4 / 11
偶然から生まれる密かな期待
しおりを挟む
彼の部屋のポストに合鍵を返したのは水曜日のことだった。あれから毎日連絡を取っているけれど、彼がその事に何も触れないということは、まだ気が付いていないということだろうか……。
「もう土曜か……。」
本来ならばデートをすると約束していた休日。彼は昨日の電話でも朝から仕事に行き、何時ごろに帰って来られるか分からないと言っていた。
「確かに鍵が向こう側に落ちた音がしたんだけど。ポストの中、見てないだけだよね。」
余りにも気が付いてもらえない事で、もしかして何か手違いでもあったのだろうかと不安になってくる。
今日は一日フリーで何も予定がなかった。どうせ暇なんだし、彼が会社に行っているこの時間ならちょっとアパートの郵便受けを見に行ったとしてもバレたりはしないだろう。
遅めの朝食をとるといつもの動きやすい服装に着替える。もう張り切っておしゃれをする必要もないし、背伸びをしてパンプスを履いてまた靴擦れをするようなこともない。
──合鍵ないんじゃ外から見る事しかできないけど……ま、いいか。
自宅から電車で30分ちょっとの距離は、きっと一般的に言う遠距離にはならないんだと思う。現に私はこの半年間彼の家に頻繁に通ってきた。それに今こうして約束もないのにふらっと部屋の様子を見に行こうとしている。それもわざわざ彼のいない時間帯を選んで……。
乗り換え駅でもある目的地に到着すると一斉に乗客が動き始めた。足早に改札をくぐると迷うことなく出口に向かう。急ぐ理由は何もないけれど、周りの速度に合わせていると自然と自分も早足になっていた。
駅から少し歩いたところでようやく歩調を緩めると、後ろから来た数人に追い抜かれた。そのうちの一人、すらっと背の高いスーツの後ろ姿にどこか見覚えがあるような気がした。
「あ……。」
呼び止めようとしたものの咄嗟に名前が出てこない、でも例のコインランドリーで会った男の人に間違いなかった。追い越していった人たちが怪訝そうな表情をして一斉にこちらを振り返るが、声を掛けられたのが自分ではなかった事に気が付くと何もなかったかのように再び前を向き歩き出した。その中で一人だけが驚いた顔をして足を止め、私が追いつくのを待ってくれている。
「あれ?……一人?」
「はい。この前はありがとうございました。今日、お仕事でしたか?」
「あぁ、ちょっと会社に顔出して来たけど今から帰るところ……です。君は彼の家に行くところ?」
「……そんな感じです。」
「せっかくの土曜だもんね。」
「向こうは仕事でいないんですけどね。」
「何?また洗濯してあげるんですか?」
「いえ……そういうのはもう終わりにしました。」
「終わり?」
「ちょっと、いろいろあって。」
「そう……なんだ。」
それきり無言で歩くと、すぐに彼の住むアパートが見えて来た。留守の間にこっそり覗きに行くのが後ろめたいということもあり、自然と歩くスピードが遅くなる。
「行かないの?もしかして喧嘩中ですか?」
「いいえ。……大事なものを部屋のポストに入れたんですけど気付いてないみたいなんで。見たのかどうか確かめたくて来たんですけど、やっぱり来るんじゃなかったかなって。」
「それって……。」
「鍵……です。」
「どうやって確かめるつもり?」
アパートの入り口付近で立ち止まると、薄暗いコンクリートの階段の先を見つめた。
「分かりません。きっと郵便物が溜まってると思うんでそれだけ確認して──。」
話しながらなぜだか涙がこぼれそうになり、慌てて手で拭った。
「すみません、なんでだろ?私いきなりこんな重たい話とかしはじめちゃって。迷惑ですよね。」
「そんなことないよ。誰かに聞いてほしかっただけでしょ、多分。」
「……そうかも、しれないです。」
「じゃ、覚悟決めて行きますか?」
「……」
まだ迷いがあるのか直ぐには頷くことができなかった。再び黙り込んだ私に戸惑ったのか、その人はちょっと考えた後でだったらと小さく呟いた。
「俺、この後コインランドリー行くつもりなんで。もし話相手が欲しかったらそこに……。」
「いえ、それはさすがに……申し訳ないんで、大丈夫です。」
「申し訳ないって誰に?」
「その……彼女さんとか……変な誤解されたら申し訳ないですし。」
「誰の?」
「あ……」
名前が出てこないので仕方なく手のひらを上に向けてその人を示す。
「ヒロシ。」
「ヒロシさんの彼女。」
「今フリーなんで。むしろ出会いがなくて困ってるくらいですから。」
「……本当ですか?」
「警戒しないでください。彼氏がいるの分かってて手出したりとかしないんで。」
「そんなの分かってます。でも、ありがとうございました。なんか少し元気出てきました。」
私が覚悟を決めて一歩踏み出すまでこうして冗談を言いながら付き合ってくれているのが分かり、少しだけ勇気をもらえた気がした。
「私、行ってみます。」
