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第1章・高校一年生

ナツ恋。 ①

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 ――六月。横浜もすっかり梅雨つゆ入りしており、茗倫女子大付属の制服も夏服――リボン付きの白い半袖ブラウスにグレーのジャンパースカート――へと衣替えした。

「はい、愛美。じっとして、動かないで!」

 ここは〈双葉寮〉の二〇七号室。さやかと珠莉の部屋である。
 放課後のひととき、長い黒髪が自慢(?)の愛美は、さやかの手によってそのロングヘアーをいじられ……もといアレンジされていた。

「――はい、できた! 愛美、鏡見てみなよ。すごく可愛くなったから」

「えっ、どれどれ? ……わあ、ホントだ!」

 さやかから差し出されたスタンドミラーを覗き込んだ愛美は、歓声を上げた。
 鏡に写っている愛美の髪形は、プロの美容師がやってくれるような編み込みが入った可愛いヘアスタイルになっている。TVの中のアイドルや女優・モデルなどがよくしているのを、愛美も見ていた。

「スゴ~い、さやかちゃん! 手先、器用なんだね。もしかして美容師さん目指してるの?」

「ううん、そんなんじゃないんだけどさ。ウチ、小さい妹がいてね。中学時代はよく妹の髪いじってたんだ」

 さやかの口から、父親以外の家族の話題が出たのは初めてだ。 

「妹さん? 今いくつ?」

「今年で五歳。この春から幼稚園に通ってるよ」

「へえ……。可愛いだろうね」

 愛美はそう言って、山梨にある〈わかば園〉の幼い弟妹たちに思いをせた。
 施設を出るまで、愛美がずっと世話してきた可愛い弟妹たち。みんな元気かな? 今ごろみんなどうしてるんだろう――?

「――っていうかさ、愛美。たまには違う髪形にするのもいいもんでしょ? いつも下ろしてるからさ。暑くなってきてるしさ」

「うん。たまにはいいかもね。だってわたし、中学の頃はずっと三つ編みかお下げしかしてなかったんだよ」

「え~、もったいない。こんなにキレイな髪してるのに。好きな人もできたことだしさ、ちょっとはオシャレに気を遣ってもいいかもよ?」

 さやかが茶化すように言って、ウシシと笑う。〝好きな人〟というフレーズに、愛美の顔が赤く染まった。
 まだ恋を自覚して半月ほどしか経っていないのだ。しかも初恋なので、この状況に慣れるにはまだまだ時間がかかるのである。

「もうっ! さやかちゃん、からかわないでよっ! わたし、まだ恋バナとか慣れてないんだから!」

「はいはい、分かった! 悪かったよ! でもあたし、アンタの髪いじるの楽しいんだ。だから、時々はアレンジさせてよね。だって、珠莉はイヤっしょ? あたしみたいな素人に髪いじられんの」

 珠莉も少し茶色がかってはいるけれど、愛美に負けないくらいキレイなロングヘアーなのだ。さやかとしては、愛美と同じくらいいじり甲斐がいがありそうなのだけれど……。

「ええ。私は行きつけのヘアサロンの美容師さんにしか、ヘアケアはお任せしませんの。私の髪はデリケートなのよ。素人が触ろうものなら、すぐに傷んでしまうわ」

「……あっそ。だろうと思った」

 当初は珠莉といがみ合っていたさやかも、もう二ヶ月もルームメイトをしていたらすっかり彼女の扱いに慣れたようだ。多少のイヤミや高飛車な態度くらいはスルーできるようになったらしい。

「そういえば、もうじき夏休みですけど。お二人はご予定決まってらっしゃるの?」

 珠莉がやたら得意げな顔で、二人に訊いてきた。これはもう、自慢話をする気満々だと、愛美にもさすがに分かる。

「そういうアンタはとっくに決まってそうだね? 珠莉」

「ええ。私はヴェネツィーアに行くんですのよー。ああ、今から楽しみだわー♪」

「……ふーん。よかったね」

 イタリアの都市ヴェネチアをイヤミったらしくイタリア語風に発音し、歌うように答えた珠莉を、さやかは鼻であしらった。「コレだからセレブは」とかなんとかブツブツ言っている。

