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……おかしい、まだ早い。
塔に軟禁されていた私は、先触れもなしに訪れた血塗れの夫を見て首を傾げた。
夫といっても抱き合ったことはない。婚約を破棄される前に、何度かキスをしたくらいだ。彼の、エドワード陛下の寵愛を受けるのは私の役目ではない。
「……ユーフェミア……」
今にも涙をこぼしそうな緑色の瞳が私を映す。
開いた扉の向こうには、困惑した表情の衛兵達がいる。彼らが傷ついた様子はない。
エドワード陛下にも傷はないようだ。どうやら彼が浴びているのは返り血。つまり彼と衛兵達は争っていない。彼はまだ国王、衛兵達は逆らえない。
「どうなさいましたの、陛下。……どうぞお座りください。お茶を淹れますわ。さあ、そんな物騒なものなど衛兵にお預けになって」
「あ、ああ」
私はエドワード陛下にソファを勧めた。
塔で軟禁といっても、彼の力を高める私と離縁するわけにはいかない。公務に関わらないだけで王妃としての尊厳は守られている。書類仕事もしているし、部屋の中は王妃が生活するのに相応しく設えられていた。
陛下が手にしていた血塗れの剣を受け取り、廊下の衛兵達に託す。いや、達ではない。ふたりいた衛兵のひとりは宮殿へ報告しに行ったようだ。
……なにが起こったのだろうか?
まだ早い。まだ数ヶ月は早い。
エドワード陛下が玉座を追われるのは大公家のご嫡男、今は大公家を継いでいる彼の従弟が十八歳になり、聖印を受けて力を芽生えさせてからのはずだ。貴族の嫡子なら三人にふたりは父と同じ力を持つ。先代国王陛下の弟君は兄君や父君と同じ、エドワード陛下とも同じ結界を張る力を持っていた。
王妃のために設えられているとはいえ、形の上では罪人なので侍女まではいない。
私はお茶を淹れるために沸かしたお湯を少し取って、布を湿らせた。
ソファの上で震えているエドワード陛下に湿らせた布を渡す。金糸銀糸で刺繍をされた豪奢な服に染み込んだ血はどうしようもないけれど、顔や手にこびり付いたものは拭き取れるだろう。
「……ありがとう。そなたはいつも私を助けてくれるな。この一年間も、顔こそ合わせないでいたがそなたの力が私を助けてくれていた」
私は、エドワード陛下に気づかれないように自分の手を見た。
指に嵌められた結婚指輪が、神が結んだ婚姻の絆を彼との間につなげている。
返された汚れた布は水を張った桶に漬け、自分の手を洗ってお茶を用意する。立ち昇る芳香が暴れ出したくなる気持ちを鎮めてくれた。……まだよ、まだ早い。今は偽りを続けるべきとき。
私は陛下の向かいに腰かけた。
自分の茶器から立ち昇る湯気越しに彼を見つめる。
お茶を飲んで落ち着いたらしいエドワード陛下に対して口を開く。
「なにがあったのかお聞かせ願えますか?」
「……ミセリアが、私以外の男と……」
「まあ! それで私をお疑いになって?」
ミセリアは男好きというわけではない。
おそらく相手の男には恋人がいたのだろう。だれかを不幸にするためなら、ミセリアは簡単に自分の体を開く。私からエドワード陛下を奪ったときもそうだった。
彼は頭を横に振る。
「違う! 違うのだ。私は……ずっと騙されていた。偽りの中で生きていたのだ。本当はそなたがミセリアに害を加えたことなどないのだろう?」
「エドワード陛下がそうお思いならば……」
私は言葉を濁した。
まだだ、まだ早い。まだ偽りを終わらせていいときではない。
ああ、後何ヶ月残っていただろう。心の中で暦を手繰りかけて、私は気づいた。彼の血でも衛兵達の血でもないのなら、あの血はだれのものだったのか。
「……陛下? それでミセリアはどうなったのですか?」
エドワード陛下は私から視線を逸らした。
「……死んだ」
剣から滴っていたのはあの娘の血だったの?
思わず私は立ち上がり、後ずさった。
陛下も立ち上がって、私に手を伸ばす。
間にあったテーブルが押されてひっくり返り、茶器が床に転がった。エドワード陛下の腕が私の肩を掴む。
「彼女が私を裏切ったからいけないのだ! いいや、あの女は最初から私を愛してなどいなかった。そなたを不幸にするために私を奪ったのだ。そなたは私を裏切ってはいないのだろう? ずっと私を愛し続けてくれていたのだろう? これからも支えてくれるのだろう?」
国王陛下が寵愛していた平民の娘に浮気され、嫉妬で殺してしまったくらいは大したことではない。彼女は貴族の庶子だったが、父親も文句は言わないだろう。
だって今は彼以外、エドワード陛下以外には王になれるものがいないのだ。
彼がいなくなればこの国は魔獣の大氾濫に飲み込まれてしまう。私が彼を拒めば、彼の力は弱まり結界に不備が出る。まだ駄目だ、まだ偽りを終えるときではない。
だけど……っ!