浩史さんは微かに笑みを浮かべながらうんと頷き、小さく手を振って見送ってくれた。
背中に視線を感じながら、古いアパートの階段を一歩ずつ上る。今日はスニーカーだしスーパーのレジ袋一杯の食材もないから足取りが軽く思えた。
──ヒロシさん、年上のはずだけど変な敬語使ってたな。
彼の部屋のポストには、宅配ピザのチラシやフリーペーパーが数枚挟まったままで風に揺れていた。投函口の蓋を少し持ち上げて邪魔なチラシを引き抜きもっと中まで覗こうとしたものの、何かが邪魔をしているのか単に暗いだけなのかそれ以上はなにも分からなかった。一応ドアの隙間や周辺に鍵が落ちていないか確認はしたものの、そもそもそんなところに鍵が何日も放置されているはずがなかった。
手に持ったチラシを目立つようにもう一度差し込みなおすと、部屋の番号と何も書いてないネームプレートを確認した。もしもう少し新しいアパートだったら、インターホンにカメラがついていて来た事を知らせる事もできたのだろうけれど、ここのインターホンはカメラのない単なる呼び鈴だけのタイプだ。
” どうせ帰って寝るだけなんだし少しでも安い方がいいだろ?金がたまったらもっとましなところに引っ越すから、その時は沙耶も一緒に──。 ”
彼にとっては寝る事さえできればあとはどうでもよかったんだろうか──。
” 馬鹿だな、そんな訳ないじゃん。知ってるだろ? ”
彼は今日も仕事から帰って来て当たり前のようにご飯を食べ、気が向いた時に寝るだけ──。同じことが当たり前のように続く毎日に、私はもう耐えられそうになかった。
「もう土曜か……。」
本来ならばデートをすると約束していた休日。彼は昨日の電話でも朝から仕事に行き、何時ごろに帰って来られるか分からないと言っていた。
「確かに鍵が向こう側に落ちた音がしたんだけど。ポストの中、見てないだけだよね。」
余りにも気が付いてもらえない事で、もしかして何か手違いでもあったのだろうかと不安になってくる。
今日は一日フリーで何も予定がなかった。どうせ暇なんだし、彼が会社に行っているこの時間ならちょっとアパートの郵便受けを見に行ったとしてもバレたりはしないだろう。
遅めの朝食をとるといつもの動きやすい服装に着替える。もう張り切っておしゃれをする必要もないし、背伸びをしてパンプスを履いてまた靴擦れをするようなこともない。
──合鍵ないんじゃ外から見る事しかできないけど……ま、いいか。
自宅から電車で30分ちょっとの距離は、きっと一般的に言う遠距離にはならないんだと思う。現に私はこの半年間彼の家に頻繁に通ってきた。それに今こうして約束もないのにふらっと部屋の様子を見に行こうとしている。それもわざわざ彼のいない時間帯を選んで……。
乗り換え駅でもある目的地に到着すると一斉に乗客が動き始めた。足早に改札をくぐると迷うことなく出口に向かう。急ぐ理由は何もないけれど、周りの速度に合わせていると自然と自分も早足になっていた。
駅から少し歩いたところでようやく歩調を緩めると、後ろから来た数人に追い抜かれた。そのうちの一人、すらっと背の高いスーツの後ろ姿にどこか見覚えがあるような気がした。
「あ……。」
呼び止めようとしたものの咄嗟に名前が出てこない、でも例のコインランドリーで会った男の人に間違いなかった。追い越していった人たちが怪訝そうな表情をして一斉にこちらを振り返るが、声を掛けられたのが自分ではなかった事に気が付くと何もなかったかのように再び前を向き歩き出した。その中で一人だけが驚いた顔をして足を止め、私が追いつくのを待ってくれている。
「あれ?……一人?」
「はい。この前はありがとうございました。今日、お仕事でしたか?」
「あぁ、ちょっと会社に顔出して来たけど今から帰るところ……です。君は彼の家に行くところ?」
「……そんな感じです。」
「せっかくの土曜だもんね。」
「向こうは仕事でいないんですけどね。」
「何?また洗濯してあげるんですか?」
「いえ……そういうのはもう終わりにしました。」
「終わり?」
「ちょっと、いろいろあって。」
「そう……なんだ。」
それきり無言で歩くと、すぐに彼の住むアパートが見えて来た。留守の間にこっそり覗きに行くのが後ろめたいということもあり、自然と歩くスピードが遅くなる。
「行かないの?もしかして喧嘩中ですか?」
「いいえ。……大事なものを部屋のポストに入れたんですけど気付いてないみたいなんで。見たのかどうか確かめたくて来たんですけど、やっぱり来るんじゃなかったかなって。」
「それって……。」
「鍵……です。」
「どうやって確かめるつもり?」
アパートの入り口付近で立ち止まると、薄暗いコンクリートの階段の先を見つめた。
「分かりません。きっと郵便物が溜まってると思うんでそれだけ確認して──。」
話しながらなぜだか涙がこぼれそうになり、慌てて手で拭った。
