鬼神の腕

東雲紫雨

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鬼神の腕

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     三

 おまえにはもともと足りないところがあって、だからその能力ちからは足りないところを補うためにあるのだ、と彼は言った。
 くりやに青物を届けにくるげんやのせがれいちは、少し頭が足りないが、木彫りをさせたら仏師も驚くほどの物をこしらえる。あれは、市のそういう力だ。でも、市のことを知らない者は、市を見て恐れたりあざけったりする。彼らは、自分たちの無知を恥じることさえ知らないのだ。自分の知らないものは否定し、認めたくないものは拒絶する、そんな愚か者のことは放っておけばいい。
 おまえは何も気にすることはない。この世には人知を超えることなどいくらもある。人はそれを恐れるのではなく、無知が人を恐れさせるのだ―――…。
 なのに、なぜ彼はさらなる力を手に入れようとしたのか。有り余るほどのものを分け与えてくれた彼には、足りないところなどなかったはずだ。
 あのとき、燃えたぎる鉄の塊を夢中で摑んだ右手は忌まわしい姿で凍りついた。不足を満たすどころか、この能力ちからはただ奪い去ったのだ。こんな能力ちからはいらない。不足を何一つ満たせない能力ちからなど、私はいらない―――。

 誰かが禁忌きんきの戒めに触れた気がして、翡翠は反射的に腕を振り払った。
 すると、息を呑む短い声とともに傍らで白い影がよろめいた。
梅香ばいこうどの、どうされた?」
「いえ、なんでもありません」
 奥から聞こえた男の声にやわらかく応えた女の声が、ぼんやりと霞んだ視界の隅から翡翠の耳にそっと囁いた。
「触ってはいけなかったのですね。もう二度としません、ご安心なさい」
 清楚な白檀びゃくだんの香りが疲れ果てた体を押し包み、弾みで取り落とした手拭てぬぐいがやさしく額に乗せられた。品のいい紫の薄衣うすぎぬが目にしみて、それが尼装束だと気付くのに時間はかからなかった。
「……尼御前あまごぜ……」
 動かない腕を庇うように身をよじると、枕辺に四十前後のたおやかな尼僧の姿があった。
「…お慈悲をたまわりましたのに…ご無礼をいたしました…」
 精一杯頭を下げる翡翠に、尼僧は美しい面差しをほころばせて言った。
病身やまいみに左様なご懸念は無用です。わたくしこそ、迂闊うかつでした。あまりお苦しそうでしたので、ついお手をお取りいたしました」
 行儀のいい物言いは、恐らく武家の出であろう。黒髪を落とすにはまだ惜しい年齢としにも見えるが、浮き世を離れるには相応の事情があったのだ。
「さ、いま少しお休みなさい」
 しつけの行き届いたきれいな手が翡翠の体を再び横たえる。その背の向こうに観世音菩薩がまつられているのが見えたとき、おぼろげだった彼の頭は次第にはっきりしてきた。
「ここは…どこです? 尼御前が私をここへ?」
「わたくしは、お世話を頼まれただけです」
 尼僧はにっこりと微笑んで立ち上がった。
「あの…私はどうして…」
 視線をめぐらせてふと気が付くと、衣類がいつのまにか清潔な寝間着に替えられている。翡翠はぎょっとしたように飛び起きて、体をこわばらせた。
「これは…尼御前が⁉」
「濡れたままではおけませんからね。でも、着物を替えたのはわたくしではありません」
 翡翠の表情がにわかに険しくなった。いずれにせよ、誰かに見られた・ ・ ・ ・のだ。
「―――人に肌をさらすのが、それほどおいやか」
 不意に、尼僧の背後からさっきの男の声がした。
「お薬湯を煎じてまいりましょう」
 振り向いた彼女が会釈を交わした相手は、端整な顔立ちをした隻眼の男だった。
 翡翠は全身で警戒しながら、入れ違いにやってきたその男をじっと見据えた。
