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第54話 大奥は再び咲く~出版 陸
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本屋が費用を負担した私家版は、実質、町版と言って差し支えないほど広く販売される。
表向きは私家版だが町版と遜色ない販売。
高遠が自腹を切ったのは違約金と一巻のぶんだけ。二巻以降は鶴屋が全額を出す。鶴屋は今、高遠のパトロンになったのだ。
「……あいわかった。では、そのように契約いたそう」
「ありがとうございます。では後日、契約書を持ち、お伺いいたします。登城するよき日をお知らせください」
「わかった」
「それで、ひとつ確認したいのですが」
「なんじゃ?」
「絵師は同じ方にお願いできるのでしょうか。手前どもといたしましては、是が非でもお願いしたいのですが」
「う、む……。それはしばし待ってくれ。確認を取ろう」
「高遠さまをとおさず、手前どもに任せていただくことはかないませぬでしょうか? お相手とじかにお話できれば……」
すぐさま首を振る。
「それはできぬ。極度の人嫌いゆえ、わらわを介さぬ限り無理な話だ。依頼を断るということであれば、すぐに文を出す」
「そうでございますか……。では、こちらも期限がございますので、引き受けてくれるかどうかは七日間以内にお返事をいただきとうございます」
「あい、わかった」
高遠としては、もちろん須磨に描いて欲しいと思っている。
だが、出版に向けて再び絵を描くとなれば、また、危険が及ぶかもしれないのだ。沢渡主殿頭に一枚噛んだ金崎はもういないが、須磨が絵師であることは極力秘密にしておかなければならない。
そしてなにより大切なことは、須磨の意思を尊重することだ。
「高遠さま?」
「む、すまぬ。少々考えることがあっての」
佐枝が商人らしい目つきで言った。
「二月後、発売の二巻を手に入れたいという者は多く、手前どもの見立てでは、この本は初版で千枚振舞となる――。そう考えております。ですので人手を増やし、万全の体制を整えております」
「……ふ、む。それはなによりじゃ」
「当家にとっても、まことに吉報となるでしょう」
「これからもよしなに頼む」
「もちろんでございます」
そう言って佐枝は頭を垂れた。
「では、これにて失礼いたします。絵のお返事を待ちいたしております」
「ああ、わかった。ご苦労であった」
佐枝が立ち去ってから、部屋にポツンと取り残された高遠は呆然としていた。
言葉を失っていたと言ったほうが正しい。
人はあまりに驚くと語彙が激減するようだ。落ち着いて返事をしたものの、ことの重大さに思考が停止していたのだ。
――千枚……振舞だと……? しょ、初版で?
無名作家の初版は基本三百部だ。
その三百部が売れなければ次作は出ない。ほとんどの作家はそこでふるいに掛けられ、零れ落ちる。千部売れるということは、それほど滅多にない特別なことで、達成すれば高遠はベストセラー作家の仲間入りを果たすということになる。
もちろん出版の賭けに含まれていたが、二巻、三巻を経てそうなる可能性が高いと踏んでいただけで、二巻からそうなるとは思ってみなかった。
一重まぶたの細い目をカッと見開き、ようやく出た声と言えば、
「誠か!? たぶらかされておるのではあるまいな!?」
出す出す詐欺だったらどうしよう。
いや、金を出すのは鶴屋なので嘘ではないだろうが、勢いがすぎて心が置いてけぼりだ。
きゅっと頬をつねってみる。
「ったたたた……!」
しっかり痛みを感じる。
ということは、本当にそうなる可能性があるということだ。ここに至るまで平坦な道ではなかった。
須磨は作品を破られ、墨で真っ黒に汚され、脅迫までされたのに絵を描いてくれた。自分も二作が盗まれ、居場所を失い、筆を折ろうとした。それが千枚振舞を見込まれ鶴屋はパトロンになった――。
これで江戸市中に男色本が出回る。そうなれば沢渡主殿頭は大奥に目を向ける余裕もなくなる。
賭に――勝ったのだ。
須磨との本が花開いたのだ。
「こっ、こうしてはおられぬ。改稿だ。盗まれた作品の改稿をして……、いや新作だ。新作を書こう……。まてまて、そのまえにお須磨の方さまにご報告をせねば……!」
