だから今夜は眠れない

東雲紫雨

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V.I.Pにご用心

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       Ⅷ

 嗄れ声の中年男は、動きだした高級車の中で葉巻をつけながら携帯電話ケータイに耳を当てていた。
 呼び出し音が途切れてから、電話口からはずっと不機嫌そうな声が聞こえてくる。
 男が相手に一通りのことを告げ終えると、向こうからは案の定、すこぶる気分を害したような言葉が返ってきた。
『そんなことをしろと言った覚えはないぞ』
「なに、ほんのご挨拶代わりですよ。あなたが心配することはない。私とて、大道寺だいどうじ家を敵に回すつもりはありませんからな。御令弟ごれいていが引き出した金は、そっくりあなたにお渡しする。その手で元通りになさればいい。奪われた金を取り戻してやったとあれば、周囲の評価もおのずと上がるというものだ」
『思い上がるな。あれ・ ・は貴様に踊らされるほどバカじゃない。侮るなと言ったはずだ』
 舌打ちする相手に、男はしたたかに言い返した。
「だが御令弟はまだ子供、恐るるに足りん」
『…そうか。では、好きにしろ。その代わり、どうなってもおれはもう知らんからな』
「結構。朗報を楽しみにしておいでなさい」
 応えはなく、叩きつけるように電話が切られた。男は不通になった携帯電話ケータイを見据え、吐き捨てるように呟いた。
「ふん…青二才が」
 男はそのまま別の場所へ電話し、応対に出た配下に短く現在位置を訊ねた。
 その携帯電話ケータイを置いて、男が次に手にしたのは、あの祐介の携帯電話ケータイであった。
「見ていろ、最後に笑うのはこの私だ」
 そう言いながら男はおもむろにリダイヤルボタンを押した。

 由樹彦の携帯電話ケータイが再び鳴ったのは、最初の電話から3時間あまりったころだった。
『そろそろ約束の時間だが、金の用意はできましたかな』
 例の嗄れた太い声が電話口から響いた。
 由樹彦は、ガラス越しに小降りになった雨を眺めながら目を細めた。
「約束? なんのことです」
『ほぅ…これはかわいそうに。あのきれいな犬のことはもうお忘れですか』
「おっしゃる意味が、よくわかりませんが」
『強がるのはおやめなさい。…こんなことをしても、結局お困りになるのはあなたのほうですぞ』
 独特の嗄れ声に威圧的な凄味が滲んだ。由樹彦は口元にあの不気味な三日月をすうっと浮かべ、冷ややかな笑みをたたえた。
「おもしろいことをおっしゃいますね。僕がどう困るというんです?」
『先ほどご忠告申し上げたはずだ。あなたに約束の金を払っていただけなければ、ご実家にとって不利な醜聞しゅうぶんが流れると』
 その声色には揺るぎない自信がみなぎっていた。
『…人ひとりの命がかかっている。ご利発で聞こえの高いあなたともあろう人が、まさかそれを忘れたわけではありますまい』
 由樹彦は肩を竦め、飄々と応えた。
「ああ…たしか、正午までに百万ドルでしたか。ずいぶん無茶な要求をされたものです」
『やっと、思い出していただけたか』
 クスッと小さく声を立てた由樹彦の顔には、貼りついたような微笑みがあった。
「ええ。あまりバカバカしいので、つい失念していました。あなたがそれほど愚かでなければ、もうとっくに後悔してあきらめているころだろうと思っていたので」
 その言い草には、さすがにむっとしたような声が返ってきた。
『言葉に気をつけることだ。たとえあなたといえど、これ以上そんな生意気な口をきくと、あの小僧ばかりか、ご実家にもいらぬ火の粉が降りかかることになる』
 くろうと・ ・ ・ ・の脅し文句はやはり年季と迫力が違った。
 この調子で凄まれれば、大概はおびえて言いなりにならざるをえなくなる。十代の少年こども相手にいささか大人げないとは思ったが、自分の実力ちからを思い知らせておくにはいい機会だと、男は悦にいっていた。
 実際、男はこのやり方で組織の勢力を関東一円に拡大してきたのである。
 こうした過去の華々しい実績が唯一この男の自信につながっていたが、ただ、それも相手によりけりであるという知恵だけはどこかに置き忘れてきたようだった。
 小柄で童顔の由樹彦の唇から、ふと思いもよらぬ冷酷な声があふれた。
「おやりになればいい、僕は一向にかまいませんよ」
『―――なんだと⁉』
「一向にかまわない、と言ったんです。僕は痛くもかゆくもありませんから」
 吐息とともに、男の声色が微妙に変わった。
『…ご自分で家名に泥を塗ることになってもかまわないとおっしゃるのか』
 由樹彦は平然と笑った。
「家名がどうなろうと、僕の知ったことではありません」
『……では、約束も反古ほごにすると?』
「約束とおっしゃいますが、僕はただの一度も、あなたに金をお支払いすると約束した覚えはありませんよ」
 電話口の息遣いから男の怒りが伝わってくるようだった。しかし、もはや由樹彦の凍りついた微笑みは消えることはなかった。
『―――後悔なさいますぞ』
 低く響く嗄れた太い声にも、いつしか本気で容赦のない気配が漂い始めていた。