「それとも、その腕のせいか」
 冷ややかな眼差しを注がれて、翡翠はどきりとした。片目を覆う眼帯は長い前髪の下に隠すようにしているが、残った目の鋭さはそれを凌いで余りあった。
「…動かぬのだろう?」
 翡翠は黙って男を見つめていた。長髪を頭の後ろで一つに束ね、腰に大刀を帯びているが、その扮装いでたちは浪人のようにも見えない。しかし、物腰は洗練されたさむらいのようで、わずかな隙もないのだ。
 男は、翡翠の困惑など気にも留めず冷徹に言った。
「着替えさせていてわかった。その念珠にも、何かいわくがあるのだろうとお見受けしたのでな」
 寝間着の上から腕を強く押さえた翡翠は、唇を噛んでうなだれた。
「お助けくださったことには礼を言います。体がよくなりましたら、すぐにもおいとまさせていただくので、どうかこれ以上のお心遣いは…」
「何か、勘違いをしておられるようだ」
「…え?」
 眉を寄せて顔を上げると、男は身じろぎもせずにこう言った。
「助けたというのは当たらない。正しくは、気紛れに拾った・ ・ ・と言うべきか。それに、着替えをさせたのも、見るに忍びなかったというより、あることを確かめるためだったと申し上げたほうがいいだろう」
 翡翠は警戒感を募らせた。不覚にも、嵐の晩に停泊中の下り船に潜り込んでからの記憶がまったくない。六感だけが頼りの長旅に疲れきった末のことだが、それにしてもこんなことは珍しかった。
「ここはどこです⁉ あなたは一体…」
 そう言いかけて、不安が一気に込み上げた。意識を失っている間のことが恐ろしいほど気になったのだ。
「私は―――ずっと眠っていたのですか? 眠っている間に、何か…」
何か・ ・…?」
 心の中まで見透かされそうな鋭い眼光に、翡翠は口をつぐんだ。
 男は、ふっと目を伏せた。
「この二時ふたとき(約4時間)あまり、ずっと昏睡しておられたと言えば、ご安心か? もっとも、我々が其処許そこもとを拾うより前のことは存じ上げぬが」
 口調はぶっきらぼうだが、その言葉は最前から正直すぎるほど率直に思えた。油断なく息をつめていた翡翠が取り敢えずほっとするのを見て、男は再び言った。
「ここは、先ほどの梅香尼どのが庵主あんじゅをしておられる観音堂だ。この島で、唯一の聖域と言っていい」
「島? どの辺りです?」
「それは申し上げられぬ。それが、海賊・津曲一党のおきてと心得ていただこう」
「―――海賊⁉」
 翡翠は一瞬唖然とした。眠っている間に、別の意味でとんでもないことになっていたと初めて気付いたからだ。
「だから先刻、礼を言われるには当たらぬと申し上げた」
 男は淡々と静かな声で言い放った。
 しかし、事態が把握できてくると翡翠のほうも落ち着いてきた。相手の様子からして、差し当たってすぐに危害を加えられる心配はなさそうだ。そもそも、彼には叡山仕込みの法力がある。人に対して使うのは不本意だが、いざとなれば止むを得ない。
「私は、どうなるのです?」
「それはわからぬ。どうするかは頭目が決められる」
「頭目?」
「津曲の軍兵衛。其処許を拾った物好きだ」
 自らの首領をつかまえて随分な言い草だった。
「もちろん、ただの親切心から其処許を拾ったわけではないから、あまり期待を持たれても困るが」
 男がうんざりした様子で溜め息をついたとき、そこに尼僧が戻ってきた。
「まだあまり長く話しては体にさわりますよ」
 やんわりとさとす尼僧に軽く会釈を返した男は、ちらりと翡翠を見下ろして言った。
「梅香どのにはご迷惑をおかけせぬように。万一お手をわずらわすようなことがあれば、このように穏やかには済まぬと覚えておかれるがいい」
「何もそのように申されなくとも…。軍兵衛どのがわたくしにお預けになったお方です、心配はいりません」
忠告・ ・です」
 彼はもう一度くぎを刺すように隻眼で翡翠を見下ろすと、そのままきびすを返した。
「お気になさいますな、わたくしを案じてくれているのです」
 尼僧は翡翠を気遣うように笑みを浮かべた。
「ここにおられるかぎり、なんの気兼ねもいりません。ここにはわたくしと、堂守どうもり治助じすけという者がいるだけです。ともかく今は、体を休めることだけをお考えなさい。それが何よりの薬です」
 そう言いながら、彼女は差し出した湯呑みにさり気なく手を添えた。片手の不便を察しての気配りだったが、その白い手に包まれた翡翠の左手は菩薩の慈悲とぬくもりを確かに感じていた。
 翡翠は、隻眼の男がここを聖域だと言っていた意味に納得した。
 この場所が観音堂であること以上に、尼僧の影響力がこの場所を聖域にしているのだ。尼僧と海賊の取り合わせはなんとも奇妙だったが、ここでは海賊も彼女を敬い、滅多なことができないのだろう。
 とろりとした薬湯を飲み干した翡翠は素直に横になった。
「ゆっくりお休みなさい。目が覚めたら、何か少し召し上がるといいでしょう」
「ありがとうございます」
「わたくしは奥におりますから、いつでも遠慮なく声をかけてください」
 翡翠が目を閉じたのを見届けると、尼僧は間仕切りの板戸をそっと立てた。体を休めるには充分な静けさが訪れ、翡翠は少しの間、心地よいまどろみに身をゆだねた。
 遠く、微かに潮騒しおさいが聞こえる。
(あれから四日か…)
 意識の半分を中空に漂わせながら、彼は胸の上に置いた右腕に触れた。
(今ごろ叡山の僧院はどうなっているだろう。お師さまは―――…)
 生命維持に必要な最低限の力を残して細胞の活性化を止め、深い眠りの底に沈んで蠱毒の浸透を抑えているとはいえ、浄化を急がねば命にかかわることに代わりはない。彼を信じ、すべてを託して送り出してくれた大僧正のためにも、山を下りることを許してくれた座主ざすのためにも、一刻も早く怨敵をたおして山へ戻らなければならない。
 あの夜、ち支度を始めた彼は座主から呼び出しを受けた。
 よわい八十を越える座主は僧院の騒ぎをすべて聞き及んでいながら、翡翠には何も問わず、ただ膝の上に乗せた袱紗ふくさ包みを見やって、「ここへ来なさい」と彼を招いた。
 翡翠が不始末を詫びようとすると、座主はおもむろにこう訊ねた。
「蠱毒は、右から来たのだな?」
「…はい、そのように思います」
 真空のひずみを見たのは西の空に間違いなかった。あれは、真南を向いている本院の屋根を飛び越えるようにして現われたのだ。
「そうか」
 座主はひとり頷いて、袱紗包みを開きながら言った。
「西の海に、冥穴めいけつというものがあると聞く。冥府に繋がる入り口だ。そこには、澱んだ負の気が我らの及びもつかぬほど蓄積している。そして、それは月の満ちたときにもっとも力を増すという。もしも…その力が魔性によって引き出されたなら、この世にもはや救いはないと思うてよかろう」
 節くれだった皺だらけの手が、袱紗の中から念珠を押し戴くようにして取り出した。
「邪法使いにまで名を落としめたはぐれ者が、新月の闇に呪法を用いてもこの有様。月が満ちたときのことを思うとぞっとするわ。鬼神をその身に宿すおまえを叡山ここから出すのはためらわれるが、あのはぐれ者の邪心を砕くためには致し方あるまいな…」
 座主は、眉を寄せてうなだれる翡翠の右手を取り、そこへ念珠を掛けて真言を唱えた。すると念珠は、彼の肌に吸い付くようにぴたりと巻きついた。
「…っ…!」
 翡翠が驚いて息を呑むと、座主は落ち窪んだ小さな目で彼を一瞥して言った。
「この念珠は、叡山至宝の霊玉だ。いざというときのために授けておく」
「ご老師さま…」
「思い違いをするなよ、決して下山を許すわけではない。叡山の座主として、鬼神の依代よりしろを野放しになどできるわけがなかろう。おまえは、拙僧の預かり知らぬところで勝手に禁を犯すのだ」
 座主は目を伏せながら、溜め息混じりに肩を落とした。
「まったく…弟子が弟子なら、師も師よ。内院にもはからず勝手に入滅にゅうめつなぞしおって。おまえたちは、師弟揃ってこの老いぼれを悩ませる」
「…申し訳ありません…」
「謝ってほしいわけではない。ただ、あまり世話を焼かせてくれるなと言うておる」
 唇を引き結んだ翡翠は、真直ぐに座主を見つめた。老師の大仰な口振りが座主としての建前であることは充分わかっていた。
「お師さまを、どうかよろしくお願いいたします」
「心配いたすな。あれは放っておいてもそう簡単には死なぬ男だ」
 座主はあきれ顔で言ったが、その眼差しは口調と裏腹に鋭さを帯びた。
「外院の大僧正を欠いておる今、叡山の守りは手薄になった。再び同様の攻めを受ければ、いかに叡山といえど長くは持ち堪えられぬだろう。本来ならば立場上、おまえが山から離れることを許すわけにはいかぬところだ」
 翡翠は神妙に頷いた。
 叡山随一の法力使いが山を離れることは、山を危機にさらすことにつながる。事が公になれば、叡山そのものが追及と糾弾を受けることになるかもしれない。この旅は、たとえ無事に戻っても決して褒められたものではないのだ。
「あのはぐれ者は、かの地の力を背後に得ているはずだ。しかし、鬼神を宿すおまえの身には冥穴に近づくことも容易ではなかろう。それゆえ、その念珠は万が一のときにおまえを助ける護符のようなものと心得ておくがよい」
 腕に巻きついた念珠は、きつくもないが緩くもない。だが、触っただけでははずれない。座主は魔境へ赴く彼へのはなむけに、さらなる封印を施したのである。
 そして、念を押すようにこう繰り返した。
「おまえの務めは鬼神をちまたに放たぬこと。それは山を下りても変わらぬ。…よいな。このこと、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
 その夜のうちに叡山を後にした翡翠は座主の言葉に導かれ、西へ下った。昼は間道を行き、夜には人目のないのを見計らって法力で空を駆ける。前夜こそ嵐に阻まれはしたが、わずか三日で下関に辿り着いたのは、ほとんど休まず西を目指したためだった。
 東の夜空に昇る月は日一日と満ちてくる。
 西の海といっても、これといって確かな当てがあるわけではない。ただ、右腕が疼くのだけが頼りだった。
 翡翠は右腕に乗せた手に力を込めた。
(幸い、〈羅刹〉は悪意に敏感だ。〈羅刹〉の示すとおりに悪意を辿れば敵の在処ありかは自ずと知れる。当然、向こうにもこちらの動きは筒抜けだろうが、罠を承知で誘いに乗っているのだ。ひるむ理由はない)
 山を下りて、すでに四日。これまでは何事もなかったが、この先はわからない。
 敵は、そう簡単に懐に飛び込ませてくれるほどお人好しではない。僧院で繰り返されたような挑発も覚悟しなくてはならないだろう。
(それでも、行かなくては…。行って、この手で彼をたおさねば―――!)

 それから二度ほど尼僧は様子を見にきたが、いずれも静かに戻っていった。
 翡翠は気付かぬふりをして夜が更けるのを待った。久しぶりによく眠ったせいか、頭がすっきりしている。過度の疲労からきていた発熱もだいぶ治まったようだ。
(ご親切にしていただいた尼御前には申し訳ないが、ここに長居するわけにもいかないしな…)
 枕元には、すっかり乾いた着物がきちんと畳んで置かれていた。袖口の破れ目もつくろってある。尼僧の慈愛は、母親のそれに似ていた。そして、それは物心ついた頃から叡山で暮らす翡翠の脳裏に、わずかに残る母の記憶と重なった。
(尼御前、お世話になりました)
 手早く身支度を整えると、彼は心の中で非礼を詫びながらそっと観音堂を抜け出した。
 誰であろうと、己が招く災禍わざわいに巻き込むことはできない。そのためにずっと人目を避けて下ってきたのだ。
 松林を抜け、砂混じりの小径こみちを駆けおりると、目の前に満天の星が降り注いできた。
 濃い潮風が吹きつける。辺りは闇に包まれ、もう空と海の境目もわからない。翡翠は、星明かりだけを頼りに浜辺まで一気に走った。
 波打ち際の向こうには、真っ黒な海が広がっていた。
(この海を渡るのは、私の能力ちからでも楽じゃないな)
 翡翠は眉間みけんに気を集めた。砂浜に向けて可能なかぎり意識を飛ばしたが、辺りには小舟はおろか漁師小屋さえ見当たらない。―――と、そのときだった。
「こんな夜更けに、どこへ行こうというんだ?」
 背後からいきなり声をかけられ、翡翠ははっとして振り返った。
 暗がりの中に人影がある。いつからそこにいたのか、まったく気配を感じなかった。
「ここは、地図にものらない絶海の孤島だ。船がなければ、この島からは出られない」
 相手はよく通る低い声でさらに続けた。
「小舟で沖へ漕ぎだしても、周りは潮の流れの複雑な難所ばかり。素人しろうとは一(1海里。1852メートル)も行かないうちにお陀仏だぶつだぞ」
 容貌は闇に沈んではっきりしないが、体格はかなりがっしりとした長身の男である。翡翠は用心深く間合いをはかった。
「どうせ、どこへも行かれはしない。あきらめて、もといた所へ戻るんだな」
 翡翠が黙っていると、相手は小首をかしげた。
「聞こえなかったのか? ここは海賊の巣窟だ。むやみに観音堂を出たら、荒くれどもによってたかってなぶりものにされても文句は言えねえぜ」
 影が、ゆらりと動いた。
「―――打擲ちょうちゃく
 微かに呟いた翡翠が左手で印を切って気を放つと、相手の足元に数本の砂煙が立った。翡翠にとっては虚仮威こけおどし程度だが、相手が怯めばそれでよかった。
 しかし、彼の予想はくつがえされた。
「こいつは驚いたな。ただの寺小姓かと思ったが、法力が使えるとは」
 男は肩を竦めた。海賊の歩哨ほしょうにしては落ち着き方が堂に入っている。
 あなどれないと察した翡翠は、即座に手の平に気を込めた。
「私は、すぐにここを離れなければならない。あなた方がなんであろうと、これ以上私に関わらないほうがいい」
「…そんな戯言たわごとが通るとでも?」
「あなた方のために言っている。私がここにいれば、必ず厄災を招く。そうなってからでは遅い」
「だから―――梅香尼を裏切っていこうというのか」
 低い声がわずかに凛とした厳しさを帯びた。尼僧の名を出された翡翠は言葉に詰まり、息を呑んだ。
「人を虚仮にするのも大概にしろよ」
「そんなつもりは…」
 尼僧には本当に感謝している。だからこそ、これ以上の迷惑をかけたくないと観音堂を出てきたのだ。それを、ないがしろにしていると言われるのは心外だった。
「おまえがどう言い訳しようが、黙って観音堂を出てきたのはおまえの都合だ」
 相手は凄味のある声で言った。
「考えたことがあるか? 海賊の頭目から預かったものを、自分の不注意ではないにしろ失したことを知ったときの梅香尼の気持ちを。おまえの言葉じゃないが、おまえがなんであろうと・ ・ ・ ・ ・ ・ ・庵に受け入れ世話をした梅香尼が、責任を感じないでいられると思うのか。お為ごかしは聞こえがいいが、おまえはただ、てめえの都合を振りかざしてるだけだ」
 翡翠はうなだれた。
 見たくない光景を瞼の裏にてしまう前に立ち去ることが、巻き込みたくないと思うことが欺瞞ぎまんだというのなら自分は一体どうすればいいのだろう。相手の言うことも確かに道理だが、もともとこちらに関わる気などなかったのだ。自分本位と言われようが、今一時いっとき目を閉じれば済むことである。
 皮肉にも、思い出したくない声が耳の奥にこだました。
 ―――おまえは引け目があるから自分のことをよく見せようとしたがる。その、自分を悪者にしたくないというところが不快なのだ!
(確かにその通りだ…。でも…)
 俯く彼の瞳が、ふと虚ろにかげった。
「……私には、人にはない能力ちからがある。その能力ちからが、否応なく周囲にも災禍わざわいをもたらす。だから、その前に…」
「それが、なんだ・ ・ ・?」
 相手の口調はさらに険しさを増した。
「おまえの態度はどうも気に食わない。所詮、他人には何もわかるまいと思っているだろう」
 闇の奥から鋭く射抜くような視線を感じ、翡翠ははっと顔を上げた。
「おまえがどんなご大層なものを背負ってるか知らんが、ごうなど誰でも背負っている。自分の業だけが他人のそれより重いと思うのは世間知らずの思い上がりだ。それとも、自分の背負っているものだけが大義だとでも言うのか?」
「…私は…」
「正直、おまえがなんであろうと興味はない。だが、おれの縄張りしまで勝手をされるのは不愉快だ」
「―――おれの・ ・ ・…?」
 翡翠はようやく相手が誰であるかを悟った。法力を目のあたりにしたときの落ち着きぶりはやはり尋常ではないが、この男の醸し出す威圧的な雰囲気には頷けるものがあった。
「では、あなたが…」
 波間に揺らぐ夜光虫のほの暗い輝きが、相手の姿を青白く照らしだした。
 すらりとした長身、隆々とした筋骨、刀にかけた逞しい腕。潮風にさらされた髪を無造作に束ね、無頼の格好なりをしているが、眼光は鋭く、揺るぎない強い力を放っている。
 津曲の軍兵衛は、その鋭い目で翡翠を見据えて言った。
「おまえの都合など、おれにはどうでもいいことだ。おまえは、ただの戦利品。おれにとっては分捕ぶんどった獲物の一つにすぎない。だから、意志があるとも思っていないし、勝手に歩き回るのも許さない」
「……逃げ出すなど、もってのほか、ということですか」
「当然だ」
 翡翠は怯まず相手の目を真直ぐ見返し、左手を握り締めた。
「私は、あなたの所有物になるつもりはない」
 軍兵衛は薄く笑って目を伏せた。
「おまえの意志など関係ないと言っただろう」
「海賊の世迷よまごとに付き合っている暇はない―――!」
 翡翠が左手に込めた気を放つのと、軍兵衛が腰の刀を抜き放つのはほとんど同時だった。
 刀は、抜きざまに翡翠の気の塊を真っ二つに切り裂いた。その直後、ドォンと物凄い音がして、軍兵衛の背後の岩場に気弾が炸裂した。
 風圧で軍兵衛の頬が細く裂けた。
 翡翠が驚いたように顔をこわばらせると、軍兵衛はにやりと笑って言った。
「次にそいつをやるときは、手加減などしないことだ」
 無論、奇獣や妖魔を相手にするのとはわけが違う。怪異や変化へんげを封じるよりもずっと抑えた威力ではあるが、それでもあの気の塊を一刀両断にするなど只者ではない。
(あの気を見切るとは…。この男―――ただの海賊ではない!)
 再び身構えた翡翠をよそに、軍兵衛は刀をさやに収めた。
「思ったとおり、楽しませてもらえそうだな」
「…私は、ここに長居する気はありませんよ」
「だったら、法力でもなんでも使ってさっさとこのおれを倒し、船を奪って島を出ればいい。おまえなら、そんなことは指一本で…いや、念じただけでもできるのだろう?」
 軍兵衛はくくっと喉を鳴らした。
「おまえに、それができればの話だが」
 翡翠は奥歯を噛みしめた。
「後悔しても知りませんよ」
 左手の中にぼうっと白っぽい光が満ちはじめる。だが、軍兵衛は身じろぎ一つせず、悠然と腕組みをしたまま翡翠を見据えていた。
「今度は、手加減しない!」
「おまえにはできない」
「本気ですよ…」
「やってみろ」
 軍兵衛と翡翠は激しく睨み合った。
 叡山随一と称されるこの法力をもってすれば、人ひとり倒すことなどわけない。だが…。軍兵衛を睨みつけていた翡翠は唇を噛むと、視線を外し、手の中の気を散らした。
「やはり、法力で人は倒せぬか」
 心の奥を見透かしたようなその声に、翡翠は低く言った。
「……法力は、殺しの道具ではない。少なくとも、私はそう教わった」
 軍兵衛はふと薄く笑った。
「ご立派な教えだな」
「―――なぜ…私がたない、と?」
 軍兵衛の肝の据わり方はやはり普通ではない。翡翠は俯いたまま訊ねた。すると、彼はおもむろに肩を竦めて応えた。
「おれを殺す気なら、初めからそうしている。違うか?」
 あの一撃を受けただけでそれに気付いていたとすれば彼はかなりの使い手である。殺気を読むのにけているのは、生の確率を確信していることにほかならないのだ。
「私を、どうする気です?」
「…さあな」
 翡翠は目を上げて軍兵衛を見た。
「さっきも言ったとおり、私はここに留まるつもりはない。あなた方の目をかすめて姿をくらますくらい、私には造作もないことなんですよ?」
「好きにするさ」
 軍兵衛は、どうでもよさそうに頭を掻いた。
「それならそれで、退屈凌ぎになる」
「言ったでしょう、私は厄災を招くと。…誰も巻き込みたくないんだ。なのに、なぜ放っておいてくれないんです? あなたも、私のこの能力ちからが望みですか⁉」
 動かない右腕を固く握り締めた翡翠はなかば叫ぶように声を荒げた。
 人はこれまで、彼の能力ちからを恐れるか、その能力ちからを欲するかのどちらかだった。彼自身がもっともみ嫌うこの異質の能力ちからに人々が一喜一憂する様を、彼は何度となく見てきたのだ。
「おまえの力とやらに、興味などない」
 吐き捨てるように軍兵衛が言った。
「獲物にどんな価値があるかは、このおれが見極める。おまえの価値は、おれが決めた以上でも、それ以下でもない。それだけのことだ」
 微動だにしないその言葉に、翡翠は気を削がれた。彼の口調には本当にそれ以外の他意をまったく感じなかったのである。
「…一体…あなたは、なんなのです?」
「見てのとおり、ただの海賊だ」
「そうは見えないから聞いているんです」
 翡翠は苛立ったように軍兵衛を睨みつけた。
「あなたは、只者じゃない。法力に動じなかったばかりか、真っ向からそれを受けるなんて…。よほどの修練を身につけているとしか思えない」
「買いかぶりだ。おまえが手加減しなきゃ、とっくに死んでる」
「只者でないとわかっていたら、手加減などしませんでした」
 翡翠は顔を背けた。軍兵衛の余裕に満ちた表情を見ていると、もどかしさに似た奇妙な感情が込み上げてくるのだ。彼の持つ能力ちからに興味がないと言い切りながら、平然と値踏みをする俗物ぶりには嫌悪感を覚えるが、そこに害意も悪意も感じないのが不思議だった。恐らく軍兵衛は、彼にとってもっとも住む世界の遠い存在なのだろう。
「―――あなたは…私が恐ろしくはないのですか」
 俯いた翡翠は、右腕をぎゅっと押さえた。
「こんな得体の知れない…私のような人間が…」
「そいつは、お互い様だ」
 軍兵衛はすうっと目を細めた。
「言っただろう、おまえがなんであろうと興味はないと。どのみち、おれたち凡人にとっては狐狸こりと霊異に大差はないし、法力とおまえの能力ちからとやらの区別もつかない」
 彼のような人物が自らを「凡人」といってはばからないのには抵抗があるが、それでも外界で畏怖や好奇以外の反応を見るのは珍しかった。
 翡翠が驚きを隠さずにいると、軍兵衛は飄々と肩を竦めて言った。
「要は、おれが面白いと思うか否かだ」
 傲岸不遜な一言だった。だが、そこにはうらやましいほどの強い自我と絶対の自信が漲っている。この男なら、何があっても己を見失うことはないだろう。
(やはり、とてもただの海賊とは思えないな)
 なるほど、得体が知れないのはお互い様だと翡翠は思った。
 軍兵衛はふと口元を歪めた。
「どうしても船に乗りたきゃ、夜が明けるまで待て。言っておくが、盗み出そうとしても無駄だぞ。管理は徹底させている。自慢の法力で手下に怪我でもさせてみろ、そのときはおれも容赦はしない」
 翡翠は軍兵衛を見返した。
「どうでも私に関わる気ですか。私を乗せたら、あなたの船を沈めることになるかもしれませんよ」
「それもまた一興」
 くくっと喉を鳴らす軍兵衛に、翡翠は言った。
「あなたのたのしみのために、いたずらに関わってよいという問題ではない。命を落としてもいいんですか」
「それを決めるのはおまえじゃない。おれの運命さだめは、おれが決める」
「―――大切な、あなたの手下を失うことになっても…?」
 僧院での出来事が頭をよぎった翡翠は、苦しげに顔をしかめた。
「おれの手下はそれほどやわじゃない。泣き言を言うくらいなら、最初はなからおれに付き合ったりはしないさ」
 腕組みをした軍兵衛は、薄く笑って目を伏せた。自分の一存に周囲を巻き込むことに、彼はなんのためらいも感じていない様子だった。
「明日の朝、観音堂に迎えをやる。それまではおとなしくしていろ」
 なかば強引に促された翡翠は、渋々波打ち際を離れた。いつまでも押問答を続けたところで始まらない。軍兵衛とはどうしても話が噛み合わないのだ。
 重く押し黙り、うなだれてもと来た道を戻っていく彼に、軍兵衛は訊ねた。
「おまえ、名は?」
 翡翠は肩越しに少し振り返って応えた。
「……翡翠」
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