48 / 69
第48話 究極の二択 陸
しおりを挟む
塩沢の目に力がこもる。聞くに値しない話ではないと判断したのだ。
「――続けよ」
「は。そのためには本が売れることが前提ですが、必ず本は売れます。時を置かず再販がかかるでしょう。理由は民の不満はいつ爆発してもおかしくはない状況にあるからです。
少なくとも好色本は本屋から消えています。遊興、娯楽も同じです。そして、民は締め付けに息苦しさを感じ、飢饉の余波は続いている。各地の農村暮らしはもっと酷いものでしょう。
――つまり、いつどこで一揆が起こってもおかしくない状況にあります。財政難の幕府にとって農民の一揆ほど金がかかり手を焼くものもございませぬ。厳しく処罰しれば年貢の取り高も減り、さらに不満が連鎖する可能性は低くございませぬ。そして、なにより人はいつまでも悪政に従いませぬ。
沢渡主殿頭が行った『人返し令』も流民が増え、江戸の治安を悪くしただけにございます。沢渡主殿頭の政策は民は負担を強いるばかり。明るい兆しなどない」
高遠の熱弁は場を支配していた。
あの中野でさえ目の色を変えて聞き入っている。
「出版の部数は微々たるものですが、少ないからこそ人は手に入れたくなる性を持つものです。しかも、もう一度手に入る確証もない。
なにより御公儀に咎められない好色本となれば、多少の無理をしても手に入れたいと考えるはず。鶴屋でも大々的に売り出すことは契約済みであり、再版の手はずも整えております。
いかに沢渡主殿頭とて、市政に広まった本すべてを回収することなど不可能にございます。わたくしを捕らえたとてなんの意味もない。この男色本の賭けの勝率は沢渡主殿頭の布令に劣るものではない。
そして、わたくしの目的は当初からなにも変わってはおりませぬ。『大奥に金を入れる』これに尽きます。それが微々たる金であったとしてもでございます。――わたくしは抗いたい。大奥で暮らす者がこれ以上悪政に虐げられることのないように。『大奥の女を甘く見るな』と」
部屋は完全に沈黙した。
重苦しいものではなく思案の時間へと。高遠は最後の言葉を噛みしめるよう紡いだ。
「……大奥がここまで永らえてきたのは一時の権力者がその地位により築いた己に都合が良いものではないからにございます。幕府を守り続けるために欠かせない存在であるからです。表向きと奥向きは表裏一体。片方だけを切り取ることなどできはしません。その上での出版にございます」
高遠の賭けに塩沢たちがのるかそるか――。
思惑に満ちた静けさが駆ける馬のごとく鳴る心臓の音を耳に届ける。ひどく喉が渇いている。呼吸も浅い。それでもまっすぐに前だけを見た。
ひとときの静寂ののち、
「――わたくしは、高遠殿の出版に賛成いたします」と叶が言った。「金崎殿を陥れたことは大奥の人事に口を出したのも同じこと。ここで泣き寝入りをすれば、これからの大奥に禍根を残すことになりまする」
中野も首肯し、
「確かに、金崎殿に罪はございまするが、それを表向きに断罪されるは業腹。高遠殿の覚悟しかと受け止めましたぞ」と珍しく強い言葉を口にした。
視線は塩沢へと向けられた。
塩沢は眉根にきつい皺を寄せたのち、ふっと短い息を吐いた。威厳を持った声が響く。
「高遠。おまえの忠義、しかと受け止めた。出版するがよい。金崎の二の舞は起こさせぬよう総取締役として、あらゆる手を尽くそう。お前の言うとおり、大奥なくして幕府の存続は不可能。一時の権力者の思惑で揺らぐなどあってはならぬ。――わしも腹をくくらねばな」
高遠は手を突いて平伏し、心から感謝の気持ちを述べた。
「ご厚情を賜り、誠に恐悦至極に存じます」
「――続けよ」
「は。そのためには本が売れることが前提ですが、必ず本は売れます。時を置かず再販がかかるでしょう。理由は民の不満はいつ爆発してもおかしくはない状況にあるからです。
少なくとも好色本は本屋から消えています。遊興、娯楽も同じです。そして、民は締め付けに息苦しさを感じ、飢饉の余波は続いている。各地の農村暮らしはもっと酷いものでしょう。
――つまり、いつどこで一揆が起こってもおかしくない状況にあります。財政難の幕府にとって農民の一揆ほど金がかかり手を焼くものもございませぬ。厳しく処罰しれば年貢の取り高も減り、さらに不満が連鎖する可能性は低くございませぬ。そして、なにより人はいつまでも悪政に従いませぬ。
沢渡主殿頭が行った『人返し令』も流民が増え、江戸の治安を悪くしただけにございます。沢渡主殿頭の政策は民は負担を強いるばかり。明るい兆しなどない」
高遠の熱弁は場を支配していた。
あの中野でさえ目の色を変えて聞き入っている。
「出版の部数は微々たるものですが、少ないからこそ人は手に入れたくなる性を持つものです。しかも、もう一度手に入る確証もない。
なにより御公儀に咎められない好色本となれば、多少の無理をしても手に入れたいと考えるはず。鶴屋でも大々的に売り出すことは契約済みであり、再版の手はずも整えております。
いかに沢渡主殿頭とて、市政に広まった本すべてを回収することなど不可能にございます。わたくしを捕らえたとてなんの意味もない。この男色本の賭けの勝率は沢渡主殿頭の布令に劣るものではない。
そして、わたくしの目的は当初からなにも変わってはおりませぬ。『大奥に金を入れる』これに尽きます。それが微々たる金であったとしてもでございます。――わたくしは抗いたい。大奥で暮らす者がこれ以上悪政に虐げられることのないように。『大奥の女を甘く見るな』と」
部屋は完全に沈黙した。
重苦しいものではなく思案の時間へと。高遠は最後の言葉を噛みしめるよう紡いだ。
「……大奥がここまで永らえてきたのは一時の権力者がその地位により築いた己に都合が良いものではないからにございます。幕府を守り続けるために欠かせない存在であるからです。表向きと奥向きは表裏一体。片方だけを切り取ることなどできはしません。その上での出版にございます」
高遠の賭けに塩沢たちがのるかそるか――。
思惑に満ちた静けさが駆ける馬のごとく鳴る心臓の音を耳に届ける。ひどく喉が渇いている。呼吸も浅い。それでもまっすぐに前だけを見た。
ひとときの静寂ののち、
「――わたくしは、高遠殿の出版に賛成いたします」と叶が言った。「金崎殿を陥れたことは大奥の人事に口を出したのも同じこと。ここで泣き寝入りをすれば、これからの大奥に禍根を残すことになりまする」
中野も首肯し、
「確かに、金崎殿に罪はございまするが、それを表向きに断罪されるは業腹。高遠殿の覚悟しかと受け止めましたぞ」と珍しく強い言葉を口にした。
視線は塩沢へと向けられた。
塩沢は眉根にきつい皺を寄せたのち、ふっと短い息を吐いた。威厳を持った声が響く。
「高遠。おまえの忠義、しかと受け止めた。出版するがよい。金崎の二の舞は起こさせぬよう総取締役として、あらゆる手を尽くそう。お前の言うとおり、大奥なくして幕府の存続は不可能。一時の権力者の思惑で揺らぐなどあってはならぬ。――わしも腹をくくらねばな」
高遠は手を突いて平伏し、心から感謝の気持ちを述べた。
「ご厚情を賜り、誠に恐悦至極に存じます」
0
お気に入りに追加
10
あなたにおすすめの小説
【淀屋橋心中】公儀御用瓦師・おとき事件帖 豪商 VS おとき VS 幕府隠密!三つ巴の闘いを制するのは誰?
