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幕間 カバネル公爵家長男スタン
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スタンが初恋に落ちたのは五歳のときだった。
初めから報われない恋だとわかっていた。そもそも報われてはいけない恋だった。
カバネル公爵家長男の想い人は、従兄であり国王でもあるニコライの婚約者、隣国ボワイエ王国の王女ロメーヌ姫だったのだから。
「ロメーヌ姫ってどんな子だった?」
その日、スタンは隣国から戻って来たニコライに尋ねた。
国王である従兄は二年前、五歳のとき即位すると同時に婚約した少女に日帰りで会いに行ったところだった。ボワイエ王国の城で彼女の誕生パーティがあったのだ。
ニコライが即位したとはいえ、ベルナール王国のすべてを掌握出来たわけではない。国王不在の時間は短ければ短いほど良かった。
その後もずっと、ニコライが隣国に宿泊することはなかった。
「君と同い年なのに、すごく子どもっぽかったよ。いや、違うな。同じ五歳なのに君が大人びているだけだな」
「可愛げがないっていうんでしょ? よく言われるよ。でも僕がしっかりしないと、あの男がなにを仕出かすかわからないからね」
父親のカバネル公爵が反乱を起こして処罰を受ければ、スタンと母親も巻き添えになる。家臣達や母の実家の侯爵家も連座させられるかもしれない。
逆に父親の野望が成就して、従兄のニコライがいなくなるのも嫌だった。
ニコライが笑う。
「私も七歳にしては可愛げがないと言われているよ」
「ニコライだって国王なんだから、しっかりしないといけないんじゃん。大人が勝手なことを言い過ぎなんだよ」
「ははは、そうだな」
「ロメーヌ姫が子どもっぽいって、どんなところが?」
「んー……私が生まれてすぐに母を亡くしたと聞いて、彼女は泣いてしまったんだ。それからずっと私の側にいて離れなかった。小さな手で私の手をギュッと握ってね……どうやら慰めてくれていたつもりらしい」
「ふうん……」
くすんだ赤い髪は冬の暖炉で燃える炎のように温かく、暗い青色の瞳は夏の短い夜と長い昼の狭間の空の色、流れる涙は月光の雫のよう──従兄の話を聞いているうちに、ロメーヌ姫の姿が見えてきた。
後にして思えば、ニコライがロメーヌ姫について熱く語ったのはこのときだけだった。
以降は簡単な報告だけになる。
(恋をしたからだよね)
ニコライ本人は気づいていなかったけれど、スタンは気づいていた。
ふたつ年下の婚約者に恋をした従兄は、記憶の中の彼女を独り占めしたかったのだ。彼が体を鍛えたのは、護衛なしで隣国へ行く許可を重臣達から得るためだろう。
ときどきニコライは、おとなしいロメーヌ姫に王妃の役目が務まるのだろうか、彼女はボワイエ王国で家族に愛されて生きていくほうが良いのではないか、などと口にした。しかしスタンが、
「そうだね。生まれ育った国で家臣に降嫁したほうが幸せかもね」
とからかえば、彼はすぐに黙りこくった。
いつもの眉間の皺が深くなり、明らかに不機嫌になった。
彼女が自分以外を選ぶなんてあり得ない、あるはずがないと思っていた証拠だ。
恋に落ちたばかりの従兄から彼の心の中の煌めく少女を語られたときから、スタンの心には彼女が住み着いてしまった。
ニコライの簡素な報告を聞いただけで、その場面が蘇るほど、スタンの中のロメーヌ姫は鮮やかだった。
もちろん、だれにも打ち明ける気のない想いだ。従兄の話を聞くだけで勝ち目がないと悟っていた。ロメーヌ姫は婚約者のニコライに恋をしていた。だからこそ、彼の瞳に映る彼女は輝いているのだ。
(ロメーヌ姫が嫁いで来たらどうしよう)
実際の彼女を見たとき、自分がどんな反応を示すのかが不安だった。
