だから今夜は眠れない

東雲紫雨

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V.I.Pにご用心

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       Ⅵ

 その携帯電話ケータイは、普段はもっぱらかけることにしか使わないお飾りのようなものだったので、着信があること自体、明らかに不審であった。
 由樹彦は「有栖川祐介」名義の着信表示を一瞥いちべつした。その傍らには、すでに秘書の冴子が佇んでいた。
 鳴り止まぬ電子音に顔色も変えず、由樹彦は黙って電話に出た。
『大道寺由樹彦さんだね』
 相手の声は、まったく聞き覚えのない中年男のものだった。
「―――そうですが、あなたは?」
 彼が淡々と切り返すと、電話口からしわがれた低い笑い声が洩れた。
『私の名前などに興味はないでしょう。それより、あなたに買っていただきたいものがあるのだが』
「…買う、というと…?」
『きれいな、茶色い犬ですよ。少し変わった毛色だが…。あなたはよくご存じのはずだ』
 聞こえてくるそのくろうと・ ・ ・ ・肌の話し方に、由樹彦は少し首を傾げた。
「……確かに。でも、もともと僕のものですから、買うというより、返していただくのが筋だと思いますが」
 すると、嗄れ声の男は大胆な口調で言った。
『いいや、買って・ ・ ・いただきますよ。あなたが応じなければ、大道寺家は金を惜しんで使用人を見殺しにする非情な家だと、世間に吹聴ふいちょうするまでだ。マスコミが大喜びするでしょうなぁ、この手の醜聞スキャンダルには』
 由樹彦はすうっと目を細めた。
「それは困りますね。そんなことをされては、僕は二度と家の敷居をまたげなくなってしまいます」
『では、よく考えることだ。5分後また電話する』
 電話は一方的に切れた。
「―――なんですの?」
 様子を一部始終見ていた冴子が静かに声をかけた。
 由樹彦は振り向き、小さく肩を竦めた。
「さあ…よくわかりませんが、押し売りセールスのようです。5分間、考える時間をくれました」
「でも、有栖川さんの携帯電話からでしたわ」
「ええ、そうみたいですね」
 冴子は、目を細める由樹彦を見てぞっとした。彼の表情は幼さの残る童顔とは裏腹の、恐ろしいほど不気味な冷酷さを余すところなく湛えていたのである。
 息を呑んだ冴子は無意識に喉元に手を当てていた。再び携帯電話ケータイの着信音が鳴り響いたのは、それからすぐのことだった。
『考えはまとまったかね』
「さあ…5分ではなかなか」
 由樹彦が言い澱むと、相手は語気を強めた。
『無駄な時間稼ぎはしないほうがいい。引き伸ばしている間に通報するのもかまわんが、表沙汰になって困るのはそちらのほうだ』
 薄い笑みが微かに由樹彦の顔に浮かんだ。
「―――それは、脅迫ですか?」
『とんでもない、私は取り引きがしたいだけだ。これは、ビジネス・ ・ ・ ・ですよ』
 溜め息をついた由樹彦は、嗄れ声の男が口をつぐむのを待って冷ややかに言った。
「わかりました。そちらの条件をおっしゃってください」
『物分りがよくて助かりますな』
 相手は満足げな呟きを電話口にこぼしたあと、慎重な口振りでじっくりと言った。
『―――金額は米ドルで百万。正午までに用意していただきたい』
 由樹彦はちらりと時計を見た。針はちょうど、8時半を指していた。
「とても無理ですね。そんな大金、3時間半で用意するのは。第一、僕は大道寺家の人間といっても、ただのしがない高校生ですから、とてもそんなお金、出せませんよ」
 すると、相手は含むように笑って言った。
『何も、あなたの私的な口座こづかいから引き出せとは言ってない。…お分かりですな、この意味が』
 勿体つけた陰湿な言い回しだった。
 由樹彦は、そばの大きなデスクに寄り掛かり、足を組んだ。
「つまり、財団グループの口座を開け…と?」
『あなたにも、それくらいなら容易たやすいはずだ。何しろ、電話一本で済むのだからな』
 男は嗄れた太い声でしたたかに言い放った。由樹彦は笑みを浮かべながら口を開いた。
「それだけ我が家の事情をよくご存じなら、僕がそんな大金をキャッシュで持ち出そうとすることに銀行が不審をいだかないわけがないとは、お思いになりませんか?」
『そこは、あなたに巧くやっていただくまでだ。学校では、かなりの秀才で通っていらっしゃるようだし、その優秀な頭をお使いになれば、なんの問題もないでしょう』
 それは、あまりにも尊大で不愉快な物言いだった。
 由樹彦が黙っていると、再び相手が言った。
『…ああ、失敬。お気に障られたかな。育ちが悪いもので言葉遣いを知らない。どうか、気を悪くなさらんでいただきたい』
 相手の言葉に白々しさに、由樹彦はそっと目を伏せた。
「いいえ、人の命には代えられませんから」
 嗄れ声の男は、やがて勝ち誇ったようにその声色を高め、威圧的に言葉をつないだ。
『今すぐ取り引き銀行の頭取に電話なさるがいい。そして、銀行が開いたら、すみやかに行動していただく。くれぐれも言っておくが、つまらん考えは起こさないことだ。このきれいな犬・ ・ ・ ・ ・が、素晴らしく活きのいい生ゴミになるところなど私も見たくはないですからな』
 そのあと男は、またこちらから連絡すると言って不躾ぶしつけに電話を切った。
 由樹彦は、着信の途絶えた携帯電話ケータイをしばらくじっと見つめていた。無表情だったその顔に、あのおぞましい残酷な笑みが浮かんだのは、それから数秒後のことであった。
「京極さん」
 呼びかけられた冴子は、はっと顔を上げた。
「学校に、欠席を届けてもらえますか。僕はのっぴきならない事情で、うちを離れることができなくなったと」
 冴子は目顔で頷いた。こういうときの由樹彦に反論するのは不可能だった。理由を問いただすこともためらわれる冷たい雰囲気が漂い、黙って従う以外にすべがないのである。
 由樹彦は薄い笑みを湛えたまま、細かい雨に濡れそぼる窓の外に目を向けた。
「―――相手の大きさにびくつく者は小人物こものだが…本当にどうしようもない人間というのは、相手の大きさをはかろうとしない者のことを言うんですよ」
 憐れみ深く、溜め息のようなその呟きに冴子が振り返ると、彼は微笑を浮かべて室内に目を戻した。
「鏑木さんに知らせてあげてください。生死は定かではありませんが、とりあえず有栖川さんの居所いどころがわかったと」

 冴子が浩平を呼び出したとき、彼はカジノのラウンジで未明から玉撞きビリヤードに興じているところだった。
 くわえ煙草の浩平は、カウンターに置かれたホテルの内線を肩口に挟みながら、自前のキューにチョークを施していた。長身の彼が名品として名高いバラブシュカを華麗に操る様子は、ゲームのあいだじゅう女性客ギャラリーの視線をとりこにしていた。
 受話器を置いた浩平は、キューをラウンジのボーイに預け、無言で上着を手に取った。
 だが、女性たちの名残惜しそうな溜め息が聞こえると、さり気なくボーイに何か耳打ちし、灰皿に煙草を押しつけて立ち去った。
 ボーイはフロアに向かって深々と一礼すると、やわらかい声で言った。
「このゲームと、ご婦人の皆さまのお飲み物は、すべて鏑木さまより承りました。どうぞごゆっくりおくつろぎください」
 浩平はそのころ、上着を引っ掛けて最上階に向かうエレベーターに乗っていた。

 浩平が貴賓室ロイヤルルームに着くと、由樹彦はにっこりと笑って彼にこう言った。
「鏑木さん。有栖川さんは、どうやら誘拐されたようですよ」
「ああ? 誘拐⁉」
「先程、僕のところに身代金を要求する脅迫電話がありました」
 一瞬啞然あぜんとした浩平は、溜め息をついて頭を掻いた。
「―――で、いくらだ」
USアメリカドルで百万だそうです」
 百万ドル・ ・ ・ ・などという言葉を、しれっとした顔で告げる由樹彦の異常な神経に、浩平は肩を落とした。
「…当然、払う気はないんだろうな」
「ええ」
 あっさりと応えた由樹彦は、悠然と笑みを浮かべた。
「こういうことで一度でも前例を作ってしまうと、あとあと面倒ですから」
 言わずもがなであった。時価にして1億円あまりと聞けば、味をしめる模倣犯が現われるのは必至である。
「ただ、どういうわけか脅迫電話は有栖川さんの携帯電話ケータイからかかってきたので、今、京極さんに追跡トレースしてもらっているところです」
 冴子はすでにノート型のパソコンを広げて衛星探索G  P  Sモードを立ち上げていた。
 二人が由樹彦と契約したとき、規約の一つになっていたのが「常にその所在を明らかにすること」だった。そのため、二人にはあらかじめ発信機能を備えた端末が与えられていたのである。
「…ユースケも、それほどバカじゃなかったってことか」
「居所を摑むのは時間の問題でしょう」
「そのころには、当人はとっくに冷たく・ ・ ・なってるかもな」
 浩平の皮肉っぽい口調に、由樹彦は小さく笑って「それはないと思いますよ」と言った。
「相手はくろうと・ ・ ・ ・風でしたから、優位な立場にいるうちは滅多なことはしないでしょうし、それに、金額をエンではなくかさの少ないUSドルで要求したり、金を引き出す手順まで事細かに指示してきたりしましたからね」
「…目的はあくまで金か」
 とはいえ、由樹彦に支払いの意思がないのがわかっているだけに、浩平はげんなりしたように溜め息をこぼした。
用心棒ボディーガードが誘拐されて、雇い主オーナー強請ゆすられるなんて聞いたことがない」
「僕もまさか、身代金を要求されるとは思いませんでした」
 浩平はふと煙草を取り出した手を止め、不機嫌に眉を寄せて由樹彦を睨んだ。
「―――おまえ、こうなることを最初はなから予期していたようだな」
 由樹彦は薄く笑った。
「こんな大胆な挑戦を予期していたわけではありませんが、あなた方の襲撃をそそのかした人間には心当たりがありますから」
 そして、彼は冷ややかにこう言い放った。
「黒幕は、たぶん僕の兄だと思いますよ」
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