喜びに心が止められず、スックと立ち上がった。――と、踏み出そうとした足は止まった。
表向きは私家版だが町版と遜色ない販売。
高遠が自腹を切ったのは違約金と一巻のぶんだけ。二巻以降は鶴屋が全額を出す。鶴屋は今、高遠のパトロンになったのだ。
「……あいわかった。では、そのように契約いたそう」
「ありがとうございます。では後日、契約書を持ち、お伺いいたします。登城するよき日をお知らせください」
「わかった」
「それで、ひとつ確認したいのですが」
「なんじゃ?」
「絵師は同じ方にお願いできるのでしょうか。手前どもといたしましては、是が非でもお願いしたいのですが」
「う、む……。それはしばし待ってくれ。確認を取ろう」
「高遠さまをとおさず、手前どもに任せていただくことはかないませぬでしょうか? お相手とじかにお話できれば……」
すぐさま首を振る。
「それはできぬ。極度の人嫌いゆえ、わらわを介さぬ限り無理な話だ。依頼を断るということであれば、すぐに文を出す」
「そうでございますか……。では、こちらも期限がございますので、引き受けてくれるかどうかは七日間以内にお返事をいただきとうございます」
「あい、わかった」
高遠としては、もちろん須磨に描いて欲しいと思っている。
だが、出版に向けて再び絵を描くとなれば、また、危険が及ぶかもしれないのだ。沢渡主殿頭に一枚噛んだ金崎はもういないが、須磨が絵師であることは極力秘密にしておかなければならない。
そしてなにより大切なことは、須磨の意思を尊重することだ。
「高遠さま?」
「む、すまぬ。少々考えることがあっての」
佐枝が商人らしい目つきで言った。
「二月後、発売の二巻を手に入れたいという者は多く、手前どもの見立てでは、この本は初版で千枚振舞となる――。そう考えております。ですので人手を増やし、万全の体制を整えております」
「……ふ、む。それはなによりじゃ」
「当家にとっても、まことに吉報となるでしょう」
「これからもよしなに頼む」
「もちろんでございます」
そう言って佐枝は頭を垂れた。
「では、これにて失礼いたします。絵のお返事を待ちいたしております」
「ああ、わかった。ご苦労であった」
佐枝が立ち去ってから、部屋にポツンと取り残された高遠は呆然としていた。
言葉を失っていたと言ったほうが正しい。
人はあまりに驚くと語彙が激減するようだ。落ち着いて返事をしたものの、ことの重大さに思考が停止していたのだ。
――千枚……振舞だと……? しょ、初版で?
無名作家の初版は基本三百部だ。
その三百部が売れなければ次作は出ない。ほとんどの作家はそこでふるいに掛けられ、零れ落ちる。千部売れるということは、それほど滅多にない特別なことで、達成すれば高遠はベストセラー作家の仲間入りを果たすということになる。
もちろん出版の賭けに含まれていたが、二巻、三巻を経てそうなる可能性が高いと踏んでいただけで、二巻からそうなるとは思ってみなかった。
一重まぶたの細い目をカッと見開き、ようやく出た声と言えば、
「誠か!? たぶらかされておるのではあるまいな!?」
出す出す詐欺だったらどうしよう。
いや、金を出すのは鶴屋なので嘘ではないだろうが、勢いがすぎて心が置いてけぼりだ。
きゅっと頬をつねってみる。
「ったたたた……!」
しっかり痛みを感じる。
ということは、本当にそうなる可能性があるということだ。ここに至るまで平坦な道ではなかった。
須磨は作品を破られ、墨で真っ黒に汚され、脅迫までされたのに絵を描いてくれた。自分も二作が盗まれ、居場所を失い、筆を折ろうとした。それが千枚振舞を見込まれ鶴屋はパトロンになった――。
これで江戸市中に男色本が出回る。そうなれば沢渡主殿頭は大奥に目を向ける余裕もなくなる。
賭に――勝ったのだ。
須磨との本が花開いたのだ。
「こっ、こうしてはおられぬ。改稿だ。盗まれた作品の改稿をして……、いや新作だ。新作を書こう……。まてまて、そのまえにお須磨の方さまにご報告をせねば……!」
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