膨らませ過ぎた幻が破裂してがっかりするのだろうか。あるいは幻以上に愛しく感じて、自分を抑えられなくなってしまうのか……スタンは、父親のようにはなりたくなかった。
従兄のニコライは知らないけれど、カバネル公爵夫人マノン、スタンの母親は先代国王の婚約者だったのだ。
と言っても、父親が兄からマノンを奪ったわけではない。
先代国王が身分の低い女性、ニコライの母后と恋に落ちてマノンとの婚約を破棄した後、彼女の実家である侯爵家とのつながりを失いたくない王家と重臣が弟王子との縁談をねじ込んだのだ。
弟王子と婚約破棄された侯爵令嬢の婚約成立後、兄王子の言動に悩まされていた先々代の国王夫妻は早くにこの世を去った。
両親が政略結婚なのは間違いないけれど、スタンは父親が妻を愛していることを知っていた。
繰り返される浮気は、マノンの苦しむ姿を見て愛されていることを確認するためだ。
スタンには多くの異母弟妹がいるが、年の離れた同母弟もいた。
先代国王の婚約破棄は父親の陰謀だったのではないかと、スタンは疑っている。
父親が王位を求めているのは、妻の心が元婚約者にあるのだと思い込んでいるからではないだろうか。亡兄と同じ国王にならなければ、完全に妻を手に入れられないと信じているのではないのかと、スタンは考えていた。
なにしろ父親は、生まれたときは別の名前だった長男を妻が愛し気に呼ぶのに嫉妬して、自分と同じ名前に変えさせたほど彼女への恋に狂っているのだから。
(あんな風にはなりたくないな)
息子の目から見れば、母親のマノンが夫を愛しているのは明らかだった。
少し壁があるとすれば、彼女もスタンと同じように先代国王との婚約破棄が夫となった弟王子の陰謀だったのではないかと疑っているからだろう。
婚約破棄後の先代国王とニコライの母后が幸せそうだったという話は聞かない。だれもがニコライの耳にだけは入れないよう気を付けている昔話だ。最後の瞬間の先代国王が、マノンの名前を呼んだことも従兄には秘密だった。
スタンは嫁いできた彼女への恋心が抑えられないようなら、なんらかの強硬手段を取ってでも父親を排除して同母弟にカバネル公爵家を譲って出奔するつもりだった。
ロメーヌ姫はニコライを愛している。会ったこともない男の想いなど邪魔なだけだ。
だけど──
「……そうだったんだ」
隣国からロメーヌ姫の葬儀の知らせが届き、ニコライにモーヴェとの浮気を告白されたとき、スタンはほかに言葉を出せなかった。
従兄が自分自身の気持ちに気づいていないことは知っていた。それとなく言っても、彼は認めず不機嫌になった。
物語のような恋に憧れていたニコライは、周囲にお膳立てされた政略結婚の相手に恋したことを受け入れられなかったのだろう。
それでも結婚すれば、表に穏やかな愛情が出ているだけで、確かにロメーヌ姫に恋しているのだとニコライ自身が気づく日が来るのだろうと思っていたのに。
モーヴェとの不実の恋は黙っていたけれど、ニコライは従兄弟として仕事仲間としてスタンを信頼してくれている。友達だとも思っていてくれているかもしれない。
スタンは、葬儀を済ませたロメーヌ姫が隣国の聖獣の世話係になったことを教えられた。
(ただの婚約破棄なら、クソ親父のときみたいに僕との縁談を持ち込めたかもしれないけど、ロメーヌ姫ってば自分が死んだことにしてまで陛下への想いを貫き通すんだもんなあ)
少し残念で、それでいて一途に従兄を想う彼女を眩しく感じた。
ニコライとモーヴェの結婚から一年弱、従兄の命が危うくなるまで、スタンはロメーヌ姫と会うことはなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「わー、ロメーヌ姫だ!」
聖獣の住まう迷いの森で彼女と出会った瞬間、十五歳で成人してから従兄ニコライとふたりのとき以外は隠していた素の自分が溢れ出た。口元が緩むのがわかる。