海善紙葉
歴史・時代
●青春真っ盛り・話題てんこ盛り時代小説
現在、アルファポリスのみで公開中。
*️⃣表紙イラスト︰武藤 径 さん。ありがとうございます、感謝です🤗
武藤径さん https://estar.jp/users/157026694
タイトル等は紙葉が挿入しました😊
●おとき。17歳。「世直しおとき」の異名を持つ。
●おときの幼馴染のお民が殺された。役人は、心中事件として処理しようとするが、おときはどうしても納得できない。
お民は、大坂の豪商・淀屋辰五郎の妾になっていたという。おときは、この淀辰が怪しいとにらんで、捜査を開始。
●一方、幕閣の柳沢吉保も、淀屋失脚を画策。実在(史実)の淀屋辰五郎没落の謎をも巻き込みながら、おときは、モン様こと「近松門左衛門」と二人で、事の真相に迫っていく。
✳おおさか
江戸時代は「大坂」の表記。明治以降「大阪」表記に。物語では、「大坂」で統一しています。
□主な登場人物□
おとき︰主人公
お民︰おときの幼馴染
伊左次(いさじ)︰寺島家の職人頭。おときの用心棒、元武士
寺島惣右衛門︰公儀御用瓦師・寺島家の当主。おときの父。
モン様︰近松門左衛門。おときは「モン様」と呼んでいる。
久富大志郎︰23歳。大坂西町奉行所同心
分部宗一郎︰大坂城代土岐家の家臣。城代直属の市中探索目附
淀屋辰五郎︰なにわ長者と呼ばれた淀屋の五代目。淀辰と呼ばれる。
大曽根兵庫︰分部とは因縁のある武士。
福島源蔵︰江戸からやってきた侍。伊左次を仇と付け狙う。
西海屋徳右衛門︰
清兵衛︰墨屋の職人
ゴロさん︰近松門左衛門がよく口にする謎の人物
お駒︰淀辰の妾
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
大奥~牡丹の綻び~
翔子
歴史・時代
*この話は、もしも江戸幕府が永久に続き、幕末の流血の争いが起こらず、平和な時代が続いたら……と想定して書かれたフィクションとなっております。
大正時代・昭和時代を省き、元号が「平成」になる前に候補とされてた元号を使用しています。
映像化された数ある大奥関連作品を敬愛し、踏襲して書いております。
リアルな大奥を再現するため、性的描写を用いております。苦手な方はご注意ください。
時は17代将軍の治世。
公家・鷹司家の姫宮、藤子は大奥に入り御台所となった。
京の都から、慣れない江戸での生活は驚き続きだったが、夫となった徳川家正とは仲睦まじく、百鬼繚乱な大奥において幸せな生活を送る。
ところが、時が経つにつれ、藤子に様々な困難が襲い掛かる。
祖母の死
鷹司家の断絶
実父の突然の死
嫁姑争い
姉妹間の軋轢
壮絶で波乱な人生が藤子に待ち構えていたのであった。
2023.01.13
修正加筆のため一括非公開
2023.04.20
修正加筆 完成
2023.04.23
推敲完成 再公開
2023.08.09
「小説家になろう」にも投稿開始。
狐侍こんこんちき
月芝
歴史・時代
母は出戻り幽霊。居候はしゃべる猫。
父は何の因果か輪廻の輪からはずされて、地獄の官吏についている。
そんな九坂家は由緒正しいおんぼろ道場を営んでいるが、
門弟なんぞはひとりもいやしない。
寄りつくのはもっぱら妙ちきりんな連中ばかり。
かような家を継いでしまった藤士郎は、狐面にていつも背を丸めている青瓢箪。
のんびりした性格にて、覇気に乏しく、およそ武士らしくない。
おかげでせっかくの剣の腕も宝の持ち腐れ。
もっぱら魚をさばいたり、薪を割るのに役立っているが、そんな暮らしも案外悪くない。
けれどもある日のこと。
自宅兼道場の前にて倒れている子どもを拾ったことから、奇妙な縁が動きだす。
脇差しの付喪神を助けたことから、世にも奇妙な仇討ち騒動に関わることになった藤士郎。
こんこんちきちき、こんちきちん。
家内安全、無病息災、心願成就にて妖縁奇縁が来来。
巻き起こる騒動の数々。
これを解決するために奔走する狐侍の奇々怪々なお江戸物語。
元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~
おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。
どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。
そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。
その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。
その結果、様々な女性に迫られることになる。
元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。
「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」
今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。
浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル
初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。
義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……!
『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527
の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。
※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。
※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる