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第1部 父との別れとわたしが進むべき道
初めての恋と大きな覚悟 ④
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状況的には前日とほとんど変わっていないのに、わたしは何だかソワソワと落ち着かなかった。「彼のことが好きだ」と自覚したせいだったのかもしれない。
「……迎えに来てくれたのが桐島さんで、なんかビックリしちゃった。てっきり寺田さんが来るものだと思ってたから」
それでも何か言わなきゃ、と話題を探して口を開いてみた。彼に父の病気のことを話すには、まだタイミング的に早いと思ったから。
「寺田さんって、昨夜パーティー会場に来られていた方ですか? 五十代後半くらいでロマンスグレーの」
「そう。篠沢家の専属ドライバーさんなの。もう三十年くらい、ウチで働いてくれてるらしいよ」
「そうなんですね」
貢はこんなくだらない話題なのに、律儀に相槌を打ってくれた。
「……でも、ビックリしたけど嬉しかったよ。来てくれたのが貴方で。……ってこんな時に何言ってるんだろうね、わたし! ゴメンね!?」
好きな人が迎えに来たからって浮かれている場合ではない、と我に帰り、この話は一旦リセットした。
「ねえ、貴方と小川さんってどんな関係なの?」
これは多分嫉妬なんかじゃなくて、純粋な疑問だった。彼女が母からの個人的な頼まれごとを貢に託したということは、二人がプライベートでも近しい関係だからなのかな、と。
「小川さんは、僕と同じ大学の二年先輩なんです。学生時代から色々とお世話になっていて……。でもそれだけです。先輩は僕のことをただの後輩としか思っていませんし、多分好きな人がいるはずなので」
「…………小川さんに、好きな人?」
貢はなぜか言い訳がましく弁解していたけれど、わたしはそれよりもそっちの方が気になっていた。そして何となく分かっていた。それが父であることが。けれどそれは決して不倫なんかじゃなく、彼女の片想いだった。
「――ところで絢乃さん。お父さまの病名は何だったんですか? お母さまから連絡があったんですよね?」
「うん……、ちょっと待って」
わたしがなかなかこの話題を言い出せなかったのは、まだ心の準備が整っていなかったからだった。あまりにもショックが大きすぎて、胸が押し潰されそうで、気持ちの整理ができなかったからだ。
「…………パパね、末期ガンで、余命三ヶ月だって」
やっとのことで言うと、彼もハッと息を呑んだのが分かった。
「病状が進行しすぎて、もう手術はできないって。通院で抗ガン剤治療を受けることにはなったけど、それでどこまで持ちこたえられるか、って……」
「…………そう、ですか」
鼻をすすりながら言ったわたしに、彼も茫然となっていた。
「……どうしてこんなことになっちゃったのかな。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったんだろう? わたし……悔しい! どうしてわたしじゃなくてパパだったんだろう……」
とうとうこらえきれなくなり、わたしは泣き出した。彼の前で泣きたくなんかなかったのに、悔しさと絶望と、何だかよく分らない感情から涙は次々溢れてきた。父にこんな試練を与えた神様を恨んだ(とは言っても、我が家は無宗教だけど)。
貢はわたしが泣いている間ずっと、見ないフリをしてくれていた。わたしに気が済むまで泣かせてあげようという、彼の優しさだったんだと思う。
「――ゴメンね、桐島さん。もう大丈夫」
「落ち着かれたようですね。よかった。――絢乃さん、僕から一つアドバイスさせて頂いてもいいですか?」
「……うん」
彼が励まそうとしてくれているのだと分かり、わたしは彼の方に向けて顔を上げた。
「お父さまの余命をあと三ヶ月しかないと悲観せず、あと三ヶ月もあると前向きに捉えてみてはどうでしょうか」
「うん……?」
「三ヶ月もあれば色々できますよ。ご家族で思い出を作ったり、親孝行もできます。お父さまが死を迎えられるまでの覚悟……というか心の準備も十分にできるはずです。これからの三ヶ月間、お父さまとの一日一日を大事に過ごして下さい。何かあれば、何でも僕に相談して下さいね」
「うん……そうだよね。パパは明日すぐにいなくなっちゃうわけじゃないんだもんね。桐島さん、ありがと! 貴方がいてくれてよかった」
彼の言葉で気づかされた。三ヶ月という、父に残された時間は決して短くないんだと。わたし一人だったらもっと悲観していたかもしれない。でも、彼のおかげで少し前を向けた気がした。
* * * *
「――絢乃さん、僕は会社へ戻らないといけないので、これで失礼します」
篠沢家の前でわたしを降ろしてくれた貢は、残念そうにそう言った。
「わざわざ仕事を抜けて来てくれたの? ありがとう。ゴメンね」
そのせいで彼が上司の人に怒られたら……と、わたしは気が咎めたけれど。
「いえいえ、会長夫人の頼みごとでしたら上司にも咎められないでしょうから。では、これで――」