嬉しくてたまらないのに胸が痛い。呼吸ができない。
スタンの心の中だけの幻のような恋は、その瞬間鮮やかに煌めいて実体を得た。
初めから報われない恋だとわかっていた。そもそも報われてはいけない恋だった。
カバネル公爵家長男の想い人は、従兄であり国王でもあるニコライの婚約者、隣国ボワイエ王国の王女ロメーヌ姫だったのだから。
「ロメーヌ姫ってどんな子だった?」
その日、スタンは隣国から戻って来たニコライに尋ねた。
国王である従兄は二年前、五歳のとき即位すると同時に婚約した少女に日帰りで会いに行ったところだった。ボワイエ王国の城で彼女の誕生パーティがあったのだ。
ニコライが即位したとはいえ、ベルナール王国のすべてを掌握出来たわけではない。国王不在の時間は短ければ短いほど良かった。
その後もずっと、ニコライが隣国に宿泊することはなかった。
「君と同い年なのに、すごく子どもっぽかったよ。いや、違うな。同じ五歳なのに君が大人びているだけだな」
「可愛げがないっていうんでしょ? よく言われるよ。でも僕がしっかりしないと、あの男がなにを仕出かすかわからないからね」
父親のカバネル公爵が反乱を起こして処罰を受ければ、スタンと母親も巻き添えになる。家臣達や母の実家の侯爵家も連座させられるかもしれない。
逆に父親の野望が成就して、従兄のニコライがいなくなるのも嫌だった。
ニコライが笑う。
「私も七歳にしては可愛げがないと言われているよ」
「ニコライだって国王なんだから、しっかりしないといけないんじゃん。大人が勝手なことを言い過ぎなんだよ」
「ははは、そうだな」
「ロメーヌ姫が子どもっぽいって、どんなところが?」
「んー……私が生まれてすぐに母を亡くしたと聞いて、彼女は泣いてしまったんだ。それからずっと私の側にいて離れなかった。小さな手で私の手をギュッと握ってね……どうやら慰めてくれていたつもりらしい」
「ふうん……」
くすんだ赤い髪は冬の暖炉で燃える炎のように温かく、暗い青色の瞳は夏の短い夜と長い昼の狭間の空の色、流れる涙は月光の雫のよう──従兄の話を聞いているうちに、ロメーヌ姫の姿が見えてきた。
後にして思えば、ニコライがロメーヌ姫について熱く語ったのはこのときだけだった。
以降は簡単な報告だけになる。
(恋をしたからだよね)
ニコライ本人は気づいていなかったけれど、スタンは気づいていた。
ふたつ年下の婚約者に恋をした従兄は、記憶の中の彼女を独り占めしたかったのだ。彼が体を鍛えたのは、護衛なしで隣国へ行く許可を重臣達から得るためだろう。
ときどきニコライは、おとなしいロメーヌ姫に王妃の役目が務まるのだろうか、彼女はボワイエ王国で家族に愛されて生きていくほうが良いのではないか、などと口にした。しかしスタンが、
「そうだね。生まれ育った国で家臣に降嫁したほうが幸せかもね」
とからかえば、彼はすぐに黙りこくった。
いつもの眉間の皺が深くなり、明らかに不機嫌になった。
彼女が自分以外を選ぶなんてあり得ない、あるはずがないと思っていた証拠だ。
恋に落ちたばかりの従兄から彼の心の中の煌めく少女を語られたときから、スタンの心には彼女が住み着いてしまった。
ニコライの簡素な報告を聞いただけで、その場面が蘇るほど、スタンの中のロメーヌ姫は鮮やかだった。
もちろん、だれにも打ち明ける気のない想いだ。従兄の話を聞くだけで勝ち目がないと悟っていた。ロメーヌ姫は婚約者のニコライに恋をしていた。だからこそ、彼の瞳に映る彼女は輝いているのだ。
(ロメーヌ姫が嫁いで来たらどうしよう)
実際の彼女を見たとき、自分がどんな反応を示すのかが不安だった。
膨らませ過ぎた幻が破裂してがっかりするのだろうか。あるいは幻以上に愛しく感じて、自分を抑えられなくなってしまうのか……スタンは、父親のようにはなりたくなかった。
