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僕に天使が舞い降りた日 ①
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――それ以来、僕は女性不信に陥り、結婚どころか恋愛そのものが怖くなった。のちに絢乃さんに言った、「もう何年も恋愛から遠ざかっている」というのは、日比野美咲とのことを僕自身の中で〝恋愛〟としてカウントしていないからだ。
それを働いている部署で上司からパワハラを受けているせいにして、僕は完全に色恋沙汰から逃げていた。実は他の部署、特に秘書室のお姉さま方からモテていたらしいのだが、はっきり言って迷惑だった。「僕に構わないでくれ」とどれだけ声に出して言いたかったことか。
でも、そんな僕にも天使が舞い降りた。それが、篠沢グループ会長の一人娘・絢乃さんに他ならなかった。
* * * *
――その日は当時の篠沢グループ総帥にして、絢乃さんのお父さま、篠沢源一会長の四十五歳のお誕生日で、夕方から篠沢商事本社ビル二階の大ホールで「篠沢会長のお誕生日を祝う会」が行われることになっていた。グループ全体の役員や各社の幹部クラス、管理職の人たちが招待されるかなり規模の大きなパーティーだった。
僕が所属していた総務課は朝から会場設営やら打ち合わせやらで忙しく、それが終われば通常業務が待っていて、僕も例外なく仕事に追われていたのだが……。
「――桐島君、ちょっといいかな」
「は……、はいっ!」
島谷課長に呼ばれ、デスクのPCに向かって仕事をしていた僕はビクッと飛び上がった。
この上司は僕が入社二年目に入った年に課長に昇進したのだが、それ以来ずっと、僕は彼から何かとこき使われ続けていた。
いや、彼の犠牲になっていたのは僕ひとりだけではない。後になって分かったことだが、総務課の社員のうち実に九割が被害に遭っていたらしい。原因こそ分らなかったが、突然休職したり退職した先輩や同僚を僕は何人も知っている。
それはともかく、僕はその頃島谷氏にとって格好のターゲットとなっていた。彼の抱えている仕事を押しつけられ、無理矢理残業させられることなんて日常茶飯事。それで残業手当でも付けてもらえれば文句はないのだが、残念ながらそれらの残業はすべてサービス残業扱いにされ、しかもすべて課長の手柄にされた。そのくせ、自分のミスは僕に押しつけてくるのでたまったもんじゃなかった。
……まぁ、断れない僕にも問題はあったのだろうが。
その課長に呼ばれた。つまり、また何か僕に災難が降りかかるということだ。
「――君、今日の終業後は何か予定があるかね?」
「いえ……、特にこれといっては」
アンタから残業でも押しつけられない限りはな、と心の中で付け足した。
「そうか、それはよかった。――実は、今夜の『会長のお誕生日を祝う会』に私も招待されているんだが、都合が悪くてあいにく出られなくなったんだ。そこで君、私の代わりに出席してくれんかね?」
「……………………は? 課長、今何とおっしゃいました?」
課長の言葉に、僕は自分の耳を疑った。残業ではないが、いくら何でもそれは押しつけが過ぎやしないだろうか。
「だから、私の代理で今夜のパーティーに出てくれと言っとるんだ。頼む」
「…………いえ、あの……。それはいくら何でも……」
「断るのか? 上司である私の頼みを。君は断れんよなぁ?」
「…………えーと。都合が悪いとおっしゃるのは」
もう半分以上は脅しになっていた課長の威圧感に、僕はタジタジになった。
「ちょっと、たまには家族サービスをな」
「…………はぁ」
ウソつけ、本当はゴルフの打ちっぱなしだろ! と内心毒づきながら、僕は引きつった笑いを浮かべた。何だか納得がいかない。
課長がゴルフにハマっていたことは、総務課の人間なら誰でも知っていたが、「家族サービス」とウソをついてまで会長のお誕生日よりも自分の趣味を優先するなんて一体どういう神経をしているんだ?
