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1巻
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「がみがみ吠えるな、門脇。おいらんは意に染まぬ相手を断ることができるのを忘れたか? だから野暮だというのだ。おいらんは野暮が嫌いだ、その調子ではいくらかかっても座敷に揚げることは叶わぬぞ」
「太夫の膝枕を独り占めとは、たいした色男ぶりだな」
「ああ。おいらんにとって、おれはただの半可者ではないらしいからな」
皮肉をさらりと受け流した男は、喉の奥で含むように笑った。
「おのれ篁、今日という今日は赦さぬ!」
怒りが頂点に達した門脇は、今にも腰の刀を抜こうと身構えた。周囲の女や客たちは斬り合いが始まると見て悲鳴をあげ、逃げ惑う。それでも男のほうは、太夫の膝から一向に起き上がる気配がなかった。
「立て、篁! 今日こそ決着をつけてやるっ」
門脇が喚きながら柄に手を掛けたときだった。
一瞬、ふわりと薄い影がよぎった。刹那、はっとする間もなく、門脇たちは頭の上からあの襦袢を被っていたのである。
「う、うぬっ」
門脇が慌てて襦袢を振り落とすとそこに、太夫の前で臥していた体を起こす傾き者の姿があった。
「興醒めだな、門脇。遊郭で太刀回りをしようてだけでも野暮の極みだが、その腕じゃあ所詮このおれは斬れんぜ」
欠伸を噛み殺したような風情だったが、その眼光は決して生半可なものではなかった。
門脇たちは竦みあがって後ずさった。
「もうそのくらいにしておけ、東吾。身の程をわきまえぬと、今に大怪我をする。命を粗末にするものではないぞ」
成り行きを見定めていた左馬之介が人垣を掻き分けて進み出ると、門脇は顔色を変えて俯いた。それに反し、取り巻きたちがさざめきはじめる。
「我らが、あの半可者に敵わぬとでもいうのか。門脇、こやつ誰だ? おまえの存じ寄りか」
「……お節介焼きの徒目付、香月左馬之介だ」
徒目付と聞いて、取り巻きたちは絶句した。目付はそもそも、諸侯を厳しく監察する役職である。それと知ってすっかり鳴りを潜めた彼らは、すでに及び腰になっていた。
「持て余す気持ちはわからぬでもないが、これ以上ことを荒立てては家名に傷を付けかねぬぞ。おぬしの父君が此度のことを知れば、なんと思われるか」
「いらぬ世話だ」
左馬之介は穏やかに諭したが、門脇はふいと顔を背けてしまった。
「いつまでも部屋住み〔次男以下で家督を相続できない身分〕のままでは肩身も狭かろう。放蕩三昧に明け暮れるより仕官の口を見つけるが先決ではないか、東吾」
左馬之介は溜め息をついて続ける。
「私も門脇の家を知らぬわけではない。おぬしにその気があるのなら、いかようにも口添えしてやるつもりだ。だから東吾、この場は私に免じて退いてくれぬか」
左馬之介が頭を下げると、門脇はやりづらそうに舌打ちして仲間を促し、渋々退いていった。
門脇たちを見送った左馬之介は、一息ついてから座敷のほうに向き直った。そこにはあでやかなまでに咲き誇る徒花と、それに見劣りしないほど傾いた着流し姿にざんばら髪の浪人者が座していた。
(この男、合いの子か)
一瞥して、まず左馬之介はそう思った。女物であろう鮮やかな色染めの着流しが可笑しなほど似合いすぎる整った顔立ちで、髪や瞳はまれに見る色の薄さだったからである。
男は左馬之介の胸中を察したのか、にやりと口元だけで笑って先に声をかけてきた。
「この辺りじゃあ珍しくもない面構えだろう?」
「……確か、たかむら殿と申されたな。差し出たことをいたしたが、拙者なにぶん廓の慣習には不調法ゆえ、その儀は何卒ご容赦願いたい」
几帳面に会釈する左馬之介の律儀ぶりに、篁という男は鼻を鳴らしていた。すると、彼を窘めるような澄んだ声がした。
「厳いなぶるのはよしなんし、秋さま。お侍さまはこの高砂を助けてくれんした御人ではありんせんか」
左馬之介が誘われるように顔を上げると、徒花が嫣然と微笑んでこちらを見ていた。
「そなた、高砂と申すのか?」
聞いてしまってから、左馬之介ははっとした。太夫ほどの遊女になると、いくら金を積んでも容易には口を利いてもらえないのが廓の常識である。音に聞こえた通例を思い起こして、左馬之介は頭を掻いた。
「すまぬ。これは拙者の不作法であった」
女が、切れ長の美しい目を細めてくすりと小さく笑った。
「……あい。あちきは一文字屋の御職、三代目高砂太夫でありいす。以後よしなにお引き回しくださんせ」
「おいらん!」
そばにいた赤い振り袖姿の利発そうな禿〔遊女につく少女〕が驚いて太夫を制した。だが、すでに初見で太夫に言葉をかけられた左馬之介は羨望の的になっていた。
当の左馬之介はというと、ざわめきの渦中で周囲の思惑とは全く違うことを考えていた。
(侮れぬな、まるで妖女だ。己が原因で太刀回りが起きるかもしれぬ最中でも、ああして唇に笑みを浮かべておったのだから……さすが廓の女は得体の知れぬ化け物よ)
そうしているうちに、篁という赤毛の傾き者は押し殺したように笑って言った。
「どうやらおいらんは、あんたのことが気に入ったようだ。ここはひとつ、おいらんの顔を立てて不粋な仲裁はなかったことにしてやろう」
「かたじけない」
伏し目がちに頭を下げて応えた左馬之介は、気取られぬように相手の表情を探って独りごちた。
(そして、こやつ――悶着のときより女の打掛けの下に潜めた手がぴくりとも動かぬ。恐らく太刀であろうが、先程の眼力といい、座していながら一分の隙も窺わせぬ今といい、只者ではあるまい)
「……秋さま。高砂は、あれほど張りのある御人に会いんしたのは初めてでありんす」
「ほう……おれなど眼の内ではないようだな。惚れたか?」
「おや嬉しい、悋気〔やきもち〕でありいすか?」
二人は生真面目な左馬之介をからかうように笑っている。
「しからば、これにて御免」
左馬之介が改めて会釈すると、今にも閉ざされようとする障子の隙間から妖しげな嘲笑が洩れてきた。
左馬之介は踵を返して顔を上げた。待ち構えていた外記が、彼のもとへ足早に歩み寄ってくる。
「いやはや、驚きましたな。見事に傾いておりましたが、あの気配だけは欺けませぬ」
「外記、おぬしも気付いたか」
「あやつ、よほどの使い手でありましょう。このまま花街に身を沈めさせておくには、いささか惜しい男でござりますな」
感嘆する外記の横で、左馬之介は思い出したように口元を緩めていた。
「……面白い男だ。なぜか彼奴とは初めて目見えた気がせぬわ」
「は?」
訝る外記を伴って、左馬之介はもとの座敷を目指した。
四
「父上、先程のお話の件にござりますが」
左馬之介は座敷に入るなり、鎮座していた父・主税に向かって切りだした。
「私、この腕で太刀を改めてみようと思います」
「なに? 『雲龍』を改める気になったか」
「はい」
穏やかに頷いてみせる息子を見て、主税はにわかに不審そうな顔つきをした。
「しかし……何故急に心変わりいたしたのだ。先刻は、あれほどはっきりと断っていたではないか」
「ご辞退申し上げたときには気付きませなんだが……どうにも、この『風龍』が『雲龍』を欲しているようなのでござります」
左馬之介は己の携えていた太刀を父の前に差し出した。
「わけもなく、先から鍔鳴りがいたしております。私には『風龍』が『雲龍』を呼んでいるように聞こえてなりませぬ」
主税は低く唸って太刀に見入った。
「――う……む、だが鍔鳴りとは不気味だのう。何やら素直には喜べぬわ。左馬、わしは何も斬り合えと申しておるのではない。おまえは大事な香月家の跡取り、万が一のことがあっては、それこそ亡き八重に合わす顔がない」
「何を仰せられます。『雲龍』を改めよとおっしゃったのは父上ではありませぬか」
「それはそうだが」
「ご心配には及びませぬよ、父上。私は決して、父上より先に母上のもとへ参るなどという親不孝はいたしませぬから」
孝行息子は、苦渋に満ちた表情を浮かべる主税を宥めるように目を細めた。
「段取りは、おぬしが整える手筈であったのだろう? 右門」
左馬之介は抜け目なく部屋の隅に控えている右門に問うた。
「左様にござります」
「では、今一度頼む。廓内ではまずかろうから、廓稲荷にて待つことにしよう。外記は父上のおそばを離れるな、半時して戻らねば、父上を役宅へお連れ申すのだ。よいな」
「は!」
平伏する外記を尻目に、左馬之介は立ち上がった。右門が素早く開けた障子に歩み寄る彼を、主税は思わず呼び止めていた。
「左馬之介」
「父上、ご案じ召さりまするな。『雲龍』が鉄屑なれば、私は斬られはいたしませぬ。もし『雲龍』が生きた太刀であっても、恐らく私が斬られることはないでしょう。……なぜだかそんな気がするのです。私の『風龍』が『雲龍』を信じよと申しておるのかもしれませぬな」
手にした太刀を見つめていた左馬之介は肩越しに少し父を振り返り、目顔で会釈の仕草をすると、右門とともに座敷を後にした。
神妙な顔つきで息子の後ろ姿を見送った主税に、そばに控えていた外記がおもむろに訊ねた。
「御前様。此度は何故、若に斯様なお申し出をなされました」
「言った通りだ。奥の法要も済んだし、頃合と思うてな」
主税は、はぐらかすように肩を竦めたが、外記の探るような目が主人を真っ直ぐに射貫いていていた。
「いかにご家宝といえど、太刀を改めよとはお戯れが過ぎましょう。奥方様へのお心遣いには感服いたしますが、御前様が二十余年もその女の忘れ形見を打ち捨てておかれたとも思えませぬ。手前は、穿ちすぎでございましょうか」
眉をひそめ、顔を曇らせる外記に、主税は観念したように溜め息をついた。
「……ずっと、気にかけていたのは、奥だ。わしは約束通り、忘れたふりをしておったがな。田端に高砂の子のことを調べさせた折にわかったのだが、奥は節句ごとに工面した金子を、わしの名を伏せて届けさせていたそうだ。子を育てるには金がかかるから、と言ってな。――わしの思いなど、奥の心にはとても及ばぬ。その奥が、寝ついてすぐに申したのだ。張りつめた糸は、いつか切れるものでございます、とな」
「張りつめた糸、でございますか」
「左馬之介のことだ。あれの気性は鍋島、おぬしも知っての通りだからな」
主税は出ていった息子の姿を追うように、閉ざされた障子の彼方を見つめた。
「奥が、高砂の子のことをどこまで存じておったか、今となっては確かめようもないが、病床で『張りつめた糸を切らぬために親ができることなど高が知れている。もとより、すべてを包み隠さず打ち明けたとて、親を蔑むような子に育てた覚えはない』と胸を張りおった」
「奥方様らしゅうございますな」
「良い女はみな、そうしてわしを置いていく」
主税は遠い目をしたまま、ふと自嘲気味に笑った。
「高砂の子は、どうやら侍として暮らしておるようだが、わしが与えた太刀で罪を犯すようであれば、親としてわしが成敗せねばならぬ。幸い、左様な噂は微塵もなかったが、この丸山で用心棒の真似事をしているそうだ。合いの子ゆえ、この地より外では生きられぬ憐れな子だが、彼奴の人柄を左馬之介ならば見極められようと思うたのだ」
「それで、若に太刀を改めよ、と」
「左馬と高砂の子が目見えて何が変わるとも言えぬが、ただ――それぞれに与えた二振りの太刀が、その答えを知っておるような気がする」
「太刀が、答えを?」
外記が訝しげに問うと、主税は苦笑して目を伏せた。
「あれは、二振りで一対の太刀だ。しかも、持ち主を選ぶ。わしがそれと知ったとき、『風龍』はどこぞへ身を隠し、『雲龍』は鞘から抜けようともしなかった。そのくせ、二人が産まれたときには当然のように揃っておった。嘘ではない、真実の話だ」
「いや、しかし、それはまた面妖な……」
「だが、太刀は左馬と高砂の子を選んだ。わしは、それを信じたい」
「御前様――」
「鍋島、おぬしには気苦労をかけるが、このこと、構えて他言いたすでないぞ。話せば良識を疑われる」
とぼけた台詞を真顔で諭す主税の様子に、外記は用心深く頷いた。
座敷を後にした左馬之介たちが見世の外に出ると、行き交う人波の賑わいがにわかに二人を押し包んだ。切見世の端女郎〔下級の遊女〕たちが客を引く嬌声が、あちこちから聞こえてくる。
その中で、不意に右門が重く口を開いた。
「今更こう申してはなんですが、手前もいささか心苦しゅうございます」
「なんだ右門、父上と結託していたわりには弱腰だな。だが案ずるな、滅多なことで斬られはせぬ」
左馬之介が笑うと、右門はことさら落ち込んだように言った。
「しかし、御前様には詳しく申し上げておりませぬが、手前が聞きつけたところによりますと、かの者はなかなかに腕が立つらしく……」
「うむ、そうかもしれぬな」
右門が言い澱むのを見て、左馬之介は心得たようにそう呟き、廓の喧騒に浸りながら宙を見据えた。
「――若は、かの者をご存じなのですか?」
「いや。ただ……確かめてみたわけではないが、もしやと思う人物は知っておるような気がする」
「若、手前は……」
左馬之介の潔い態度に、右門は溜め息を洩らして俯いた。
「もうよい。どのみち言っても詮無いことであろう。これは元を正せば父上のわだかまりであったが、今はむしろ私自身が会うてみたいと思っておるのだ。『雲龍』の持ち主にな」
「……はい、それでは」
「稲荷で待つ」
一つ頷いてそう言った左馬之介は、そのまま稲荷のほうへ歩き出した。
右門が人波に紛れていく左馬之介の姿を見送っていると、その背に声をかける者がいた。
「三次さんじゃねえかい?」
そう呼ばれた右門が振り向くと、一文字屋の男衆〔廓の喧嘩などを収めたりする用心棒的存在〕が格子から顔を覗かせていた。
「乙吉っつぁん」
「どうしたんだい、あのお侍は。見世にあがってゆかねえなんて、ありゃあおめえさんの知り合いじゃねえのかい」
「……ああ、そうじゃねえんだ。ただ、ちょいと言伝を頼まれてな。ちょうどいいや、乙さん。旦那は来ていなさるだろ」
「おうよ、今日は高砂のおいらんのとこだ」
「そうかい。すまねえが乙さん、どうしても旦那に会いてえって御人が待っていなさるから、廓稲荷まで来ちゃもらえめえかと旦那に言伝てくんねえか」
囁くように言うと、乙吉という男は探るように顔を近づけて声をひそめた。
「わけありかい?」
「……そうらしい。どうだい、頼めるかい」
「待ってな、とにかく話はしてみてやるよ。でも、旦那は面倒臭がりだからなあ。出てきてくださるたぁ限らねえぜ」
男衆はぶつぶつ言いながら奥へ引っ込んでいった。右門は見世の前に一人残り、眉を寄せて仲立ちの乙吉が戻ってくるのを待った。
五
廓のはずれに近くなると、次第に人波も途絶えがちになってきた。辺りは緊迫した雰囲気が漲っている。砂利道には二人分の草履の足音しか響いていない。
「――おい、三次とかいったな。何をそんなに緊張していやがるんだえ」
「いや、何ね……旦那はそうしていなさると、まるで天狗のようだと思いやして」
三次と呼ばれた町人姿の右門の後ろからついてくるのは、身の丈六尺〔約一八二センチ〕、ざんばらの赤毛に朱塗りの鞘を腰に下げた傾き者である。懐手にぞろぞろと歩いているが、相変わらず油断のならない風体だった。
「誤魔化しやがって。そんな格好をしていやがるが、丸山雀〔廓の通をいう〕を気取るにゃあ、ちいっといけ好かねえ気を吐きすぎる」
「とんでもねえ、あっしぁただのごろつきでさぁ」
三次が用心深く応えると、後ろの男は胡散臭げに舌打ちした。
しばらく行くと、稲荷の鳥居が見えてきた。三次は暗がりに向かって低く声をかけた。
「お連れしやした」
「ご苦労」
そう言って現われたのは深編み笠に二本差しの、見るからに家柄の良さそうな侍であった。
傾き者の顔が見る見る不機嫌になった。
「どうしてもてえから、どんな艶っぽい話かと出てきてみりゃ……どこの御大身か知らねえが、おれは男と逢引きする気なんざさらさらねえぜ」
編み笠の若侍は小さく笑って言った。
「それは拙者も同じこと。だが、少々ゆえあって貴殿の腰の物を改めねばならぬのだ」
「寝言は寝て言え。そっちのわけなぞ、おれには関わりない」
「そうはいかぬ。それは我が家の家宝かもしれぬのだ」
「家宝だと?」
傾き者が訝しげに聞き返すと、若侍は軽く頷いて応えた。
「二十余年前に失われて以来、行き方が知れぬ。おぬし、それをどこで手に入れた」
「……さてな。生まれたときから、こいつはおれのもとにある。手に入れたかなどと因縁をつけられちゃあ心外てもんだ」
「では、おぬしの親はどうだ」
「おれは親の顔なぞ知らぬ。天涯孤独の廓育ちよ」
「しからば尚更、是が非でも改めてみなければならぬな」
若侍がそう言うと、傾き者は顎を上げて唇を歪めた。
「どうあっても、やる気かい」
「刀にかけても」
若侍は静かに左手を太刀に添え、いつでも抜き放てるように身構えた。
「こいつを抜くのは本意じゃねえが、そもそも人にものを訊ねるのに顔も拝ませねえてのが気に入らねえな!」
言いながら傾き者は腰を引き、逆手で柄を構えた。その型を見て、若侍は独りごちる。
(――居合いか。それにしても変わった構えだ)
それから若侍は綽然と太刀を抜き放ち、正眼に据えた。気が満ちてくると、傾き者がにやりと笑って声をかけた。
「かなり腕が立つようだが、人を斬ったことはあるのかい?」
「……いや。斬るつもりで構えたのは、これが初めてだ」
すると傾き者はいかにも楽しげに喉を鳴らし、素早く草履を脱ぎ捨てて呟いた。
「――太刀の名は『雲龍』。抜かせるからにゃ、味見ぐらいじゃ済まねえぞ」
相手を睨む目が血走り、いつでも太刀合いが始められる気配が漂ってくる。互いの隙を窺いながら二人は牽制しあって徐々に間合いを詰めていった。
静かな風が流れた。
若侍の体がぴくりと動いた――その刹那、傾き者が手元を閃かせた。それはまさに一瞬の出来事であった。
若侍の編み笠がすっぱりと割れて、ほのかな明かりに端整な顔が浮かび上がる。それと同時に傾き者が唸るような深い溜め息をこぼした。
「……やっぱりあんたか。なぜすんでのところで殺気を散らした? でなけりゃ斬り捨ててやれたのに」
「――言ったはずだ、改めるだけだと」
「ふざけるな、答えになってねえ」
「教えてほしいか」
若侍は笑いながら太刀を下ろして言った。
「この太刀は『風龍』といって、おぬしの太刀とはいわば兄弟なのだ。それゆえ、先刻までこの『風龍』は、父が落とし胤に授けた『雲龍』を欲しておったのだ」
「なんだと?」
「――もとより『雲龍』『風龍』二振りの太刀は、ともに代々我が家に伝わるものであった。拙者の父が廓の女と理無い仲になったおり、子を身籠もった女に父は『雲龍』を与えたのだそうだ」
若侍の言葉に、傾き者はまだ要領を得ない様子であった。
「おぬしは先代高砂太夫の子であろう。なれば拙者の兄上ということになる。どうやら容姿は運良く太夫に似たようだが」
若侍は含み笑いをしつつ穏やかに付け加えた。気勢を削がれた傾き者は、頭を掻きながらぶつぶつ言いだした。
「そういやぁ、おふくろは先様に迷惑がかかるからと、相手の素性を明かさなかったそうだが、贔屓の大尽の中にぁ身分のある某てえ侍がいたと、一文字屋の古株が話してくれたな」
「うむ、恐らくそれが父だ。おぬしが『雲龍』を携えておるのが何よりの証拠」
若侍はいたく満足したように、爽やかな表情で言った。
「ともあれ兄上、ご無礼の段は平にお許し願いたい」
それにはさすがの傾き者も引きつったような声を出した。
「よしてくれ、気色の悪い。おれはあんたに兄貴呼ばわりされる筋合いなんざねえよ」
「では、なんと呼べばいい。たかむら殿か?」
傾き者は居心地悪そうに顔をしかめて若侍を見た。
「おれの名は秋水――篁秋水だ」
「秋水……砥ぎ澄まされた太刀のことか、言い得て妙だ。拙者は香月左馬之介と申す、宜しくな」
「冗談じゃねえ、宜しくなんかしてたまるか」
不貞腐れたように頬を膨らませる秋水の前には、可笑しそうに笑いだした左馬之介の姿があった。
「太夫の膝枕を独り占めとは、たいした色男ぶりだな」
「ああ。おいらんにとって、おれはただの半可者ではないらしいからな」
皮肉をさらりと受け流した男は、喉の奥で含むように笑った。
「おのれ篁、今日という今日は赦さぬ!」
怒りが頂点に達した門脇は、今にも腰の刀を抜こうと身構えた。周囲の女や客たちは斬り合いが始まると見て悲鳴をあげ、逃げ惑う。それでも男のほうは、太夫の膝から一向に起き上がる気配がなかった。
「立て、篁! 今日こそ決着をつけてやるっ」
門脇が喚きながら柄に手を掛けたときだった。
一瞬、ふわりと薄い影がよぎった。刹那、はっとする間もなく、門脇たちは頭の上からあの襦袢を被っていたのである。
「う、うぬっ」
門脇が慌てて襦袢を振り落とすとそこに、太夫の前で臥していた体を起こす傾き者の姿があった。
「興醒めだな、門脇。遊郭で太刀回りをしようてだけでも野暮の極みだが、その腕じゃあ所詮このおれは斬れんぜ」
欠伸を噛み殺したような風情だったが、その眼光は決して生半可なものではなかった。
門脇たちは竦みあがって後ずさった。
「もうそのくらいにしておけ、東吾。身の程をわきまえぬと、今に大怪我をする。命を粗末にするものではないぞ」
成り行きを見定めていた左馬之介が人垣を掻き分けて進み出ると、門脇は顔色を変えて俯いた。それに反し、取り巻きたちがさざめきはじめる。
「我らが、あの半可者に敵わぬとでもいうのか。門脇、こやつ誰だ? おまえの存じ寄りか」
「……お節介焼きの徒目付、香月左馬之介だ」
徒目付と聞いて、取り巻きたちは絶句した。目付はそもそも、諸侯を厳しく監察する役職である。それと知ってすっかり鳴りを潜めた彼らは、すでに及び腰になっていた。
「持て余す気持ちはわからぬでもないが、これ以上ことを荒立てては家名に傷を付けかねぬぞ。おぬしの父君が此度のことを知れば、なんと思われるか」
「いらぬ世話だ」
左馬之介は穏やかに諭したが、門脇はふいと顔を背けてしまった。
「いつまでも部屋住み〔次男以下で家督を相続できない身分〕のままでは肩身も狭かろう。放蕩三昧に明け暮れるより仕官の口を見つけるが先決ではないか、東吾」
左馬之介は溜め息をついて続ける。
「私も門脇の家を知らぬわけではない。おぬしにその気があるのなら、いかようにも口添えしてやるつもりだ。だから東吾、この場は私に免じて退いてくれぬか」
左馬之介が頭を下げると、門脇はやりづらそうに舌打ちして仲間を促し、渋々退いていった。
門脇たちを見送った左馬之介は、一息ついてから座敷のほうに向き直った。そこにはあでやかなまでに咲き誇る徒花と、それに見劣りしないほど傾いた着流し姿にざんばら髪の浪人者が座していた。
(この男、合いの子か)
一瞥して、まず左馬之介はそう思った。女物であろう鮮やかな色染めの着流しが可笑しなほど似合いすぎる整った顔立ちで、髪や瞳はまれに見る色の薄さだったからである。
男は左馬之介の胸中を察したのか、にやりと口元だけで笑って先に声をかけてきた。
「この辺りじゃあ珍しくもない面構えだろう?」
「……確か、たかむら殿と申されたな。差し出たことをいたしたが、拙者なにぶん廓の慣習には不調法ゆえ、その儀は何卒ご容赦願いたい」
几帳面に会釈する左馬之介の律儀ぶりに、篁という男は鼻を鳴らしていた。すると、彼を窘めるような澄んだ声がした。
「厳いなぶるのはよしなんし、秋さま。お侍さまはこの高砂を助けてくれんした御人ではありんせんか」
左馬之介が誘われるように顔を上げると、徒花が嫣然と微笑んでこちらを見ていた。
「そなた、高砂と申すのか?」
聞いてしまってから、左馬之介ははっとした。太夫ほどの遊女になると、いくら金を積んでも容易には口を利いてもらえないのが廓の常識である。音に聞こえた通例を思い起こして、左馬之介は頭を掻いた。
「すまぬ。これは拙者の不作法であった」
女が、切れ長の美しい目を細めてくすりと小さく笑った。
「……あい。あちきは一文字屋の御職、三代目高砂太夫でありいす。以後よしなにお引き回しくださんせ」
「おいらん!」
そばにいた赤い振り袖姿の利発そうな禿〔遊女につく少女〕が驚いて太夫を制した。だが、すでに初見で太夫に言葉をかけられた左馬之介は羨望の的になっていた。
当の左馬之介はというと、ざわめきの渦中で周囲の思惑とは全く違うことを考えていた。
(侮れぬな、まるで妖女だ。己が原因で太刀回りが起きるかもしれぬ最中でも、ああして唇に笑みを浮かべておったのだから……さすが廓の女は得体の知れぬ化け物よ)
そうしているうちに、篁という赤毛の傾き者は押し殺したように笑って言った。
「どうやらおいらんは、あんたのことが気に入ったようだ。ここはひとつ、おいらんの顔を立てて不粋な仲裁はなかったことにしてやろう」
「かたじけない」
伏し目がちに頭を下げて応えた左馬之介は、気取られぬように相手の表情を探って独りごちた。
(そして、こやつ――悶着のときより女の打掛けの下に潜めた手がぴくりとも動かぬ。恐らく太刀であろうが、先程の眼力といい、座していながら一分の隙も窺わせぬ今といい、只者ではあるまい)
「……秋さま。高砂は、あれほど張りのある御人に会いんしたのは初めてでありんす」
「ほう……おれなど眼の内ではないようだな。惚れたか?」
「おや嬉しい、悋気〔やきもち〕でありいすか?」
二人は生真面目な左馬之介をからかうように笑っている。
「しからば、これにて御免」
左馬之介が改めて会釈すると、今にも閉ざされようとする障子の隙間から妖しげな嘲笑が洩れてきた。
左馬之介は踵を返して顔を上げた。待ち構えていた外記が、彼のもとへ足早に歩み寄ってくる。
「いやはや、驚きましたな。見事に傾いておりましたが、あの気配だけは欺けませぬ」
「外記、おぬしも気付いたか」
「あやつ、よほどの使い手でありましょう。このまま花街に身を沈めさせておくには、いささか惜しい男でござりますな」
感嘆する外記の横で、左馬之介は思い出したように口元を緩めていた。
「……面白い男だ。なぜか彼奴とは初めて目見えた気がせぬわ」
「は?」
訝る外記を伴って、左馬之介はもとの座敷を目指した。
四
「父上、先程のお話の件にござりますが」
左馬之介は座敷に入るなり、鎮座していた父・主税に向かって切りだした。
「私、この腕で太刀を改めてみようと思います」
「なに? 『雲龍』を改める気になったか」
「はい」
穏やかに頷いてみせる息子を見て、主税はにわかに不審そうな顔つきをした。
「しかし……何故急に心変わりいたしたのだ。先刻は、あれほどはっきりと断っていたではないか」
「ご辞退申し上げたときには気付きませなんだが……どうにも、この『風龍』が『雲龍』を欲しているようなのでござります」
左馬之介は己の携えていた太刀を父の前に差し出した。
「わけもなく、先から鍔鳴りがいたしております。私には『風龍』が『雲龍』を呼んでいるように聞こえてなりませぬ」
主税は低く唸って太刀に見入った。
「――う……む、だが鍔鳴りとは不気味だのう。何やら素直には喜べぬわ。左馬、わしは何も斬り合えと申しておるのではない。おまえは大事な香月家の跡取り、万が一のことがあっては、それこそ亡き八重に合わす顔がない」
「何を仰せられます。『雲龍』を改めよとおっしゃったのは父上ではありませぬか」
「それはそうだが」
「ご心配には及びませぬよ、父上。私は決して、父上より先に母上のもとへ参るなどという親不孝はいたしませぬから」
孝行息子は、苦渋に満ちた表情を浮かべる主税を宥めるように目を細めた。
「段取りは、おぬしが整える手筈であったのだろう? 右門」
左馬之介は抜け目なく部屋の隅に控えている右門に問うた。
「左様にござります」
「では、今一度頼む。廓内ではまずかろうから、廓稲荷にて待つことにしよう。外記は父上のおそばを離れるな、半時して戻らねば、父上を役宅へお連れ申すのだ。よいな」
「は!」
平伏する外記を尻目に、左馬之介は立ち上がった。右門が素早く開けた障子に歩み寄る彼を、主税は思わず呼び止めていた。
「左馬之介」
「父上、ご案じ召さりまするな。『雲龍』が鉄屑なれば、私は斬られはいたしませぬ。もし『雲龍』が生きた太刀であっても、恐らく私が斬られることはないでしょう。……なぜだかそんな気がするのです。私の『風龍』が『雲龍』を信じよと申しておるのかもしれませぬな」
手にした太刀を見つめていた左馬之介は肩越しに少し父を振り返り、目顔で会釈の仕草をすると、右門とともに座敷を後にした。
神妙な顔つきで息子の後ろ姿を見送った主税に、そばに控えていた外記がおもむろに訊ねた。
「御前様。此度は何故、若に斯様なお申し出をなされました」
「言った通りだ。奥の法要も済んだし、頃合と思うてな」
主税は、はぐらかすように肩を竦めたが、外記の探るような目が主人を真っ直ぐに射貫いていていた。
「いかにご家宝といえど、太刀を改めよとはお戯れが過ぎましょう。奥方様へのお心遣いには感服いたしますが、御前様が二十余年もその女の忘れ形見を打ち捨てておかれたとも思えませぬ。手前は、穿ちすぎでございましょうか」
眉をひそめ、顔を曇らせる外記に、主税は観念したように溜め息をついた。
「……ずっと、気にかけていたのは、奥だ。わしは約束通り、忘れたふりをしておったがな。田端に高砂の子のことを調べさせた折にわかったのだが、奥は節句ごとに工面した金子を、わしの名を伏せて届けさせていたそうだ。子を育てるには金がかかるから、と言ってな。――わしの思いなど、奥の心にはとても及ばぬ。その奥が、寝ついてすぐに申したのだ。張りつめた糸は、いつか切れるものでございます、とな」
「張りつめた糸、でございますか」
「左馬之介のことだ。あれの気性は鍋島、おぬしも知っての通りだからな」
主税は出ていった息子の姿を追うように、閉ざされた障子の彼方を見つめた。
「奥が、高砂の子のことをどこまで存じておったか、今となっては確かめようもないが、病床で『張りつめた糸を切らぬために親ができることなど高が知れている。もとより、すべてを包み隠さず打ち明けたとて、親を蔑むような子に育てた覚えはない』と胸を張りおった」
「奥方様らしゅうございますな」
「良い女はみな、そうしてわしを置いていく」
主税は遠い目をしたまま、ふと自嘲気味に笑った。
「高砂の子は、どうやら侍として暮らしておるようだが、わしが与えた太刀で罪を犯すようであれば、親としてわしが成敗せねばならぬ。幸い、左様な噂は微塵もなかったが、この丸山で用心棒の真似事をしているそうだ。合いの子ゆえ、この地より外では生きられぬ憐れな子だが、彼奴の人柄を左馬之介ならば見極められようと思うたのだ」
「それで、若に太刀を改めよ、と」
「左馬と高砂の子が目見えて何が変わるとも言えぬが、ただ――それぞれに与えた二振りの太刀が、その答えを知っておるような気がする」
「太刀が、答えを?」
外記が訝しげに問うと、主税は苦笑して目を伏せた。
「あれは、二振りで一対の太刀だ。しかも、持ち主を選ぶ。わしがそれと知ったとき、『風龍』はどこぞへ身を隠し、『雲龍』は鞘から抜けようともしなかった。そのくせ、二人が産まれたときには当然のように揃っておった。嘘ではない、真実の話だ」
「いや、しかし、それはまた面妖な……」
「だが、太刀は左馬と高砂の子を選んだ。わしは、それを信じたい」
「御前様――」
「鍋島、おぬしには気苦労をかけるが、このこと、構えて他言いたすでないぞ。話せば良識を疑われる」
とぼけた台詞を真顔で諭す主税の様子に、外記は用心深く頷いた。
座敷を後にした左馬之介たちが見世の外に出ると、行き交う人波の賑わいがにわかに二人を押し包んだ。切見世の端女郎〔下級の遊女〕たちが客を引く嬌声が、あちこちから聞こえてくる。
その中で、不意に右門が重く口を開いた。
「今更こう申してはなんですが、手前もいささか心苦しゅうございます」
「なんだ右門、父上と結託していたわりには弱腰だな。だが案ずるな、滅多なことで斬られはせぬ」
左馬之介が笑うと、右門はことさら落ち込んだように言った。
「しかし、御前様には詳しく申し上げておりませぬが、手前が聞きつけたところによりますと、かの者はなかなかに腕が立つらしく……」
「うむ、そうかもしれぬな」
右門が言い澱むのを見て、左馬之介は心得たようにそう呟き、廓の喧騒に浸りながら宙を見据えた。
「――若は、かの者をご存じなのですか?」
「いや。ただ……確かめてみたわけではないが、もしやと思う人物は知っておるような気がする」
「若、手前は……」
左馬之介の潔い態度に、右門は溜め息を洩らして俯いた。
「もうよい。どのみち言っても詮無いことであろう。これは元を正せば父上のわだかまりであったが、今はむしろ私自身が会うてみたいと思っておるのだ。『雲龍』の持ち主にな」
「……はい、それでは」
「稲荷で待つ」
一つ頷いてそう言った左馬之介は、そのまま稲荷のほうへ歩き出した。
右門が人波に紛れていく左馬之介の姿を見送っていると、その背に声をかける者がいた。
「三次さんじゃねえかい?」
そう呼ばれた右門が振り向くと、一文字屋の男衆〔廓の喧嘩などを収めたりする用心棒的存在〕が格子から顔を覗かせていた。
「乙吉っつぁん」
「どうしたんだい、あのお侍は。見世にあがってゆかねえなんて、ありゃあおめえさんの知り合いじゃねえのかい」
「……ああ、そうじゃねえんだ。ただ、ちょいと言伝を頼まれてな。ちょうどいいや、乙さん。旦那は来ていなさるだろ」
「おうよ、今日は高砂のおいらんのとこだ」
「そうかい。すまねえが乙さん、どうしても旦那に会いてえって御人が待っていなさるから、廓稲荷まで来ちゃもらえめえかと旦那に言伝てくんねえか」
囁くように言うと、乙吉という男は探るように顔を近づけて声をひそめた。
「わけありかい?」
「……そうらしい。どうだい、頼めるかい」
「待ってな、とにかく話はしてみてやるよ。でも、旦那は面倒臭がりだからなあ。出てきてくださるたぁ限らねえぜ」
男衆はぶつぶつ言いながら奥へ引っ込んでいった。右門は見世の前に一人残り、眉を寄せて仲立ちの乙吉が戻ってくるのを待った。
五
廓のはずれに近くなると、次第に人波も途絶えがちになってきた。辺りは緊迫した雰囲気が漲っている。砂利道には二人分の草履の足音しか響いていない。
「――おい、三次とかいったな。何をそんなに緊張していやがるんだえ」
「いや、何ね……旦那はそうしていなさると、まるで天狗のようだと思いやして」
三次と呼ばれた町人姿の右門の後ろからついてくるのは、身の丈六尺〔約一八二センチ〕、ざんばらの赤毛に朱塗りの鞘を腰に下げた傾き者である。懐手にぞろぞろと歩いているが、相変わらず油断のならない風体だった。
「誤魔化しやがって。そんな格好をしていやがるが、丸山雀〔廓の通をいう〕を気取るにゃあ、ちいっといけ好かねえ気を吐きすぎる」
「とんでもねえ、あっしぁただのごろつきでさぁ」
三次が用心深く応えると、後ろの男は胡散臭げに舌打ちした。
しばらく行くと、稲荷の鳥居が見えてきた。三次は暗がりに向かって低く声をかけた。
「お連れしやした」
「ご苦労」
そう言って現われたのは深編み笠に二本差しの、見るからに家柄の良さそうな侍であった。
傾き者の顔が見る見る不機嫌になった。
「どうしてもてえから、どんな艶っぽい話かと出てきてみりゃ……どこの御大身か知らねえが、おれは男と逢引きする気なんざさらさらねえぜ」
編み笠の若侍は小さく笑って言った。
「それは拙者も同じこと。だが、少々ゆえあって貴殿の腰の物を改めねばならぬのだ」
「寝言は寝て言え。そっちのわけなぞ、おれには関わりない」
「そうはいかぬ。それは我が家の家宝かもしれぬのだ」
「家宝だと?」
傾き者が訝しげに聞き返すと、若侍は軽く頷いて応えた。
「二十余年前に失われて以来、行き方が知れぬ。おぬし、それをどこで手に入れた」
「……さてな。生まれたときから、こいつはおれのもとにある。手に入れたかなどと因縁をつけられちゃあ心外てもんだ」
「では、おぬしの親はどうだ」
「おれは親の顔なぞ知らぬ。天涯孤独の廓育ちよ」
「しからば尚更、是が非でも改めてみなければならぬな」
若侍がそう言うと、傾き者は顎を上げて唇を歪めた。
「どうあっても、やる気かい」
「刀にかけても」
若侍は静かに左手を太刀に添え、いつでも抜き放てるように身構えた。
「こいつを抜くのは本意じゃねえが、そもそも人にものを訊ねるのに顔も拝ませねえてのが気に入らねえな!」
言いながら傾き者は腰を引き、逆手で柄を構えた。その型を見て、若侍は独りごちる。
(――居合いか。それにしても変わった構えだ)
それから若侍は綽然と太刀を抜き放ち、正眼に据えた。気が満ちてくると、傾き者がにやりと笑って声をかけた。
「かなり腕が立つようだが、人を斬ったことはあるのかい?」
「……いや。斬るつもりで構えたのは、これが初めてだ」
すると傾き者はいかにも楽しげに喉を鳴らし、素早く草履を脱ぎ捨てて呟いた。
「――太刀の名は『雲龍』。抜かせるからにゃ、味見ぐらいじゃ済まねえぞ」
相手を睨む目が血走り、いつでも太刀合いが始められる気配が漂ってくる。互いの隙を窺いながら二人は牽制しあって徐々に間合いを詰めていった。
静かな風が流れた。
若侍の体がぴくりと動いた――その刹那、傾き者が手元を閃かせた。それはまさに一瞬の出来事であった。
若侍の編み笠がすっぱりと割れて、ほのかな明かりに端整な顔が浮かび上がる。それと同時に傾き者が唸るような深い溜め息をこぼした。
「……やっぱりあんたか。なぜすんでのところで殺気を散らした? でなけりゃ斬り捨ててやれたのに」
「――言ったはずだ、改めるだけだと」
「ふざけるな、答えになってねえ」
「教えてほしいか」
若侍は笑いながら太刀を下ろして言った。
「この太刀は『風龍』といって、おぬしの太刀とはいわば兄弟なのだ。それゆえ、先刻までこの『風龍』は、父が落とし胤に授けた『雲龍』を欲しておったのだ」
「なんだと?」
「――もとより『雲龍』『風龍』二振りの太刀は、ともに代々我が家に伝わるものであった。拙者の父が廓の女と理無い仲になったおり、子を身籠もった女に父は『雲龍』を与えたのだそうだ」
若侍の言葉に、傾き者はまだ要領を得ない様子であった。
「おぬしは先代高砂太夫の子であろう。なれば拙者の兄上ということになる。どうやら容姿は運良く太夫に似たようだが」
若侍は含み笑いをしつつ穏やかに付け加えた。気勢を削がれた傾き者は、頭を掻きながらぶつぶつ言いだした。
「そういやぁ、おふくろは先様に迷惑がかかるからと、相手の素性を明かさなかったそうだが、贔屓の大尽の中にぁ身分のある某てえ侍がいたと、一文字屋の古株が話してくれたな」
「うむ、恐らくそれが父だ。おぬしが『雲龍』を携えておるのが何よりの証拠」
若侍はいたく満足したように、爽やかな表情で言った。
「ともあれ兄上、ご無礼の段は平にお許し願いたい」
それにはさすがの傾き者も引きつったような声を出した。
「よしてくれ、気色の悪い。おれはあんたに兄貴呼ばわりされる筋合いなんざねえよ」
「では、なんと呼べばいい。たかむら殿か?」
傾き者は居心地悪そうに顔をしかめて若侍を見た。
「おれの名は秋水――篁秋水だ」
「秋水……砥ぎ澄まされた太刀のことか、言い得て妙だ。拙者は香月左馬之介と申す、宜しくな」
「冗談じゃねえ、宜しくなんかしてたまるか」
不貞腐れたように頬を膨らませる秋水の前には、可笑しそうに笑いだした左馬之介の姿があった。
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