「おやめくださいっ!」
私は、自分を引き寄せて唇を重ねようとするエドワード陛下を突き飛ばした。
「……ユーフェミア。そなたも私を愛してはいないのか?」
光を失った緑色の瞳が虚ろに私を映す。
意志のない人形では駄目なのだ。
聖印を受けて芽生える力は、人間の意思によって発動する。エドワード陛下を絶望に落としてはいけない。愛し愛されているのだという偽りで包んで、この国を守りたいと思わせなければいけない。
だけど私の心が求めるのは、黒髪に青い瞳の──
塔に軟禁されていた私は、先触れもなしに訪れた血塗れの夫を見て首を傾げた。
夫といっても抱き合ったことはない。婚約を破棄される前に、何度かキスをしたくらいだ。彼の、エドワード陛下の寵愛を受けるのは私の役目ではない。
「……ユーフェミア……」
今にも涙をこぼしそうな緑色の瞳が私を映す。
開いた扉の向こうには、困惑した表情の衛兵達がいる。彼らが傷ついた様子はない。
エドワード陛下にも傷はないようだ。どうやら彼が浴びているのは返り血。つまり彼と衛兵達は争っていない。彼はまだ国王、衛兵達は逆らえない。
「どうなさいましたの、陛下。……どうぞお座りください。お茶を淹れますわ。さあ、そんな物騒なものなど衛兵にお預けになって」
「あ、ああ」
私はエドワード陛下にソファを勧めた。
塔で軟禁といっても、彼の力を高める私と離縁するわけにはいかない。公務に関わらないだけで王妃としての尊厳は守られている。書類仕事もしているし、部屋の中は王妃が生活するのに相応しく設えられていた。
陛下が手にしていた血塗れの剣を受け取り、廊下の衛兵達に託す。いや、達ではない。ふたりいた衛兵のひとりは宮殿へ報告しに行ったようだ。
……なにが起こったのだろうか?
まだ早い。まだ数ヶ月は早い。
エドワード陛下が玉座を追われるのは大公家のご嫡男、今は大公家を継いでいる彼の従弟が十八歳になり、聖印を受けて力を芽生えさせてからのはずだ。貴族の嫡子なら三人にふたりは父と同じ力を持つ。先代国王陛下の弟君は兄君や父君と同じ、エドワード陛下とも同じ結界を張る力を持っていた。
王妃のために設えられているとはいえ、形の上では罪人なので侍女まではいない。
私はお茶を淹れるために沸かしたお湯を少し取って、布を湿らせた。
ソファの上で震えているエドワード陛下に湿らせた布を渡す。金糸銀糸で刺繍をされた豪奢な服に染み込んだ血はどうしようもないけれど、顔や手にこびり付いたものは拭き取れるだろう。
「……ありがとう。そなたはいつも私を助けてくれるな。この一年間も、顔こそ合わせないでいたがそなたの力が私を助けてくれていた」
私は、エドワード陛下に気づかれないように自分の手を見た。
指に嵌められた結婚指輪が、神が結んだ婚姻の絆を彼との間につなげている。
返された汚れた布は水を張った桶に漬け、自分の手を洗ってお茶を用意する。立ち昇る芳香が暴れ出したくなる気持ちを鎮めてくれた。……まだよ、まだ早い。今は偽りを続けるべきとき。
私は陛下の向かいに腰かけた。
自分の茶器から立ち昇る湯気越しに彼を見つめる。
お茶を飲んで落ち着いたらしいエドワード陛下に対して口を開く。
「なにがあったのかお聞かせ願えますか?」
「……ミセリアが、私以外の男と……」
「まあ! それで私をお疑いになって?」
ミセリアは男好きというわけではない。
おそらく相手の男には恋人がいたのだろう。だれかを不幸にするためなら、ミセリアは簡単に自分の体を開く。私からエドワード陛下を奪ったときもそうだった。
彼は頭を横に振る。
「違う! 違うのだ。私は……ずっと騙されていた。偽りの中で生きていたのだ。本当はそなたがミセリアに害を加えたことなどないのだろう?」
「エドワード陛下がそうお思いならば……」
私は言葉を濁した。
まだだ、まだ早い。まだ偽りを終わらせていいときではない。
ああ、後何ヶ月残っていただろう。心の中で暦を手繰りかけて、私は気づいた。彼の血でも衛兵達の血でもないのなら、あの血はだれのものだったのか。
「……陛下? それでミセリアはどうなったのですか?」
エドワード陛下は私から視線を逸らした。
「……死んだ」
剣から滴っていたのはあの娘の血だったの?
思わず私は立ち上がり、後ずさった。
陛下も立ち上がって、私に手を伸ばす。
間にあったテーブルが押されてひっくり返り、茶器が床に転がった。エドワード陛下の腕が私の肩を掴む。
「彼女が私を裏切ったからいけないのだ! いいや、あの女は最初から私を愛してなどいなかった。そなたを不幸にするために私を奪ったのだ。そなたは私を裏切ってはいないのだろう? ずっと私を愛し続けてくれていたのだろう? これからも支えてくれるのだろう?」
国王陛下が寵愛していた平民の娘に浮気され、嫉妬で殺してしまったくらいは大したことではない。彼女は貴族の庶子だったが、父親も文句は言わないだろう。
だって今は彼以外、エドワード陛下以外には王になれるものがいないのだ。
彼がいなくなればこの国は魔獣の大氾濫に飲み込まれてしまう。私が彼を拒めば、彼の力は弱まり結界に不備が出る。まだ駄目だ、まだ偽りを終えるときではない。
だけど……っ!
「おやめくださいっ!」
私は、自分を引き寄せて唇を重ねようとするエドワード陛下を突き飛ばした。
「……ユーフェミア。そなたも私を愛してはいないのか?」
光を失った緑色の瞳が虚ろに私を映す。
意志のない人形では駄目なのだ。
聖印を受けて芽生える力は、人間の意思によって発動する。エドワード陛下を絶望に落としてはいけない。愛し愛されているのだという偽りで包んで、この国を守りたいと思わせなければいけない。
だけど私の心が求めるのは、黒髪に青い瞳の──
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