従兄のニコライは知らないけれど、カバネル公爵夫人マノン、スタンの母親は先代国王の婚約者だったのだ。
と言っても、父親が兄からマノンを奪ったわけではない。
先代国王が身分の低い女性、ニコライの母后と恋に落ちてマノンとの婚約を破棄した後、彼女の実家である侯爵家とのつながりを失いたくない王家と重臣が弟王子との縁談をねじ込んだのだ。
弟王子と婚約破棄された侯爵令嬢の婚約成立後、兄王子の言動に悩まされていた先々代の国王夫妻は早くにこの世を去った。
両親が政略結婚なのは間違いないけれど、スタンは父親が妻を愛していることを知っていた。
繰り返される浮気は、マノンの苦しむ姿を見て愛されていることを確認するためだ。
スタンには多くの異母弟妹がいるが、年の離れた同母弟もいた。
先代国王の婚約破棄は父親の陰謀だったのではないかと、スタンは疑っている。
父親が王位を求めているのは、妻の心が元婚約者にあるのだと思い込んでいるからではないだろうか。亡兄と同じ国王にならなければ、完全に妻を手に入れられないと信じているのではないのかと、スタンは考えていた。
なにしろ父親は、生まれたときは別の名前だった長男を妻が愛し気に呼ぶのに嫉妬して、自分と同じ名前に変えさせたほど彼女への恋に狂っているのだから。
(あんな風にはなりたくないな)
息子の目から見れば、母親のマノンが夫を愛しているのは明らかだった。
少し壁があるとすれば、彼女もスタンと同じように先代国王との婚約破棄が夫となった弟王子の陰謀だったのではないかと疑っているからだろう。
婚約破棄後の先代国王とニコライの母后が幸せそうだったという話は聞かない。だれもがニコライの耳にだけは入れないよう気を付けている昔話だ。最後の瞬間の先代国王が、マノンの名前を呼んだことも従兄には秘密だった。
スタンは嫁いできた彼女への恋心が抑えられないようなら、なんらかの強硬手段を取ってでも父親を排除して同母弟にカバネル公爵家を譲って出奔するつもりだった。
ロメーヌ姫はニコライを愛している。会ったこともない男の想いなど邪魔なだけだ。
だけど──
「……そうだったんだ」
隣国からロメーヌ姫の葬儀の知らせが届き、ニコライにモーヴェとの浮気を告白されたとき、スタンはほかに言葉を出せなかった。
従兄が自分自身の気持ちに気づいていないことは知っていた。それとなく言っても、彼は認めず不機嫌になった。
物語のような恋に憧れていたニコライは、周囲にお膳立てされた政略結婚の相手に恋したことを受け入れられなかったのだろう。
それでも結婚すれば、表に穏やかな愛情が出ているだけで、確かにロメーヌ姫に恋しているのだとニコライ自身が気づく日が来るのだろうと思っていたのに。
モーヴェとの不実の恋は黙っていたけれど、ニコライは従兄弟として仕事仲間としてスタンを信頼してくれている。友達だとも思っていてくれているかもしれない。
スタンは、葬儀を済ませたロメーヌ姫が隣国の聖獣の世話係になったことを教えられた。
(ただの婚約破棄なら、クソ親父のときみたいに僕との縁談を持ち込めたかもしれないけど、ロメーヌ姫ってば自分が死んだことにしてまで陛下への想いを貫き通すんだもんなあ)
少し残念で、それでいて一途に従兄を想う彼女を眩しく感じた。
ニコライとモーヴェの結婚から一年弱、従兄の命が危うくなるまで、スタンはロメーヌ姫と会うことはなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「わー、ロメーヌ姫だ!」
聖獣の住まう迷いの森で彼女と出会った瞬間、十五歳で成人してから従兄ニコライとふたりのとき以外は隠していた素の自分が溢れ出た。口元が緩むのがわかる。
嬉しくてたまらないのに胸が痛い。呼吸ができない。
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