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鬼神の腕
⑤
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五
波の音が響いていた。太陽はいつしか天頂にあり、甲板にからりとした日差しが降り注いでいる。水夫たちはそれぞれの持ち場で戯れ、海鳥が頭の上を行く様をのんびり眺めていた。
「呪法を解くには、それを放った者を斃すしかない。だから…」
肩を落とした翡翠は、動かない右腕をじっと押さえて俯いた。
「それだけか?」
軍兵衛の低い声に、翡翠は目を上げた。
「そいつの狙いが、呪法を放つことにあったのかと聞いてる」
翡翠が黙っていると、軍兵衛は腕組みをして息をついた。
「破門された邪法使いが叡山を襲い、外院の大僧正がおまえを庇って奴の放った呪法を浴びた…それはわかった。だから、おまえが大僧正を救うために奴を斃さなきゃらなんこともな。だが、それだけじゃ奴がなぜ赤い海にいるのか、という理由にはならない」
さすがに軍兵衛は鋭かった。あの夜のことをありのままに話しただけでは納得しないようだ。しかし、外界でこれ以上のことを話すとなると、叡山の秘中の秘である〈羅刹〉についても話さなくてはならなくなる。普通はこれだけ知られるのも憚られるのに、鬼神だの冥穴だのと軽々しく喋るのはもってのほかだった。
けれど、相手は恐るべき洞察力の持ち主であった。
「奴の狙いは、おまえの能力と―――その腕だな?」
卓抜した慧眼に、翡翠は動揺を押し殺して軍兵衛を見ていた。
「赤い海には何かある。おれたち船乗りが恐れる以上の何かがな。邪法使いがそれを手に入れようとしているということは、おまえの腕にもそれに匹敵するだけの何かがあるということだ。違うか?」
翡翠は肯定も否定もしないで目を伏せた。
(やっぱりこの人は只者じゃない…)
しかも、これほどのことを推察しながら、まったく動じたところがないのも神経が常人離れしている証拠だった。
軍兵衛は、だんまりを決め込む翡翠に肩を竦めた。
「おまえの沈黙は雄弁だな。核心に迫るほど口を閉ざす。もっとも、おれにとってはそのほうがわかりやすいが」
そして、すべてを見抜くような眼差しを翡翠に注いで言った。
「奴がそうまでして狙う、その腕……一体、何がある?」
彼を見返した翡翠は、慎重に言葉を選んだ。
「―――この世を凌駕する威力」
「奴がそれを手にするとどうなる」
軍兵衛の問いに、翡翠はやはり沈黙で応えた。
「…なるほどな。おまえには、どうしても奴を斃さなければならん事情があるというわけか。おまえと奴の因縁は、よほどのものらしいな」
翡翠は、探るような軍兵衛の言葉に唇を噛んだ。
恨みなどという生易しいものではない。
それでも、叡山を追われた邪法使いの金剛が彼を激しく憎悪していることを話すのだけはためらわれた。
思い詰めた様子の翡翠をよそに、軍兵衛は立ち上がった。
少し離れたところに三五郎をはじめ、権十や鮫蔵、房吉といった側近衆が立っている。軍兵衛は顎を上げて彼らを見回し、おもむろに言った。
「権十、艇を下ろせ」
「え…艇、ですか?」
権十は訝しげに首をひねった。軍兵衛は構わず腕組みをすると、改めて船中に響き渡る声でこう言い放った。
「おれは、これから赤い海を目指す。知ってのとおり、あそこは船乗りの誰もが恐れる場所だ。だから、今度ばかりはおれに付き合えとは言わない。わずかでも躊躇する者は構わん、艇に乗って島へ戻れ。今ここで船を降りる者は賢明だ、このおれが決して臆病者などとは言わせん」
船が、しんと静まり返った。並み居る荒くれたちは固唾を飲んで息をひそめている。
その中で、翡翠だけがたった一人激しい口調で噛みついた。
「気でも違ったんですか⁉ 利口な人間はあんなところに近づかないと言ったのはあなたでしょう」
翡翠を一瞥した軍兵衛は、涼しい顔で薄笑いを浮かべていた。
「その場所を教えてくれるだけでいいんだ。あなたが付き合う必要はない。まして、ほかの人たちまで巻き込むなんて…。言ったでしょう、私がもたらす災禍はこの世を凌駕するものだと!」
「忘れていないか? おれは、おまえに意志があるとは思っていない。赤い海を目指すのはおれの勝手だ。別におまえに付き合うわけじゃない」
軍兵衛が平然と嘯いたときだった。
「赤い海を制すれば、おれたちにも一層箔がつくよなぁ」
「おうよ、なんたってあの赤い海だ。今から腕が鳴るぜ」
房吉の呑気な声に権十が相づちを打つと、鮫蔵が頬骨をさすって頷いた。
「手っ取り早く名を揚げるには、もってこいの場所だからな」
そんな彼らの言葉を聞いて、船中がざわめきだした。
「赤い海か」
「行こうぜ。おれたちは、おかしらに命を預けてるんだ」
「ここで退いたら男が廃るぜ」
目を伏せた軍兵衛は、クッと喉を鳴らした。
「おれの無謀に付き合うなんざ、おまえたちも利口じゃないな」
甲板がどっと沸いた。魔境に向かう悲壮感など欠片もない。翡翠は苛立ったように「どうかしている!」と吐き捨てた。
軍兵衛は、顔を背けた少年から、黙ってこちらを見ている三五郎に目を移した。
「止めるか? 左内」
三五郎は静かに隻眼を伏せ、あきらめたように応えた。
「止めても聞かないでしょう」
「おまえまで付き合うことはないんだぞ」
「…あなたには目付け役が必要だ。放っておくと、またどこで羽目を外すかわからない」
冷ややかな言葉に、軍兵衛は薄く笑って肩を竦めた。
「おまえも、あまり利口じゃないな」
やがて、彼は顎を上げると、例の調子で荒くれ者たちを鼓舞するように言った。
「南に針路を取れ、目指すは〈赤い海〉だ!」
うおおっと凄まじい雄叫びが竜神丸の甲板を貫いた。
屈強の荒くれたちが子供のようにはしゃぎ回っている。歓喜の渦の中でただ一人、翡翠は重く沈んだ口調で呟いた。
「―――無謀だとわかっていながら、どうしてこんなことに命を賭けられるんですか…」
「あんた、おかしらの体を見ただろう?」
頭をぼりぼり掻きながら房吉が歩み寄って言った。
「あの傷はな、全部おれたちを守るためについたんだ」
「みんな、おかしらのおかげで一度は命拾いをしている」
鮫蔵が房吉の言葉を請け合った。
「おかしらは、おれたちのために体を張ってくれてる。そんな人に命を預けて何が悪い」
権十がそう息巻くと、甲板を眺めていた軍兵衛が振り返った。
「安心しろ。おれは、こいつらの言うほどたいした人間じゃない。おれにも守れなかったものぐらいある」
自嘲気味に笑った彼は、三五郎の眼帯に視線を注いだ。
「おまえの左目だけは、惜しいことをしたと今でも思っている」
「代わりにおれの目をくれてやる、と言ったでしょう?」
淡々とそう言った三五郎に、軍兵衛は口元を歪めた。
「そうだったな」
彼らが、たとえ何があっても軍兵衛に従ったことを後悔しないだろうというのは、本当かもしれないと翡翠は思った。彼らには、忠誠心や海賊の絆といったものよりもっと奥深い結びつきがあるのだ。だが、それならなおのこと、そんな彼らを自分の宿命に巻き込むのは翡翠にとって不本意としか言いようがなかった。
冥穴の淵で待ち構える金剛との戦いは、想像を絶するものになるだろう。結末はどうあれ、誰も傷つかずに済むことなどありえない。累々と横たわる屍の中に、見知った顔を見るのはもうたくさんだった。
脳裏に陰惨な幻がよぎった。纏いつく不吉の影が拭えない。
「…馬鹿げている。好んで厄災に関わろうとするなんて…。こんなのは愚行だ」
うなだれた翡翠が眉を寄せると、軍兵衛が言った。
「だったら、おまえのしようとしていることも馬鹿げたことなのか?」
翡翠はきつく唇を噛みしめた。
「おれたちとは次元が違うと思っているかもしれんが、危険を承知で人外の地に飛び込もうとしている点では、お互い様だ」
軍兵衛の言葉には妙な説得力があった。
翡翠は、顔を伏せたまま苦しげに呟いた。
「―――誰も……巻き込みたくなかったのに……」
「心配するな。仮に何かあっても、おまえの責任じゃない。手下を巻き込んだのはこのおれだ。おまえは、大僧正を救うことだけを考えろ。もっとも、あの叡山外院の大僧正がそう簡単にくたばるとは思えんが」
「お師さまを…知っているのですか?」
ようやく顔を上げた翡翠に、軍兵衛は肩を竦めた。
「知っているというほどのものじゃないが、色々と噂はな」
「なんでも八百比丘尼の血筋を引いておられるとか」
三五郎が静かに言った。すると、横から鮫蔵が口を挟んだ。
「人魚の肉を食って不死身になったとかいう、あれですか」
「お師さまは、別に不死身というわけでは…」
「でも、人の三倍は寿命があるんだろう?」
房吉が飄々と訊ねる。翡翠は顔をしかめて彼らを見回した。
「あなた方は、どうしてそんなことまで…」
「海賊ってのはな、小僧。海の上にいるだけが取り柄じゃねえってことだ」
権十が太い腕をがっちりと組んでニヤリとした。
「陸に仙太って野郎がいてな、小間物の担い売り(行商)をしてるんだが、こいつが滅法早耳で」
「あいつぁ顔だけはいいからなあ」
房吉がげらげら笑った。奥向きの女相手の商いなら、たわいもない世話話から様々な情報を引き出すのもわけはない。
「まあ、そのおかげで獲物のこともあれこれとな」
「奴とのつなぎは空から来るから、早くて、しかも正確だ」
「空?」
翡翠が聞き返すと、房吉は空を指した。頭の上をゆったりと翼が回遊している。
「大阪の米商人がやるのと同じだ」
鳥を使って相場の情報をやりとりしている商人の手法を踏襲しているという意味だろう。翡翠は改めて彼らの組織力に驚いた。海賊といっても、行きずりの船を襲うだけのならず者ではない。
彼らが、緻密に統率された叡智に富んだ集団だということは疑う余地もなかった。
「あなた方は…一体、何者なんです?」
翡翠は、何度目かの同じ質問を繰り返した。
五人は顔を見合わせた。そして、溜め息をついた軍兵衛が面倒臭そうに口を開いた。
「何者だろうと、そんなことはどうでもいいが…知りたきゃ教えてやる。―――おれたちは、水軍のなれの果てだ」
鮫蔵が、首に下げていた刀の鍔をおもむろに懐から取り出してみせた。そこには、白波の狭間に揺らぐ陽炎が螺鈿細工で意匠されていた。
「こいつは不知火紋といってな、鳴神水軍の紋所だった」
「鳴神水軍⁉ あの幻の水軍といわれた…?」
翡翠が目を見張ると、軍兵衛はやれやれといった様子で肩を竦めた。
「そんなもの、まだ未練がましく持っていたのか、鮫蔵」
「こいつだけは、どうしても捨てられませんや」
鮫蔵は悪びれもせず口元を歪めた。
「おれたちはともかく、おかしらと三五郎の兄貴はれっきとした武士だったんだぜ」
房吉が二人を見やって眩しげに目を細めた。
「おかしらには等々力って姓がある。三五郎の兄貴も、本当の名は久世左内さまだ」
「久世家といえば太宰府の名家なんだがな。そいつを捨てて海賊にまで成り下がるとは、つくづく粋狂な奴だ」
腕組みをした軍兵衛が、うんざりした顔で低く言った。
「では、三五郎というのは…」
「おかしらが付けてくださった。久世の姓を名乗るのは憚られるのでな」
「適当でいいと言うから、適当に付けてやったんだ」
翡翠は軍兵衛をちらりと見上げた。
「等々力…軍兵衛…」
「―――その名は捨てた。今のおれはお手配者の海賊、津曲の軍兵衛だ」
彼は、本当にどうでもよさそうに言い放った。
「ともかく、この船なら十日もすれば赤い海に着く。途中で時化に遭わなければの話だが。おまえも、つまらんことは考えるなよ」
翡翠はきゅっと唇を引き結んだ。
(十日後……十日後は、ちょうど満月にかかる!)
空が濃紺の闇に覆われると、竜神丸の舳先の彼方に極点を指し示す南十字星が現われた。船は、穏やかな海を滑るように進んでいる。東の水平線から昇ったのは、まだ若い上弦の月であった。
左舷の手摺りに身を寄せ、じっと夜風に吹かれている翡翠の後ろ姿を、反対側の手摺りにもたれながら軍兵衛が見つめていた。
「皆、退屈していたのか、久しぶりに生き生きしていますよ」
そう言って上甲板にやってきた三五郎は、軍兵衛の眼差しを追って声をひそめた。
「ずいぶん肩入れをなさるんですね」
「妬けるか?」
軍兵衛が視線を動かさずに言うと、三五郎は目を伏せた。
「妬いてほしいんですか」
淡々とした味気ないせりふに軍兵衛は苦笑した。
三五郎は、左舷の華奢な後ろ姿に目をやって肩を竦めた。
「生真面目だが、どこか危うげで放っておけないところがあなたの好みなんでしょう」
「…まあ、それもある」
珍しく煮え切らない口振りに三五郎が軍兵衛を見ると、彼はふっと薄く笑った。
「おれは、あいつが羨ましいのかもしれんな」
「羨ましい…?」
三五郎が怪訝そうな顔をする。
軍兵衛は、すうっと目を細めた。
「あいつには使命がある。おれたちの失した、使命がな。肩入れしたくなるのはそのためだろう」
やがて、くくっと自嘲気味に笑った彼は、夜空を振り仰いだ。
「気楽な海賊稼業のほうが性分に合っていると思っていたが……未練だな、鮫蔵のことを笑えん」
理由あって軍を解いたとはいえ、すぐれた傭兵部隊を率いて天下にその名を知らしめていたかつての水軍の提督が、意義もなくただ漫然と海賊に甘んじている姿は痛々しい。彼は、自らを慕う歴戦の強者たちとともに持て余す力の使い道を思いあぐねていたのだろう。
三五郎は、軍兵衛を気遣うようにそっと視線を逸らした。
「…必死になるものがないというのも、退屈ですからね」
彼らがそんな複雑な思いに浸っているとき、左舷の翡翠は眉間に気を集め、はるか時空を超越していた。
(ここから南へ十日の距離…そこに冥穴がある)
翡翠の意識は風のように海原を駆けぬけ、ぐんぐん速度を上げながら宵闇の景色の中を切り裂いた。
気を高めていくにつれ、体から意識が遠ざかっていく。耳に心地よく響いていた波の音も、頬を撫でていた潮風も、内に向かって閉じていく世界に封じられた。座標のない一筋の道はどこまでも続き、永遠に途切れることはなかった。
だが、もうこれ以上は、と翡翠が感じたときだった。
突然、闇の奥に赤く光る禍々しい邪眼が現われた。
『―――目見えたぞ、翡翠‼』
目が合った瞬間、眉間にドンッという凄まじい衝撃を浴びて意識が体に引き戻された。
気力を立て直す間などなかった。体勢を崩した翡翠は、そのまま為すすべもなく真逆様に暗い海に墜ちていった。
「おかしら!」
異変に気付いたのは三五郎のほうが早かった。軍兵衛は「ちっ」と舌打ちして船べりに駆け寄った。
「左内、船を止めさせろ!」
三五郎がはっと顔を上げたときにはもう、彼は素早く海に身を躍らせていた。
右腕が闇に絡め取られ、暗黒の底に引き摺られていく。恐ろしいほどの静寂に耳が痛くなり、息苦しさのあまり夢中で喘ぐと、いやというほど水を飲んだ。
海の中は何も見えない。
この光景はどこかで見たことがある、と思ったが、どうしても思い出せなかった。
(……体が…重い……)
翡翠は、沈みゆく力に抗えず、ついに気を失った。
波の音が響いていた。太陽はいつしか天頂にあり、甲板にからりとした日差しが降り注いでいる。水夫たちはそれぞれの持ち場で戯れ、海鳥が頭の上を行く様をのんびり眺めていた。
「呪法を解くには、それを放った者を斃すしかない。だから…」
肩を落とした翡翠は、動かない右腕をじっと押さえて俯いた。
「それだけか?」
軍兵衛の低い声に、翡翠は目を上げた。
「そいつの狙いが、呪法を放つことにあったのかと聞いてる」
翡翠が黙っていると、軍兵衛は腕組みをして息をついた。
「破門された邪法使いが叡山を襲い、外院の大僧正がおまえを庇って奴の放った呪法を浴びた…それはわかった。だから、おまえが大僧正を救うために奴を斃さなきゃらなんこともな。だが、それだけじゃ奴がなぜ赤い海にいるのか、という理由にはならない」
さすがに軍兵衛は鋭かった。あの夜のことをありのままに話しただけでは納得しないようだ。しかし、外界でこれ以上のことを話すとなると、叡山の秘中の秘である〈羅刹〉についても話さなくてはならなくなる。普通はこれだけ知られるのも憚られるのに、鬼神だの冥穴だのと軽々しく喋るのはもってのほかだった。
けれど、相手は恐るべき洞察力の持ち主であった。
「奴の狙いは、おまえの能力と―――その腕だな?」
卓抜した慧眼に、翡翠は動揺を押し殺して軍兵衛を見ていた。
「赤い海には何かある。おれたち船乗りが恐れる以上の何かがな。邪法使いがそれを手に入れようとしているということは、おまえの腕にもそれに匹敵するだけの何かがあるということだ。違うか?」
翡翠は肯定も否定もしないで目を伏せた。
(やっぱりこの人は只者じゃない…)
しかも、これほどのことを推察しながら、まったく動じたところがないのも神経が常人離れしている証拠だった。
軍兵衛は、だんまりを決め込む翡翠に肩を竦めた。
「おまえの沈黙は雄弁だな。核心に迫るほど口を閉ざす。もっとも、おれにとってはそのほうがわかりやすいが」
そして、すべてを見抜くような眼差しを翡翠に注いで言った。
「奴がそうまでして狙う、その腕……一体、何がある?」
彼を見返した翡翠は、慎重に言葉を選んだ。
「―――この世を凌駕する威力」
「奴がそれを手にするとどうなる」
軍兵衛の問いに、翡翠はやはり沈黙で応えた。
「…なるほどな。おまえには、どうしても奴を斃さなければならん事情があるというわけか。おまえと奴の因縁は、よほどのものらしいな」
翡翠は、探るような軍兵衛の言葉に唇を噛んだ。
恨みなどという生易しいものではない。
それでも、叡山を追われた邪法使いの金剛が彼を激しく憎悪していることを話すのだけはためらわれた。
思い詰めた様子の翡翠をよそに、軍兵衛は立ち上がった。
少し離れたところに三五郎をはじめ、権十や鮫蔵、房吉といった側近衆が立っている。軍兵衛は顎を上げて彼らを見回し、おもむろに言った。
「権十、艇を下ろせ」
「え…艇、ですか?」
権十は訝しげに首をひねった。軍兵衛は構わず腕組みをすると、改めて船中に響き渡る声でこう言い放った。
「おれは、これから赤い海を目指す。知ってのとおり、あそこは船乗りの誰もが恐れる場所だ。だから、今度ばかりはおれに付き合えとは言わない。わずかでも躊躇する者は構わん、艇に乗って島へ戻れ。今ここで船を降りる者は賢明だ、このおれが決して臆病者などとは言わせん」
船が、しんと静まり返った。並み居る荒くれたちは固唾を飲んで息をひそめている。
その中で、翡翠だけがたった一人激しい口調で噛みついた。
「気でも違ったんですか⁉ 利口な人間はあんなところに近づかないと言ったのはあなたでしょう」
翡翠を一瞥した軍兵衛は、涼しい顔で薄笑いを浮かべていた。
「その場所を教えてくれるだけでいいんだ。あなたが付き合う必要はない。まして、ほかの人たちまで巻き込むなんて…。言ったでしょう、私がもたらす災禍はこの世を凌駕するものだと!」
「忘れていないか? おれは、おまえに意志があるとは思っていない。赤い海を目指すのはおれの勝手だ。別におまえに付き合うわけじゃない」
軍兵衛が平然と嘯いたときだった。
「赤い海を制すれば、おれたちにも一層箔がつくよなぁ」
「おうよ、なんたってあの赤い海だ。今から腕が鳴るぜ」
房吉の呑気な声に権十が相づちを打つと、鮫蔵が頬骨をさすって頷いた。
「手っ取り早く名を揚げるには、もってこいの場所だからな」
そんな彼らの言葉を聞いて、船中がざわめきだした。
「赤い海か」
「行こうぜ。おれたちは、おかしらに命を預けてるんだ」
「ここで退いたら男が廃るぜ」
目を伏せた軍兵衛は、クッと喉を鳴らした。
「おれの無謀に付き合うなんざ、おまえたちも利口じゃないな」
甲板がどっと沸いた。魔境に向かう悲壮感など欠片もない。翡翠は苛立ったように「どうかしている!」と吐き捨てた。
軍兵衛は、顔を背けた少年から、黙ってこちらを見ている三五郎に目を移した。
「止めるか? 左内」
三五郎は静かに隻眼を伏せ、あきらめたように応えた。
「止めても聞かないでしょう」
「おまえまで付き合うことはないんだぞ」
「…あなたには目付け役が必要だ。放っておくと、またどこで羽目を外すかわからない」
冷ややかな言葉に、軍兵衛は薄く笑って肩を竦めた。
「おまえも、あまり利口じゃないな」
やがて、彼は顎を上げると、例の調子で荒くれ者たちを鼓舞するように言った。
「南に針路を取れ、目指すは〈赤い海〉だ!」
うおおっと凄まじい雄叫びが竜神丸の甲板を貫いた。
屈強の荒くれたちが子供のようにはしゃぎ回っている。歓喜の渦の中でただ一人、翡翠は重く沈んだ口調で呟いた。
「―――無謀だとわかっていながら、どうしてこんなことに命を賭けられるんですか…」
「あんた、おかしらの体を見ただろう?」
頭をぼりぼり掻きながら房吉が歩み寄って言った。
「あの傷はな、全部おれたちを守るためについたんだ」
「みんな、おかしらのおかげで一度は命拾いをしている」
鮫蔵が房吉の言葉を請け合った。
「おかしらは、おれたちのために体を張ってくれてる。そんな人に命を預けて何が悪い」
権十がそう息巻くと、甲板を眺めていた軍兵衛が振り返った。
「安心しろ。おれは、こいつらの言うほどたいした人間じゃない。おれにも守れなかったものぐらいある」
自嘲気味に笑った彼は、三五郎の眼帯に視線を注いだ。
「おまえの左目だけは、惜しいことをしたと今でも思っている」
「代わりにおれの目をくれてやる、と言ったでしょう?」
淡々とそう言った三五郎に、軍兵衛は口元を歪めた。
「そうだったな」
彼らが、たとえ何があっても軍兵衛に従ったことを後悔しないだろうというのは、本当かもしれないと翡翠は思った。彼らには、忠誠心や海賊の絆といったものよりもっと奥深い結びつきがあるのだ。だが、それならなおのこと、そんな彼らを自分の宿命に巻き込むのは翡翠にとって不本意としか言いようがなかった。
冥穴の淵で待ち構える金剛との戦いは、想像を絶するものになるだろう。結末はどうあれ、誰も傷つかずに済むことなどありえない。累々と横たわる屍の中に、見知った顔を見るのはもうたくさんだった。
脳裏に陰惨な幻がよぎった。纏いつく不吉の影が拭えない。
「…馬鹿げている。好んで厄災に関わろうとするなんて…。こんなのは愚行だ」
うなだれた翡翠が眉を寄せると、軍兵衛が言った。
「だったら、おまえのしようとしていることも馬鹿げたことなのか?」
翡翠はきつく唇を噛みしめた。
「おれたちとは次元が違うと思っているかもしれんが、危険を承知で人外の地に飛び込もうとしている点では、お互い様だ」
軍兵衛の言葉には妙な説得力があった。
翡翠は、顔を伏せたまま苦しげに呟いた。
「―――誰も……巻き込みたくなかったのに……」
「心配するな。仮に何かあっても、おまえの責任じゃない。手下を巻き込んだのはこのおれだ。おまえは、大僧正を救うことだけを考えろ。もっとも、あの叡山外院の大僧正がそう簡単にくたばるとは思えんが」
「お師さまを…知っているのですか?」
ようやく顔を上げた翡翠に、軍兵衛は肩を竦めた。
「知っているというほどのものじゃないが、色々と噂はな」
「なんでも八百比丘尼の血筋を引いておられるとか」
三五郎が静かに言った。すると、横から鮫蔵が口を挟んだ。
「人魚の肉を食って不死身になったとかいう、あれですか」
「お師さまは、別に不死身というわけでは…」
「でも、人の三倍は寿命があるんだろう?」
房吉が飄々と訊ねる。翡翠は顔をしかめて彼らを見回した。
「あなた方は、どうしてそんなことまで…」
「海賊ってのはな、小僧。海の上にいるだけが取り柄じゃねえってことだ」
権十が太い腕をがっちりと組んでニヤリとした。
「陸に仙太って野郎がいてな、小間物の担い売り(行商)をしてるんだが、こいつが滅法早耳で」
「あいつぁ顔だけはいいからなあ」
房吉がげらげら笑った。奥向きの女相手の商いなら、たわいもない世話話から様々な情報を引き出すのもわけはない。
「まあ、そのおかげで獲物のこともあれこれとな」
「奴とのつなぎは空から来るから、早くて、しかも正確だ」
「空?」
翡翠が聞き返すと、房吉は空を指した。頭の上をゆったりと翼が回遊している。
「大阪の米商人がやるのと同じだ」
鳥を使って相場の情報をやりとりしている商人の手法を踏襲しているという意味だろう。翡翠は改めて彼らの組織力に驚いた。海賊といっても、行きずりの船を襲うだけのならず者ではない。
彼らが、緻密に統率された叡智に富んだ集団だということは疑う余地もなかった。
「あなた方は…一体、何者なんです?」
翡翠は、何度目かの同じ質問を繰り返した。
五人は顔を見合わせた。そして、溜め息をついた軍兵衛が面倒臭そうに口を開いた。
「何者だろうと、そんなことはどうでもいいが…知りたきゃ教えてやる。―――おれたちは、水軍のなれの果てだ」
鮫蔵が、首に下げていた刀の鍔をおもむろに懐から取り出してみせた。そこには、白波の狭間に揺らぐ陽炎が螺鈿細工で意匠されていた。
「こいつは不知火紋といってな、鳴神水軍の紋所だった」
「鳴神水軍⁉ あの幻の水軍といわれた…?」
翡翠が目を見張ると、軍兵衛はやれやれといった様子で肩を竦めた。
「そんなもの、まだ未練がましく持っていたのか、鮫蔵」
「こいつだけは、どうしても捨てられませんや」
鮫蔵は悪びれもせず口元を歪めた。
「おれたちはともかく、おかしらと三五郎の兄貴はれっきとした武士だったんだぜ」
房吉が二人を見やって眩しげに目を細めた。
「おかしらには等々力って姓がある。三五郎の兄貴も、本当の名は久世左内さまだ」
「久世家といえば太宰府の名家なんだがな。そいつを捨てて海賊にまで成り下がるとは、つくづく粋狂な奴だ」
腕組みをした軍兵衛が、うんざりした顔で低く言った。
「では、三五郎というのは…」
「おかしらが付けてくださった。久世の姓を名乗るのは憚られるのでな」
「適当でいいと言うから、適当に付けてやったんだ」
翡翠は軍兵衛をちらりと見上げた。
「等々力…軍兵衛…」
「―――その名は捨てた。今のおれはお手配者の海賊、津曲の軍兵衛だ」
彼は、本当にどうでもよさそうに言い放った。
「ともかく、この船なら十日もすれば赤い海に着く。途中で時化に遭わなければの話だが。おまえも、つまらんことは考えるなよ」
翡翠はきゅっと唇を引き結んだ。
(十日後……十日後は、ちょうど満月にかかる!)