「さやかちゃんは?」

「ああ、ウチは長瀞ながとろでキャンプ。お父さんがキャンプ場の会員でね、毎年行ってんだ。あとは実家でまったり、かな」

「へえ、キャンプか。いいなあ……」

 愛美も実は、施設にいた頃に一度だけ、施設のイベントでキャンプをしたことがあるのだ。みんなで力を合わせて火をおこしたり、ゴハンを炊いたり、カレーを作ったり。すごく楽しかったことを覚えている。

「愛美は? まだおじさまに相談してないの?」

「うん……。もうそろそろ相談してみようかなーとは思ってるけど」

 実は、つい数日前に〝あしながおじさん〟に手紙を出したばかり。その時には、夏休みをどうするか相談するのを忘れていた。

(おじさまもお忙しいだろうし、あんまりしょっちゅう手紙出されても困っちゃうよね……)

「最悪、寮に居残るのもアリかなーとも思ってたり」

「ダメダメ! せっかくの夏休みなんだよ!? 高校生活で最初のバケーションなんだからさあ、思いっきり楽しまないと!」

「う、うん……。そうだね」

 ついついさやかのペースに乗せられ、頷いてしまう愛美だった。
 さやかは周りを自分のペースに巻き込みがちだけれど、愛美はそれが楽しくて仕方がないのだ。

 ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ ……

「……あれ?」

 愛美の制服のポケットで、スマホが震えている。この長い震え方からして電話みたいだ。

「――あ、ゴメン! 電話かかってきてるみたいだから、わたしは部屋に戻るね! じゃあまた後で、ゴハンの時にねっ」

「あー、うん……」

(電話? 誰からだろう?)

 愛美は首を傾げた。〝あしながおじさん〟からこのスマホを持たされてもう二ヶ月になるけれど、電話をかけてくるような相手に心当たりがない。
 おそるおそるディスプレイを確かめると――。

(コレ……、山梨の番号だ。もしかして……)

 そこに表示されているのは、ゼロで始まる電話番号。山梨の番号で、愛美に思い当たるのは一件しかない。

「……もしもし? 相川ですけど」

『愛美ちゃん? 私、〈わかば園〉の聡美です。分かる?』

 通話ボタンをタップして応答すると、聞こえてきたのは懐かしい、穏やかな年配女性の声。

「園長先生!? お久しぶりです! でも、どうしてこの番号ご存じなんですか?」

『田中さんがね、あなたにスマホをプレゼントしたっておっしゃってたから、一度かけてみようかしらと思ってね。……あら、〝あしながおじさん〟だったかしら?』

 フフフッ、と茶目っ気たっぷりに笑う園長に、愛美はバツが悪くなった。

「ゴメンなさい、園長先生! わたし、勝手にあの人にあだ名つけちゃったんです。まさか園長先生までご存じだったなんて……」

『あらあら、謝ることなんてないのよ。あの方ね、「面白いニックネームをつけてもらったんですよ」って嬉しそうにおっしゃってたんだから。「僕より愛美ちゃんの方がネーミングセンスいいですね」って』

「そうなんですか……」

 怒られる、と身構えていた愛美は、逆に褒められて嬉しいやら照れ臭いやら。

(でもおじさま、怒ってないんだ。よかった)

 思えば、彼女が一方的につけたニックネーム。返事がもらえないから、相手の反応すら分からなかった。怒らせていたらどうしようかと、内心ヒヤヒヤしていたのだけれど。

『どう? 学校は楽しい?』

「はい。すごく楽しいです。お友達もできましたし、寮生活も初めての経験が多くてワクワクしっぱなしで。――みんなは元気ですか?」

 まだ〈わかば園〉を巣立って二ヶ月ほどしか経っていないのに、愛美は兄弟同然に育ってきた他の子供たちのその後が気になっていた。

『ええ、みんな元気にしてますよ。あなたがいなくなって、最初のころはさみしがる子もいたけど、今はもう落ち着いてきてるわ。涼介くんがすっかりお兄ちゃんになって』

「そうですか。よかった」

 あの施設を出る日、愛美は涼介に後を託したのだ。しっかり自分の務めを引き継いでくれているようで、ホッとした。

『――ところで愛美ちゃん。もうすぐ夏休みでしょう? 予定はもう決まってるの?』

「……あ、いえ。まだなんです。そろそろ田中さんに相談した方がいいかな、って思ってるんですけど」

 家族がいる子なら、実家に帰るとかどこかに旅行に行くとか、すんなり休みの予定も決められるのだけれど。家族のいない愛美は、どう決めていいのか分からない。
 かといって、名目上の保護者でしかない〝あしながおじさん〟に相談するしかないのも、何だかなあと思う。――とはいえ、他に相談する相手がいないのも事実なのだけれど。

『そうなの? だったら愛美ちゃん、ここに帰ってこない?』

「……えっ?」

『夏休みの間の里帰りってことで、ね? 前みたいに小さい子たちの面倒見たり、施設のお仕事を手伝ってくれたらいいわ。大した金額じゃないけど、アルバイト代は出すから』

「……そんな」

 愛美は困ってしまった。せっかくの厚意なので、甘えたい気持ちはある。
 けれど、あの施設の経営が苦しいことは、愛美がよく知っている。バイト代を出す余裕なんてないはずなのに……。そんな口実がないと帰れない場所なんだと思うと、何だかやるせなかった。

「園長先生、ホントはそんな余裕ないんですよね? だったら、見栄はらないで下さい。わたしはもう、そこに帰る資格なんてないんです。せっかくのご厚意ですけど、ゴメンなさい」

『…………そうよね。私の方こそ、あなたの気持ちも考えないで差し出がましいことしてゴメンなさいね。夏休みの過ごし方については、田中さんにご相談してお任せした方がいいわね。おせっかいを許してね』

 少し言い方がキツすぎたかな、と愛美は反省したけれど。逆に園長に謝られ、心がチクリと痛んだ。

「そんな、おせっかいだなんて! 電話下さって嬉しかったです。ありがとうございました。それじゃ、失礼します」

 電話を切った愛美は、ベッドにバタンとひっくり返った。園長の厚意を断った今、夏休みの予定を相談する相手はもう一人しかいない。

「こういう時こそ、あしながおじさんに相談しよう!」

 愛美は着替えを済ませると、急いで机に向かった。

****

『拝啓、あしながおじさん。

 お元気ですか? わたしは今日も元気です。
 実は先ほど、〈わかば園〉の聡美園長からお電話を頂きました。『夏休みの予定が決まってないなら、アルバイトとして施設に帰ってこない?』って。
 わたしはあの施設の経営状態をよく知ってます。それなのに、バイト代につられてのこのこ帰るなんてできません。
 あの施設がキライだったわけじゃないですけど、そんな口実で帰るしかないなんて哀しいです。
 他にいい過ごし方があれば、園長先生も安心されるんじゃないかな、と思うんですけど。おじさま、わたしはどうしたらいいでしょうか?
 お返事、お待ちしてます。

            六月七日        愛美』

****

 ――その四日後。午前中の授業を終えて寮に戻ってきた愛美が郵便受けを覗くと……。

「……あ! 来てる来てる! おじさまの秘書さんからの手紙!」

 一通の封書が届いていた。茶色の洋封筒で、差出人の名前は〈久留島栄吉〉となっている。

「それって、こないだ愛美が出した手紙の返事?」

「うん。夏休みの過ごし方について相談してたの。――さて、何て書いてあるのかなー♪」

 さやかの問いに答え、封を切って文面を読んだ愛美はすっかりテンションが上がってしまった。

「……へえ。わあ! スゴーい! 信じらんない!」

「ちょっと愛美! 何て書いてあんの? 教えてよー!」

「フフフッ♪ それよりお昼ゴハン行こう♪ お腹すいたよー♪」

「……ダメだこりゃ」

 ルンルン♪ とスキップしながら食堂に向かう愛美を、さやかはただ呆れて見ているしかなかった。

****

 ――五限目は英語の授業。でも愛美は授業を聞くかたわら、せっせとレポート用紙に〝あしながおじさん〟へのお礼状をしたためていた。
 もちろん授業は大事だけれど、彼女としては一秒でも早く感謝の気持ちを伝えたかったのだ。
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