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第36話 頓挫 肆

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 高遠が筆を折ろうと決めたのと同時期に、幕府は財政改革をさらに押し進めようと、出版統制に乗り出した。

新規商品停止令しんきしょうひんていしれい

 と、いう布令を出し、本も贅沢品の対象としたのだ。

 風儀風俗ふうぎふうぞくを乱すと好色本はすべて禁止となり、とうとう、残された最後の娯楽が奪われた。これにより、見送っていた男色本出版の望みも完全に絶たれた。
 愛憎渦巻く大奥で働く高遠を支えてきたのは秘密の執筆活動だ。出版が中止となり、必死で書いた作品も失った。須磨の事件さえ解決してやれない。仕事とて、自分などいなくても問題なく執り行われている。
 大奥を去ろう。そう思った。
 もはや、ここにいる意味はあるまい。自分ならやれるとどこかで高をくくっていた罰なのだ。

 高遠は心を決め、大奥総取締役、塩沢の部屋に向かった。
 少ない行灯が続く薄暗い廊下を静かに進んでいく。塩沢の部屋はまだ灯りがともっており、障子がぼんやりとした淡い光を放っている。高遠はその前に手を突き、声をかけた。

「塩沢さま。高遠にございます。少々よろしいでしょうか」

 しばらくの沈黙の後、「入れ」と障子が開いた。いつぞやのように本を読んでおり、高遠が控える方へ身体を向けた。
 久しぶりに目を合わせた気がする。ずっと話す機会もなかった。

「このような夜更けにどうした」

 と、問う塩沢に、高遠は手を突いたまま言った。

いとまをいただきたく、まかり越しました」
「暇、だと……?」

 塩沢は不意打ちを食らったように驚き、

「本気で言っておるのか?」と真意を確認するように問うた。

「――はい。ずっと迷っておりましたが、もう、お役に立てそうにもございませぬ。潔く退こうと決めました」
「待て、高遠。今は苦しいであろうが、お前の働きは誰もが認めていること。必ず、わしが、もう一度取り立ててやる場を作る。暇などと申すでない」

 塩沢は腰を浮かし、高遠に近寄って言った。
 しかし、高遠はゆるりと首を振る。

「――もう疲れたのでございます。どうぞご勘弁を」
「高遠……」

 重い沈黙が静かに降り積もる。
 その時間を高遠はじっとやり過ごした。
 高遠の決意を知ったのか、塩沢は、やがておもむろに口を開いた。

「宿下がりをするがよい。少し実家で休んで落ち着いて考えよ」
「塩沢さま、わたくしは……」
「今、お前に大奥を去られたら、わしらだけで守ることはできぬ。だが、肩身の狭い思いをさせたのも事実。少し休み、今一度考えてみてくれ。――頼む」
「――…………」

 ここまで言われて押し切るのは難しかった。
 ならば、宿下がりの後、もう一度願い出るしかない。

「……わかりました」

 仕方なく塩沢の願いに頷いた。
 翌日、周囲の者に宿下がりが決まったことを告げ、留守を頼むと伝えた。実家宛てに文を書き、五菜ございに渡した。三日後から六日間実家で過ごすことになる。
 大奥の大事を洩らさぬようお付きの者がひとりが付いてくるがやむを得ない。
 宿下がりは基本、お目見え以下の女中のみに許されるもので、奉公に召し出されてから三年目に六日間、六年目に十二日間、九年目に十六日間を賜るのだが、今回の高遠のように、稀にお目見え以上のお役目でも宿下がりするケースがある。
 塩沢の最大の心遣いが伺えた。

 駕籠と駕籠舁かごかき、半長持ちの人足を手配させ、千鳥の間での仕事を終わらせ、宵五ツ――午後八時の総触れを終えて部屋に戻った。
 宿下がりをしたことがないので、なにを持っていけばいいのか悩む。

 ――とりあえず土産は必要だな。妹にはつむぎを何枚かと、両親には……なんだ? それにまだ幼い甥や姪がいる。しかし子供用の玩具を買う時間もないしな。

 高遠だけでなく、お付きの者の食事や、眠るための布団やらを用意してもらわなければならないのだ。考えて金子を多めに渡せばいいと決めた。母に金を渡し、欲しいものを買ってもらうのがいいだろう。

 他に土産になるようなものはないかと順に箪笥を開けていく。――と、しまい込んでいた小説の原本が出てきた。
 チクリと胸が痛む。
 持って行くには多いし、焼き捨てるにしても『なにを燃やしているのか?』と問われるだろう。

 ――帰ってきてから考えればいい。

 タンと引き出しを閉じた。――と、

「高遠さま。よろしいでしょうか……?」

 そう呼びかける声があった。
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