とはいえ、僕が折れないことにはこの話は終わらなかったので。
「…………分りました。僕でよければ代理を務めさせて頂きます」
「そうかそうか! じゃあ頼んだよ、桐島君。会長によろしくお伝えしてくれたまえ」
「……………………はい……」
僕が渋々承諾すると、課長は満足げに僕の肩をバシバシ叩いた。どうでもいいが、ものすごく痛かった。
「――お前、なんで断んなかったんだよ?」
自分の席に戻ると、隣の席から久保が呆れたように僕に訊ねた。
「俺に断れると思うか? つうか、そんなこと言うならお前が代わりに行ってくれよ」
「そう思うならさぁ、お前もオレに助け船求めりゃよかったじゃん。――まぁ、求められたところでオレなら断ったけどな」
「なんで? 彼女とデートか?」
久保が彼女持ちだと知っていた僕は、思いつく理由をぶつけてみた。
彼も僕と同じく女子からモテていたのだが、それを迷惑に思っていた僕とは対照的に、彼はそのことを自慢にしていた。彼女は確か、ウチの営業事務の女子じゃなかっただろうか。
「おう。帰り、一緒にメシ行くことになってんだ♪ お前もさぁ、いい加減新しい彼女作れよ。そしたら人生楽しくなるし、課長からの無理難題も回避できるべ?」
「……もういい。お前には頼まねーよ」
この時の僕は、出たくもないパーティーに強制出席させられることにただただウンザリしていた。まさかこの後、僕のその後を変える運命の出会いがあるとは知らずに――。
* * * *
僕は課長から押し付けられていた残業を三十分ほどで片付け(多少おざなりにはなってしまったが、課長もパーティーの代理出席を押し付けた手前咎めることはなかった)、会社近くのカフェでパーティー開始時刻の六時まで時間を潰した。
そして夕方六時、会社に戻った僕は課長から預かった招待状で受付を済ませ(同じ総務課の同僚が受付に立っていたので、「代理出席ご苦労さん」と苦笑いされた)、会場入りしたのだが……。
「……俺、めちゃめちゃ場違いじゃん」
乾杯の音頭から一時間半。この呟きをもう何度繰り返したことだろう。
自分でも会場内で浮いている自覚はあったし、クルマ通勤している手前、アルコールを飲むわけにもいかなかったので(そもそも僕はアルコールが苦手であまり飲めないのだか)、上役から勧められる酒を断るたびに肩身の狭さが増していった。
ビュッフェに並べられた豪華な料理で食事も済ませたが、あまり食べた気がしなかった。
「……帰りにコンビニで何か買って帰るか」
さて、夜食は何にしようかなんてことをボンヤリ考えていた時だった。ふと鼻先を爽やかな柑橘系の香りがかすめ、一人の若い女性が僕の目の前を通りすぎたのは。
――それが、絢乃さんだった。
「誰だろう、あのコ。可愛い……」
僕は思わず彼女に見とれてしまった。フワフワにカールさせた茶色みがかったロングヘアー、上品なスモーキーピンクの膝下丈ドレスの上から白いジャケットを羽織り、おそらくは履きなれていないだろうハイヒールの靴で、速足に歩いていた。その様子から、誰かを探しているのだろうと予想がついた。ヒールの高さから正確な身長までは測れなかったが、百六十センチもないだろうとは思った。
もっとよく見てみれば、八の字に下がった形のいい両眉、クッキリ二重の大きな目に長い睫毛、大きすぎずスッと筋の通った鼻に、ピンク色のグロスで彩られたまだ幼さの残る唇……。まさに〝天使〟そのものの顔立ちをしている。
――と彼女のことをまじまじ眺めていたら、不意に目が合ってしまった。あまりにも熱心に見つめていたから気を悪くされてしまっただろうか?
ところが、目が合ったという気まずさは彼女も同じだったようで(後で知ったのだが、彼女の方も僕の顔を見つめていたらしい)、ごまかすようにニコリと笑いながらペコリと会釈してくれた。
その様子が何だか微笑ましくなり、僕も丁寧なお辞儀を返したのだった。
それを働いている部署で上司からパワハラを受けているせいにして、僕は完全に色恋沙汰から逃げていた。実は他の部署、特に秘書室のお姉さま方からモテていたらしいのだが、はっきり言って迷惑だった。「僕に構わないでくれ」とどれだけ声に出して言いたかったことか。
でも、そんな僕にも天使が舞い降りた。それが、篠沢グループ会長の一人娘・絢乃さんに他ならなかった。
* * * *
――その日は当時の篠沢グループ総帥にして、絢乃さんのお父さま、篠沢源一会長の四十五歳のお誕生日で、夕方から篠沢商事本社ビル二階の大ホールで「篠沢会長のお誕生日を祝う会」が行われることになっていた。グループ全体の役員や各社の幹部クラス、管理職の人たちが招待されるかなり規模の大きなパーティーだった。
僕が所属していた総務課は朝から会場設営やら打ち合わせやらで忙しく、それが終われば通常業務が待っていて、僕も例外なく仕事に追われていたのだが……。
「――桐島君、ちょっといいかな」
「は……、はいっ!」
島谷課長に呼ばれ、デスクのPCに向かって仕事をしていた僕はビクッと飛び上がった。
この上司は僕が入社二年目に入った年に課長に昇進したのだが、それ以来ずっと、僕は彼から何かとこき使われ続けていた。
いや、彼の犠牲になっていたのは僕ひとりだけではない。後になって分かったことだが、総務課の社員のうち実に九割が被害に遭っていたらしい。原因こそ分らなかったが、突然休職したり退職した先輩や同僚を僕は何人も知っている。
それはともかく、僕はその頃島谷氏にとって格好のターゲットとなっていた。彼の抱えている仕事を押しつけられ、無理矢理残業させられることなんて日常茶飯事。それで残業手当でも付けてもらえれば文句はないのだが、残念ながらそれらの残業はすべてサービス残業扱いにされ、しかもすべて課長の手柄にされた。そのくせ、自分のミスは僕に押しつけてくるのでたまったもんじゃなかった。
……まぁ、断れない僕にも問題はあったのだろうが。
その課長に呼ばれた。つまり、また何か僕に災難が降りかかるということだ。
「――君、今日の終業後は何か予定があるかね?」
「いえ……、特にこれといっては」
アンタから残業でも押しつけられない限りはな、と心の中で付け足した。
「そうか、それはよかった。――実は、今夜の『会長のお誕生日を祝う会』に私も招待されているんだが、都合が悪くてあいにく出られなくなったんだ。そこで君、私の代わりに出席してくれんかね?」
「……………………は? 課長、今何とおっしゃいました?」
課長の言葉に、僕は自分の耳を疑った。残業ではないが、いくら何でもそれは押しつけが過ぎやしないだろうか。
「だから、私の代理で今夜のパーティーに出てくれと言っとるんだ。頼む」
「…………いえ、あの……。それはいくら何でも……」
「断るのか? 上司である私の頼みを。君は断れんよなぁ?」
「…………えーと。都合が悪いとおっしゃるのは」
もう半分以上は脅しになっていた課長の威圧感に、僕はタジタジになった。
「ちょっと、たまには家族サービスをな」
「…………はぁ」
ウソつけ、本当はゴルフの打ちっぱなしだろ! と内心毒づきながら、僕は引きつった笑いを浮かべた。何だか納得がいかない。
課長がゴルフにハマっていたことは、総務課の人間なら誰でも知っていたが、「家族サービス」とウソをついてまで会長のお誕生日よりも自分の趣味を優先するなんて一体どういう神経をしているんだ?
とはいえ、僕が折れないことにはこの話は終わらなかったので。
「…………分りました。僕でよければ代理を務めさせて頂きます」
「そうかそうか! じゃあ頼んだよ、桐島君。会長によろしくお伝えしてくれたまえ」
「……………………はい……」
僕が渋々承諾すると、課長は満足げに僕の肩をバシバシ叩いた。どうでもいいが、ものすごく痛かった。
「――お前、なんで断んなかったんだよ?」
自分の席に戻ると、隣の席から久保が呆れたように僕に訊ねた。
「俺に断れると思うか? つうか、そんなこと言うならお前が代わりに行ってくれよ」
「そう思うならさぁ、お前もオレに助け船求めりゃよかったじゃん。――まぁ、求められたところでオレなら断ったけどな」
「なんで? 彼女とデートか?」
久保が彼女持ちだと知っていた僕は、思いつく理由をぶつけてみた。
彼も僕と同じく女子からモテていたのだが、それを迷惑に思っていた僕とは対照的に、彼はそのことを自慢にしていた。彼女は確か、ウチの営業事務の女子じゃなかっただろうか。
「おう。帰り、一緒にメシ行くことになってんだ♪ お前もさぁ、いい加減新しい彼女作れよ。そしたら人生楽しくなるし、課長からの無理難題も回避できるべ?」
「……もういい。お前には頼まねーよ」
この時の僕は、出たくもないパーティーに強制出席させられることにただただウンザリしていた。まさかこの後、僕のその後を変える運命の出会いがあるとは知らずに――。
* * * *
僕は課長から押し付けられていた残業を三十分ほどで片付け(多少おざなりにはなってしまったが、課長もパーティーの代理出席を押し付けた手前咎めることはなかった)、会社近くのカフェでパーティー開始時刻の六時まで時間を潰した。
そして夕方六時、会社に戻った僕は課長から預かった招待状で受付を済ませ(同じ総務課の同僚が受付に立っていたので、「代理出席ご苦労さん」と苦笑いされた)、会場入りしたのだが……。
「……俺、めちゃめちゃ場違いじゃん」
乾杯の音頭から一時間半。この呟きをもう何度繰り返したことだろう。
自分でも会場内で浮いている自覚はあったし、クルマ通勤している手前、アルコールを飲むわけにもいかなかったので(そもそも僕はアルコールが苦手であまり飲めないのだか)、上役から勧められる酒を断るたびに肩身の狭さが増していった。
ビュッフェに並べられた豪華な料理で食事も済ませたが、あまり食べた気がしなかった。
「……帰りにコンビニで何か買って帰るか」
さて、夜食は何にしようかなんてことをボンヤリ考えていた時だった。ふと鼻先を爽やかな柑橘系の香りがかすめ、一人の若い女性が僕の目の前を通りすぎたのは。
――それが、絢乃さんだった。
「誰だろう、あのコ。可愛い……」
僕は思わず彼女に見とれてしまった。フワフワにカールさせた茶色みがかったロングヘアー、上品なスモーキーピンクの膝下丈ドレスの上から白いジャケットを羽織り、おそらくは履きなれていないだろうハイヒールの靴で、速足に歩いていた。その様子から、誰かを探しているのだろうと予想がついた。ヒールの高さから正確な身長までは測れなかったが、百六十センチもないだろうとは思った。
もっとよく見てみれば、八の字に下がった形のいい両眉、クッキリ二重の大きな目に長い睫毛、大きすぎずスッと筋の通った鼻に、ピンク色のグロスで彩られたまだ幼さの残る唇……。まさに〝天使〟そのものの顔立ちをしている。
――と彼女のことをまじまじ眺めていたら、不意に目が合ってしまった。あまりにも熱心に見つめていたから気を悪くされてしまっただろうか?
ところが、目が合ったという気まずさは彼女も同じだったようで(後で知ったのだが、彼女の方も僕の顔を見つめていたらしい)、ごまかすようにニコリと笑いながらペコリと会釈してくれた。
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