「すみません、なんでだろ?私いきなりこんな重たい話とかしはじめちゃって。迷惑ですよね。」
「そんなことないよ。誰かに聞いてほしかっただけでしょ、多分。」
「……そうかも、しれないです。」
「じゃ、覚悟決めて行きますか?」
「……」
まだ迷いがあるのか直ぐには頷くことができなかった。再び黙り込んだ私に戸惑ったのか、その人はちょっと考えた後でだったらと小さく呟いた。
「俺、この後コインランドリー行くつもりなんで。もし話相手が欲しかったらそこに……。」
「いえ、それはさすがに……申し訳ないんで、大丈夫です。」
「申し訳ないって誰に?」
「その……彼女さんとか……変な誤解されたら申し訳ないですし。」
「誰の?」
「あ……」
名前が出てこないので仕方なく手のひらを上に向けてその人を示す。
「ヒロシ。」
「ヒロシさんの彼女。」
「今フリーなんで。むしろ出会いがなくて困ってるくらいですから。」
「……本当ですか?」
「警戒しないでください。彼氏がいるの分かってて手出したりとかしないんで。」
「そんなの分かってます。でも、ありがとうございました。なんか少し元気出てきました。」
私が覚悟を決めて一歩踏み出すまでこうして冗談を言いながら付き合ってくれているのが分かり、少しだけ勇気をもらえた気がした。
「私、行ってみます。」
浩史さんは微かに笑みを浮かべながらうんと頷き、小さく手を振って見送ってくれた。
背中に視線を感じながら、古いアパートの階段を一歩ずつ上る。今日はスニーカーだしスーパーのレジ袋一杯の食材もないから足取りが軽く思えた。
──ヒロシさん、年上のはずだけど変な敬語使ってたな。
彼の部屋のポストには、宅配ピザのチラシやフリーペーパーが数枚挟まったままで風に揺れていた。投函口の蓋を少し持ち上げて邪魔なチラシを引き抜きもっと中まで覗こうとしたものの、何かが邪魔をしているのか単に暗いだけなのかそれ以上はなにも分からなかった。一応ドアの隙間や周辺に鍵が落ちていないか確認はしたものの、そもそもそんなところに鍵が何日も放置されているはずがなかった。
手に持ったチラシを目立つようにもう一度差し込みなおすと、部屋の番号と何も書いてないネームプレートを確認した。もしもう少し新しいアパートだったら、インターホンにカメラがついていて来た事を知らせる事もできたのだろうけれど、ここのインターホンはカメラのない単なる呼び鈴だけのタイプだ。
” どうせ帰って寝るだけなんだし少しでも安い方がいいだろ?金がたまったらもっとましなところに引っ越すから、その時は沙耶も一緒に──。 ”
彼にとっては寝る事さえできればあとはどうでもよかったんだろうか──。
” 馬鹿だな、そんな訳ないじゃん。知ってるだろ? ”
彼は今日も仕事から帰って来て当たり前のようにご飯を食べ、気が向いた時に寝るだけ──。同じことが当たり前のように続く毎日に、私はもう耐えられそうになかった。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
【R18】愛され総受け女王は、20歳の誕生日に夫である美麗な年下国王に甘く淫らにお祝いされる
奏音 美都
恋愛
シャルール公国のプリンセス、アンジェリーナの公務の際に出会い、恋に落ちたソノワール公爵であったルノー。
両親を船の沈没事故で失い、突如女王として戴冠することになった間も、彼女を支え続けた。
それから幾つもの困難を乗り越え、ルノーはアンジェリーナと婚姻を結び、単なる女王の夫、王配ではなく、自らも執政に取り組む国王として戴冠した。
夫婦となって初めて迎えるアンジェリーナの誕生日。ルノーは彼女を喜ばせようと、画策する。
粗暴で優しい幼馴染彼氏はおっとり系彼女を好きすぎる
春音優月
恋愛
おっとりふわふわ大学生の一色のどかは、中学生の時から付き合っている幼馴染彼氏の黒瀬逸希と同棲中。態度や口は荒っぽい逸希だけど、のどかへの愛は大きすぎるほど。
幸せいっぱいなはずなのに、逸希から一度も「好き」と言われてないことに気がついてしまって……?
幼馴染大学生の糖度高めなショートストーリー。
2024.03.06
イラスト:雪緒さま
鬼上官と、深夜のオフィス
99
恋愛
「このままでは女としての潤いがないまま、生涯を終えてしまうのではないか。」
間もなく30歳となる私は、そんな焦燥感に駆られて婚活アプリを使ってデートの約束を取り付けた。
けれどある日の残業中、アプリを操作しているところを会社の同僚の「鬼上官」こと佐久間君に見られてしまい……?
「婚活アプリで相手を探すくらいだったら、俺を相手にすりゃいい話じゃないですか。」
鬼上官な同僚に翻弄される、深夜のオフィスでの出来事。
※性的な事柄をモチーフとしていますが
その描写は薄いです。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる