っぱられて病院へ連れていかれるところを想像してしまった。これじゃまるで、お散歩をイヤがるワンコだ。

 という話をしていると、加奈子さんがバーカウンターに目をやったところで「あ」と小さく呟いた。

「あの人、あんなところにいた。絢乃が先に見つけてたみたい。――じゃあ桐島くん、さっきのこと、よろしく頼んだわよ♪」

 ご主人とお嬢さんのいるバーカウンターへ向かった加奈子さんを目で追うと、彼女は目的の場所に着くなり源一氏を叱りつけていた。なるほど、篠沢家はどうやら〝かかあ天下〟らしい。

「――あれー、桐島くん。どうしてあなたがここにいるの?」

 後ろからポンと肩を叩かれ、振り向くとそこに立っていたのはセミロングの髪にウェーブをかけた、パンツスーツ姿の女性だった。
 こういう席で、女性がビジネススーツ姿でいると目立つ。加奈子夫人でさえ、ドレッシーないで立ちをしていたというのに。

がわ先輩! お疲れさまです」

 彼女は会長秘書を務めていた小川なつさん。僕の二つ年上で、同じ大学の二年先輩だった。
 なかなかの美女で面倒見もいいが、色気はあまりない。ノリが体育会系なせいだろうか。そして僕も、彼女を恋愛対象として意識したことはまったくない。

「あ、分かった。また島谷さんの嫌がらせでしょ! あの人にも困ったもんだよね」

「…………あー、はい」

 またもや図星を衝かれ(今度は小川先輩にだ)、僕はコメカミをボリボリ掻いた。

「桐島くんもさぁ、イヤなら断ればいいのに。ホイホイ言いなりになってるから向こうもつけあがるんだよ」

「そりゃ、俺も分かってますけど。上司の頼みをむざむざ断れます? 会社でのポジションにも関わるかもしれないんですよ?」

「そんなの関係なくない? あの人みたいなイチ中間管理職に、人事に口出す権限ないでしょ。それは意思の弱い桐島くんが悪いよ。あたしなら絶対に断るね」

「そんな身もフタもない……」

 バッサリと一刀両断され、僕はかなりヘコんだ。自分の意思の弱さは、僕自身がいちばん痛感させられているけども。思いっきり急所を衝いてこなくてもいいじゃないか!

「でもまぁ、引き受けちゃったもんはしょうがないよねー。今日は開き直ってパーティー楽しんじゃいなよ。タダで美味しいものいっぱい食べられるって思えばさ」

「……そういう先輩は食べる気満々ですよね」

 歌うように言った先輩に僕は呆れた。彼女が持つプレートの上には、載せうる限りの料理がこれでもか! と盛られていたのだ。

「先輩、仕事はいいんですか? 会長の付き添いでここにいるんですよね?」

「いいのいいの☆ 『小川君も私のことはいいから、このパーティーを思う存分楽しみなさい』って会長がおっしゃったんだもん」

「へぇ、そうなんですか……」

「それにね、あれ見てたらさ。あたしの出る幕なさそうじゃない?」

 先輩は篠沢家の親子水入らずの光景を、どこか切なそうに見つめていた。
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