「あっ、ちょっと待って!」
何かお礼をしなきゃ、と彼を引き留め、スクールバッグからピンクゴールドの長財布を取り出した。一万円札だと彼に気を遣わせてしまうし、かと言って千円札では少なすぎる。悩んだ末に五千円札を抜き取り、二つに折り畳むと彼の右手に握らせた。
「これ……今日のお礼と、泣いたことへの口止め料込みで」
「そんな、受け取れませんよ。お金が欲しかったわけじゃありませんから」
「受け取ってくれないと困る。今のわたしにはこれくらいしかお礼できないから、ね?」
わたしは紙幣を握らせた彼の手にぐっと力を込めた。そんなわたしの圧に負けたのか、彼はとうとう折れた。
「……あなたには負けました。ありがとうございます。お父さまが心配でしょう? 早く行って差し上げて下さい」
「うん。じゃあ……また」
わたしは頷き、彼に背を向けた。彼がお金を受け取ってくれたことに満足したからじゃない。何より父と話がしたかったから――。
玄関で、もどかしい思いでスリッパに履き替えてリビングに飛び込むと、父はケロッとした顔をしていた。母の話では、余命宣告の時に父もその場で一緒に聞いていたはずなのに。
「――おかえり、絢乃」
「ただいま……。パパ、大丈夫なの? 余命宣告受けて、ショックだったんじゃないの?」
「そりゃ、まぁな。ショックを受けなかったと言えばウソになるが……。お父さんは前を向くことにしたんだ。これから残された時間を、お前やお母さんと一緒に大事に過ごそうと。ちゃんと会社にも顔を出す。体が動く間はな」
「そっか……」
父も覚悟ができているようで、わたしに語った内容も貢からのアドバイスと同じだった。父は自分の病気と、命と向き合うことに決めたのだ。それならわたしも、父の命の期限と向き合わなければ。
「わたしも、これからパパともっと話したい。一緒に思い出いっぱい作ろうね」
「ああ」
父が病気と闘うのなら、ひとりでは闘わせない。精一杯、父を支えていこうと決めた。
――わたしは夕食の時間まで自室で過ごし、その間に里歩とメッセージのやり取りをした。
〈パパ、ガンで余命三ヶ月だって!
ショックだけど、パパが治療頑張るならわたしも前向こうって決めた。
桐島さんもそう言ってくれたから……〉
〈そっか。あたしも安心したよ♪
桐島さんってホントいい人みたいだね。あたしも会いた~い!!!〉
〈いつか里歩にも紹介するよ。楽しみにしててね♡
明日も学校行くから、今日の午後のノートよろしく。〉
父の余命宣告というつらい現実にぶち当たっても、わたしは前向きな気持ちでいられた。それは里歩というかけがえのない親友の存在と、初めての恋の魔力がそうさせてくれたのかもしれない、と今は思う。
「……迎えに来てくれたのが桐島さんで、なんかビックリしちゃった。てっきり寺田さんが来るものだと思ってたから」
それでも何か言わなきゃ、と話題を探して口を開いてみた。彼に父の病気のことを話すには、まだタイミング的に早いと思ったから。
「寺田さんって、昨夜パーティー会場に来られていた方ですか? 五十代後半くらいでロマンスグレーの」
「そう。篠沢家の専属ドライバーさんなの。もう三十年くらい、ウチで働いてくれてるらしいよ」
「そうなんですね」
貢はこんなくだらない話題なのに、律儀に相槌を打ってくれた。
「……でも、ビックリしたけど嬉しかったよ。来てくれたのが貴方で。……ってこんな時に何言ってるんだろうね、わたし! ゴメンね!?」
好きな人が迎えに来たからって浮かれている場合ではない、と我に帰り、この話は一旦リセットした。
「ねえ、貴方と小川さんってどんな関係なの?」
これは多分嫉妬なんかじゃなくて、純粋な疑問だった。彼女が母からの個人的な頼まれごとを貢に託したということは、二人がプライベートでも近しい関係だからなのかな、と。
「小川さんは、僕と同じ大学の二年先輩なんです。学生時代から色々とお世話になっていて……。でもそれだけです。先輩は僕のことをただの後輩としか思っていませんし、多分好きな人がいるはずなので」
「…………小川さんに、好きな人?」
貢はなぜか言い訳がましく弁解していたけれど、わたしはそれよりもそっちの方が気になっていた。そして何となく分かっていた。それが父であることが。けれどそれは決して不倫なんかじゃなく、彼女の片想いだった。
「――ところで絢乃さん。お父さまの病名は何だったんですか? お母さまから連絡があったんですよね?」
「うん……、ちょっと待って」
わたしがなかなかこの話題を言い出せなかったのは、まだ心の準備が整っていなかったからだった。あまりにもショックが大きすぎて、胸が押し潰されそうで、気持ちの整理ができなかったからだ。
「…………パパね、末期ガンで、余命三ヶ月だって」
やっとのことで言うと、彼もハッと息を呑んだのが分かった。
「病状が進行しすぎて、もう手術はできないって。通院で抗ガン剤治療を受けることにはなったけど、それでどこまで持ちこたえられるか、って……」
「…………そう、ですか」
鼻をすすりながら言ったわたしに、彼も茫然となっていた。
