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第42話 里帰り~光明 陸

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 帰途につく駕籠にゆられながら、高遠は心を燃やしていた。

 ――五十を過ぎたらいとまを願い出て、心置きなく男色本執筆にいそしもうと貯めた金がある。今使わないで、いつ使うというのか。そもそも、なぜ、沢渡ごときのせいでわたくしが大奥を去らねばならんのだ。
 負けてなるものか。小説だってまた書けばいい。本を出すのだ。お須磨の方さまの神絵を人目に触れず消し去ってなるものか。


 宵五ツ――午後八時ころ高遠は帰途についた。

「あかね……! どこへ行っていたのです。いきなり駕籠を呼んだかと思えば、このように遅くまで……」

 飛び出したまま帰ってこない娘を心配していたのだろう。母、かなでが駆け寄ってきた。

「母上、ご心配をおかけして申し訳ございません。急がなければならない報せだったのです」
「――宿下がりのさいちゅうだというのに? あかねでなければならないことなのですか?」

 母の言いぶんはもっともだが、内容を話すことはできない。
 もう一度、すみませんと言おうとしたときだ。

「お役目を拝せば、どのようなときでも従うのが公方さまに仕える者の使命。あかねを困らせるでない」

 玄関へ現れた、父、伊平が言った。

「あなた……」

 かなではうなだれてしまう。
 伊平は説き伏せるような口調で言う。

「――あかね。お前にも色々あるのだろう。しかしな。皆、お前を案じておるのだ。それだけは忘れてはならぬ」

 伊平の言いように高遠はようやく気付いた。
 急な宿下がりの理由を伊平は気づいていたが誰にも伝えていないのだろう。それでも家族はなにかを感じ取り、問いただすことなく、明るく迎え入れてくれていた。
 それに、心を許せる友、友でなければ相棒と呼べる須磨だって大奥で待っている。

 ――わたくしはなにもかも失ったのではない。家族も、小説を考える頭も、それを文字とする右腕だって残っている。

 伊平の言葉を聞いていた、かなでは、「そうですわね」と呟き、気持ちを切り替えるように、郎らかな声で言った。

「……さぁ、夕餉を食べましょう。皆、お腹が空いているのですよ」

 胸に溢れる思いが声を詰まらせたが、それでも言った。

「心配をかけて……、ごめん、なさい」

 台所で食事を温めなおしている、かなでの背中に語りかけた。

「……母上。どうか、わたくしを信じてください。高遠家の長女として、恥じることなく励みます」

 かなでは振り返り、にこりと笑む。

「……わかっておりますよ。信じています。いつだって、母は、あかねの味方ですからね」


 ***


 残り三日の宿下がりのあいだに、高遠は鶴屋との契約を交わし、家族に見送られて江戸城大奥へと戻った。失意のどん底から逃げるように去った場所だったが、今はもう恐ろしくない。よく食べ、よく眠った。
 ここが自分の生きる場所なのだ。

「よし」

 身だしなみを整えてから、大奥総取締役、塩沢に帰途を告げるため、部屋へ赴いた。迎え入れた塩沢は、高遠をじっと見つめ、

「どうじゃ、少しは休めたかの」と鷹揚に尋ねた。
「はい。家族の顔を見ることができて安堵いたしました。塩沢さまのお心遣い、ありがたく思っております」
「うむ、そうか。顔色もよい。――よく戻ってくれたな」
「ここが、わたくしの帰る場所にございますれば」

 そう言って高遠は平伏する。

「そうか」

 と、塩沢は言い、一拍おいて問うた。

「高遠。これからもわしに仕えてくれるな? もう辞めるなどと申すまいな?」
「はい。お心を煩わせて申し訳ございませんでした。この高遠、勤倹力行きんけんりっこうもってお勤めを果たしとうございます」
「そうか、――そうか。うむ、よくぞ申してくれた」

 ほっと安堵を滲ませた声が言った。
 塩沢なりに心配してくれたのだろう。

「案ずるな。必ずおまえを取り立ててやる。今は堪えどきじゃ」
「はい。信じて励みまする」

 塩沢の部屋を辞したあと、高遠は逸る心を抑えながら、急いで須磨のもとへと向かった。
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