空が濃紺の闇に覆われると、竜神丸の舳先の彼方に極点を指し示す南十字星が現われた。船は、穏やかな海を滑るように進んでいる。東の水平線から昇ったのは、まだ若い上弦の月であった。
左舷の手摺りに身を寄せ、じっと夜風に吹かれている翡翠の後ろ姿を、反対側の手摺りにもたれながら軍兵衛が見つめていた。
「皆、退屈していたのか、久しぶりに生き生きしていますよ」
そう言って上甲板にやってきた三五郎は、軍兵衛の眼差しを追って声をひそめた。
「ずいぶん肩入れをなさるんですね」
「妬けるか?」
軍兵衛が視線を動かさずに言うと、三五郎は目を伏せた。
「妬いてほしいんですか」
淡々とした味気ないせりふに軍兵衛は苦笑した。
三五郎は、左舷の華奢な後ろ姿に目をやって肩を竦めた。
「生真面目だが、どこか危うげで放っておけないところがあなたの好みなんでしょう」
「…まあ、それもある」
珍しく煮え切らない口振りに三五郎が軍兵衛を見ると、彼はふっと薄く笑った。
「おれは、あいつが羨ましいのかもしれんな」
「羨ましい…?」
三五郎が怪訝そうな顔をする。
軍兵衛は、すうっと目を細めた。
「あいつには使命がある。おれたちの失した、使命がな。肩入れしたくなるのはそのためだろう」
やがて、くくっと自嘲気味に笑った彼は、夜空を振り仰いだ。
「気楽な海賊稼業のほうが性分に合っていると思っていたが……未練だな、鮫蔵のことを笑えん」
理由あって軍を解いたとはいえ、すぐれた傭兵部隊を率いて天下にその名を知らしめていたかつての水軍の提督が、意義もなくただ漫然と海賊に甘んじている姿は痛々しい。彼は、自らを慕う歴戦の強者たちとともに持て余す力の使い道を思いあぐねていたのだろう。
三五郎は、軍兵衛を気遣うようにそっと視線を逸らした。
「…必死になるものがないというのも、退屈ですからね」
彼らがそんな複雑な思いに浸っているとき、左舷の翡翠は眉間に気を集め、はるか時空を超越していた。
(ここから南へ十日の距離…そこに冥穴がある)
翡翠の意識は風のように海原を駆けぬけ、ぐんぐん速度を上げながら宵闇の景色の中を切り裂いた。
気を高めていくにつれ、体から意識が遠ざかっていく。耳に心地よく響いていた波の音も、頬を撫でていた潮風も、内に向かって閉じていく世界に封じられた。座標のない一筋の道はどこまでも続き、永遠に途切れることはなかった。
だが、もうこれ以上は、と翡翠が感じたときだった。
突然、闇の奥に赤く光る禍々しい邪眼が現われた。
『―――目見えたぞ、翡翠‼』
目が合った瞬間、眉間にドンッという凄まじい衝撃を浴びて意識が体に引き戻された。
気力を立て直す間などなかった。体勢を崩した翡翠は、そのまま為すすべもなく真逆様に暗い海に墜ちていった。
「おかしら!」
異変に気付いたのは三五郎のほうが早かった。軍兵衛は「ちっ」と舌打ちして船べりに駆け寄った。
「左内、船を止めさせろ!」
三五郎がはっと顔を上げたときにはもう、彼は素早く海に身を躍らせていた。
右腕が闇に絡め取られ、暗黒の底に引き摺られていく。恐ろしいほどの静寂に耳が痛くなり、息苦しさのあまり夢中で喘ぐと、いやというほど水を飲んだ。
海の中は何も見えない。
この光景はどこかで見たことがある、と思ったが、どうしても思い出せなかった。
(……体が…重い……)
翡翠は、沈みゆく力に抗えず、ついに気を失った。
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