「……どうしてこんなことになっちゃったのかな。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったんだろう? わたし……悔しい! どうしてわたしじゃなくてパパだったんだろう……」
とうとうこらえきれなくなり、わたしは泣き出した。彼の前で泣きたくなんかなかったのに、悔しさと絶望と、何だかよく分らない感情から涙は次々溢れてきた。父にこんな試練を与えた神様を恨んだ(とは言っても、我が家は無宗教だけど)。
貢はわたしが泣いている間ずっと、見ないフリをしてくれていた。わたしに気が済むまで泣かせてあげようという、彼の優しさだったんだと思う。
「――ゴメンね、桐島さん。もう大丈夫」
「落ち着かれたようですね。よかった。――絢乃さん、僕から一つアドバイスさせて頂いてもいいですか?」
「……うん」
彼が励まそうとしてくれているのだと分かり、わたしは彼の方に向けて顔を上げた。
「お父さまの余命をあと三ヶ月しかないと悲観せず、あと三ヶ月もあると前向きに捉えてみてはどうでしょうか」
「うん……?」
「三ヶ月もあれば色々できますよ。ご家族で思い出を作ったり、親孝行もできます。お父さまが死を迎えられるまでの覚悟……というか心の準備も十分にできるはずです。これからの三ヶ月間、お父さまとの一日一日を大事に過ごして下さい。何かあれば、何でも僕に相談して下さいね」
「うん……そうだよね。パパは明日すぐにいなくなっちゃうわけじゃないんだもんね。桐島さん、ありがと! 貴方がいてくれてよかった」
彼の言葉で気づかされた。三ヶ月という、父に残された時間は決して短くないんだと。わたし一人だったらもっと悲観していたかもしれない。でも、彼のおかげで少し前を向けた気がした。
* * * *
「――絢乃さん、僕は会社へ戻らないといけないので、これで失礼します」
篠沢家の前でわたしを降ろしてくれた貢は、残念そうにそう言った。
「わざわざ仕事を抜けて来てくれたの? ありがとう。ゴメンね」
そのせいで彼が上司の人に怒られたら……と、わたしは気が咎めたけれど。
「いえいえ、会長夫人の頼みごとでしたら上司にも咎められないでしょうから。では、これで――」
「あっ、ちょっと待って!」
何かお礼をしなきゃ、と彼を引き留め、スクールバッグからピンクゴールドの長財布を取り出した。一万円札だと彼に気を遣わせてしまうし、かと言って千円札では少なすぎる。悩んだ末に五千円札を抜き取り、二つに折り畳むと彼の右手に握らせた。
「これ……今日のお礼と、泣いたことへの口止め料込みで」
「そんな、受け取れませんよ。お金が欲しかったわけじゃありませんから」
「受け取ってくれないと困る。今のわたしにはこれくらいしかお礼できないから、ね?」
わたしは紙幣を握らせた彼の手にぐっと力を込めた。そんなわたしの圧に負けたのか、彼はとうとう折れた。
「……あなたには負けました。ありがとうございます。お父さまが心配でしょう? 早く行って差し上げて下さい」
「うん。じゃあ……また」
わたしは頷き、彼に背を向けた。彼がお金を受け取ってくれたことに満足したからじゃない。何より父と話がしたかったから――。
玄関で、もどかしい思いでスリッパに履き替えてリビングに飛び込むと、父はケロッとした顔をしていた。母の話では、余命宣告の時に父もその場で一緒に聞いていたはずなのに。
「――おかえり、絢乃」
「ただいま……。パパ、大丈夫なの? 余命宣告受けて、ショックだったんじゃないの?」
「そりゃ、まぁな。ショックを受けなかったと言えばウソになるが……。お父さんは前を向くことにしたんだ。これから残された時間を、お前やお母さんと一緒に大事に過ごそうと。ちゃんと会社にも顔を出す。体が動く間はな」
「そっか……」
父も覚悟ができているようで、わたしに語った内容も貢からのアドバイスと同じだった。父は自分の病気と、命と向き合うことに決めたのだ。それならわたしも、父の命の期限と向き合わなければ。
「わたしも、これからパパともっと話したい。一緒に思い出いっぱい作ろうね」
「ああ」
父が病気と闘うのなら、ひとりでは闘わせない。精一杯、父を支えていこうと決めた。
――わたしは夕食の時間まで自室で過ごし、その間に里歩とメッセージのやり取りをした。
〈パパ、ガンで余命三ヶ月だって!
ショックだけど、パパが治療頑張るならわたしも前向こうって決めた。
桐島さんもそう言ってくれたから……〉
〈そっか。あたしも安心したよ♪
桐島さんってホントいい人みたいだね。あたしも会いた~い!!!〉
〈いつか里歩にも紹介するよ。楽しみにしててね♡
明日も学校行くから、今日の午後のノートよろしく。〉
父の余命宣告というつらい現実にぶち当たっても、わたしは前向きな気持ちでいられた。それは里歩というかけがえのない親友の存在と、初めての恋の魔力がそうさせてくれたのかもしれない、と今は思う。
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