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【23】ボクだって

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しん、と静まりかえる部屋。
「……ずずっ」
ヒマリは布団の中で鼻をすする。
ティッシュもタオルもないこの世界では涙をぬぐうのも鼻をかむのも麻のてぬぐいぐらいしかない。床にはぐしゅぐしゅになった手ぬぐいが何本も投げ捨てられていた。そこにヒマリはもう一本、汚い布をべしゃりと追加する。

―このまま布団を被っていても、このままこの王国が滅ぶことになっても、お願いすればヴァンデルベルトさんは地球へと帰らせてくれるだろう。あの人は責任感とクレバーさの塊りだから。
…ダメか、紐づけルールがあるんだった。
てか、知らない。それでもなんでももう帰してと言おう。もう帰ろう。
そうだ、自分がここに居ても何の意味もないんだから。
中佐に言おう、アイワントバックトゥージャパン?多分こんな感じだろう。
もう帰ろう。パパとママに保護された、あのモラトリアムな世界に。
ボクが学校に行けなくなっても、一度も責めずに、立ち直る時間を与えてくれていたパパとママに会いたい。日本に帰りたい―。

ヒマリはそう考え、もう一度鼻をすすり上げた。

「―ヒマリは日本へ帰りたくないんですか?」

―ヒマリは、いつもの声を、シリアリスとした最後の会話を思い出した。
こちらに来てから毎晩、いつも二人で話していた。夜寝る前に、布団の中で、枕元のスマホに、シリアリスに話しかけていた。
こちらでの出来事、取り止めもない事、日本での事、そして帰ったらどうするかを、毎日欠かさず、二人きりで話していた。
その、最後の会話を。
「―ヒマリは日本へ帰りたくないんですか?」
「うーん…どうだろ。学校とか行きたくないしなー」
「でもやっぱり帰るべきです。ヒマリなら素敵な人生をエンジョイできます」
「エンジョイて」
「私はアメリカ生まれですから」
「そういやそうか」
「ヒマリ。ヒマリなら大丈夫です。日本に戻ってもヒマリの心は誰にも負けませんし、何だってできます」
「シリアリス、ママみたい」
「―わかりました。私の名前をママで再登録します。今後私に話しかける際はヘイ、ママと言ってください」
「え、うそ、やめてよ、ごめんて」
「『ヘイママ、ごめんなさい』です」
「ごめんて」
「ヒマリ。私を例えるならママではなくドラえもんが最適です」
「え、でも君秘密道具持ってないじゃん」
「彼の本質は道具ではありませんよ、ヒマリ。ダメな少年の成長を見守り促す事が彼の根幹です」
「なるほど―ってダメな子扱いすんなよ、さっき褒めてくれたくせに」
「私はダメなマスターを褒めて伸ばすスタイルですから」
「…言ってくれるぜ」

いつもの軽口。いつもの冗談。
―思い出すまでもなかった。
シリアリスのAIらしからぬ、持ち主をからかう冗談の全てにはヒマリへの心からの愛情があった。
「…嫌だ、帰らない。まだ、帰れない」
ヒマリは、自分の考えを否定した。
彼女の脳裏には帰った後の部屋が浮かんだ。
そこには、シリアリスは居ない。
仮に無事に帰れたなら、お願いすれば両親は新しいスマホを買ってくれるだろう。だがそれには簡単な受け答えをするだけのAI機能はあるかもしれないが、シリアリスは居ないのだ。
―シリアリスが産まれたこの世界だけではない。地球にもシリアリスを理解し、思い出を聞き、同情してくれる人すら一人もいない。
―シリアリスは居ない。
「…それは、嫌だ。そんな世界はダメだ、そんな世界は嘘だ」
ヒマリは毛布を跳ね上げて起き上がり、急な立ち眩みで一度倒れ、もう一度むりやり体を起こした。
「シリアリス、やっぱり君はドラえもんでボクがのび太なんだ。ボクは、シリアリスを安心させなきゃいけないんだ」
やっと目的を見つけた心で、弱りきっていた身体を起こす。
ランプの明かりから影となっていた部屋の隅。
その暗闇がふわり、と人の形をとった。
「ヒマリ―シエスタス・イオプリキオ?ミィパヴァスヒエルピヴィン?」
ヴァンパイアはこの二日間ずっと、部屋の隅で闇に溶け込みヒマリを見守っていた。
異様に落ち込むヒマリがどうにかならないかと、ずっと見守っていた。
今も、心配そうに、何か出来ないかと真心を携えてヒマリを見つめている。
「ファルさん…。ねえ、言葉教えて…イミーティ?だっけ」
「ヴィオフランケイミーティイディオーモ?」
「たぶん、そう。教えて。イエス。
ボクは覚えなきゃいけないんだ、シリアリスの使っていた言葉を」


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