 同じころ、祐介を乗せた車はちょうど交差点で信号待ちの列に並んでいた。
 車が完全に停止すると、後部座席の祐介が待ち構えていたように口を開いた。
「なぁ…さっきの、親分から?」
 隣の男が畳みかけるように「黙ってろ」と遮った。しかし、電話を受けた運転席の男の物言いがやけに丁寧だったので、相手のことは今さら聞くまでもなかった。
「そうカリカリすんなって。気が短い男は嫌われるぜ、にーさん」
 祐介は不敵に笑い、窮屈な体を伸ばした。
「おれさー、ドライブ飽きちゃった。あんたら、なんか面白いことやってくんない?」
「このガキ、ふざけやがって!」
 傍らの男がいきり立って祐介の胸ぐらを摑み、こぶしを振り上げた。
 と、そのときだった。
「…なんならおれの特技、見せよーか」
 ゆるやかに動きはじめた車の中に、恐ろしく不快な、鈍い音が響き渡った。
「瞬間芸だけど…」
 男がはっとしたその刹那、いきなり祐介の右フック・ ・ ・ ・を顔面にくらった。
「○☆△…‼」
 予想だにしない出来事に男がもんどりうった反動で、車は大きくゆさぶられた。
 運転席の男はハンドルを取られ、思わず急ブレーキを踏んだ。当然、リア・バンパーに後続車が突っかかった。
「―――お粗末」
 目隠しを取った祐介はドアを開き、すでに白目をいている強面こわもてを一人、縛られたままの両足で車外へ蹴り飛ばした。
 運転席の男は何が起こったかわからず、目を見開いて祐介を凝視している。祐介は左手をぶらぶらさせながら閉めたドアを念入りにロックした。
「早く出したほうがいいぜ。この状況、どう見たって怪しいもん」
「……おまえ…っ…たしか針金ワイヤーで縛って…」
 祐介の右手首には、ちゃんとそのワイヤーが残っている。だが、そこに一つ、きれいな輪がくっついていた。
 祐介は目を細め、ククッと喉を鳴らして言った。
「ああ…おれ、フツーの人より関節ゆるくて。この手の縄抜け、ちょー得意なんだよね」
 男の顔は明らかに気味悪そうに引きつっていた。祐介は、男の肩を力一杯摑んでシートに引き付けた。
「オッサンのとこに連れてってもらおーか。あんたらに付き合うのもおもしろそーだけど、おれもあんまりのんびりしてらんねーんだ。それに…早く止めないと、オッサンのほうが・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ヤバイかもしんないし」
「なんだと?」
 男はいぶかしそうに眉を寄せた。
「あんたら、オッサンの子分なら大道寺家のこと少しぐらい知ってんだろう? あそこの人間が、どういう連中なのかも…」
 祐介の言葉に、男はうなるように息をついた。
「―――オッサン、その大道寺家で一番アブねーヤツに手ぇ出しちまってんだよ」
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