一昨日のキス、明日にキス

豆狸

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47・三度目のX年7月15日

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(……約束、したのに)

 校門を出た菜乃花は、携帯を鞄に入れて駅の方角へと歩き出した。
 自宅とは逆の方向だ。
 さっきまで見つめていた携帯には、旭からのメールが保存されている。
 昨夜交換した『おやすみ』というメール。つき合っていても、つき合っていなかったときと同じそっけないメールだ。それでも菜乃花には宝物だった。
 今は火曜日の放課後。
 旭も八木も学校には来なかった。
 何度かメールを送ったが、返信はない。
 電話はすぐに留守番電話に変わる。
 約束したのだから、彼が危険な行動を取ることはないと思いたかったけれど、さっき教室で佐々木に聞いた。旭は学校をサボって繁華街へ行き、映画館の裏で脱法ハーブの売人らしき男に殴られているところを目撃されていた。
 一体なにがあったのか。彼の身になにが起こっているのか。
 どうして菜乃花に相談してくれなかったのか。
 菜乃花にはなにもわからない。
 ただ前と同じ結末を迎えるのではないかと思うと、心臓が潰れそうだった。
 佐々木には止められたものの、これから映画館へ行って旭の行方を尋ねてみようと思っている。できるならば、旭本人を探して事情を聞きたい。

「……佐藤部長」

 歩いていた菜乃花を呼び止める声がした。

「類くん……?」
「制服での寄り道は校則違反ですよ。それに……僕、冴島さんに言われてるんです。危ないから、部長が繁華街へ行かないよう止めてくれって」
「旭くんが?」
「ええ。今朝、校門の前で捕まって頼まれたんです。あの人はそのまま自転車で、繁華街のほうへと向かいましたけどね」
「どうして……」
「佐藤部長はすごく自分を心配してたから、学校に来なかったら繁華街の裏通りまで探しに来るんじゃないかって、あの人、不安そうでした」
「だったら、ちゃんと話してくれたらいいのに……」

 唇を噛んで俯いた菜乃花に、長身の類の影が落ちる。

「僕も詳しい事情は聞いてませんが、今夜ちゃんと電話で説明するって言伝を頼まれました。……部長、帰りましょう。どうしたって、繁華街へは行かせませんよ。抵抗するようなら、小林先輩を呼びます。部長が冴島さんを探して裏通りへ行くなんて聞いたら、先輩、きっとふたりのつき合いを反対しますよ」
「そんなの……」

 弥生のことは大好きだが、彼女に反対されても旭への気持ちは変わらない。
 変わらないけれど、親友に祝福されないのは辛かった。

「大体、部長が行ってどうなるんです? あの人が危険に巻き込まれているのなら、部長が行っても役に立てないでしょう。いくら『漫研の裏番』と噂されていても、部長は普通の女の子なんです。危険な場所に行っても役に立つどころか足手纏いでしょう」
「……類くん、その噂知ってたんだね」
「……僕が本当に『メデューサ』で石化能力を持っていたら、部長に同行して守ってあげますけど。残念ながら、漫画家志望の文化系なので」
「あ! 類くん、原稿! 学校じゃないと描けないんでしょう? こんなことしてて大丈夫なの?」
「心配してくれて、ありがとうございます。……でもね、佐藤部長。部長を裏通りへ行かせてなにかあったら、僕もう原稿描けませんよ。トラウマになります。原稿の白いところを文字や模様で埋めてもらえなくなりますしね」
「……ゴメン」

 類の言うことはもっともだった。
 菜乃花が裏通りへ行って旭を見つけたとしても、なにもできない。
 約束を破ってまでの行動だ。なにかどうしようもない理由があるのだろう。

「……旭くん、今夜電話してくれるの?」
「そう言ってました。からくり時計が終わる前には連絡すると。だから……それまでは約束破りを許してくれって」
「うん……わかった。伝言ありがとう、家へ帰るね」
「あ、待ってください」

 菜乃花は踵を返し、家へと歩き出した。
 素直に旭からの電話を待つつもりだったのだが、心配だからと言って、類が家まで送ってくれることになった。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 授業が終わるなり佐々木を問い詰めて、漫研の部室にも寄らず校門へ向かったので、空はまだ青い。夜は遠かった。
 同じ高校に通う帰宅部の生徒たちが、ちらほらと辺りに見える。

「……そういえば類くんって、旭くんと仲が良かったの?」
「……そうですね。移動教室のときなんかに顔を合わせたら、思わず睨み合いするくらいの仲ですよ」

 それは仲が良いのか悪いのか。
 首を傾げる菜乃花に、類が言葉を続ける。

「趣味は合うんだと思います。……なにしろ同じ人を好きになった仲ですから」
「え。……あ、旭くんって弥生ちゃんが好きだったの?」
「違いますよ」

 類が笑う。
 夏風が彼の前髪をかき上げ、その端正な顔を露わにした。

「僕も、あの人も、好きなのは佐藤部長です」
「……え?」
「ああ。先週の木曜日、僕が部長に追いついたのはこの辺りでしたね。あのとき僕、勇気を出して先輩に告白するつもりだったんです」
「え、え、え?」

 状況が理解できない。
 硬直した菜乃花に、類は困ったような表情を浮かべる。

「そんなに……迷惑ですか?」
「あ、いえ、その、あの……」
「迷惑ですよね。親友の元カレで、部活の後輩に告白されるなんて。これから卒業までの間どんな顔して会えばいいのか、僕にもわかりません」
「……や、弥生ちゃんは?」

 彼女は類の気持ちを知っているのだろうか。

「……僕の気持ちに気づいて、自分から振ってくれたんです。佐藤部長はあの人が好きだけど鈍くてまだ自覚してないから、今ならイケル! って言ってくれて。でも……僕は勇気が出せませんでした。先週の水曜日一緒に登校して、その日と翌日放課後部室に顔だけ出してすぐ帰る部長に焦るまで……」

 彼はもう一度、でも、と呟いた。

「好きだからこそわかっちゃうんですよね。佐藤部長が、だれを好きなのか。いつもいつもいつも、だれのことを考えているのか……」
「類くん、わたし……」
「……聞かなかったことにして、これからもずっと部活の先輩後輩でいてください。僕も部長がこれからちゃんと家に戻って、繁華街の裏通りへ行かないでくれたら、今日のこと忘れられますから」
「……うん」

 菜乃花は俯いた。
 旭にも類にも好かれるほど、自分が素敵な女の子とは思えない。
 二十八歳の記憶と意識があったって、これまでとなにも変わらなかった。

「……不思議ですよねえ」

 類が空を見上げる。
 真っ白な夏の雲がゆっくりと流れていく。

「どうして人は、だれかを好きになるんでしょう。なにかひとつ理由を見つけても、それがなくなったからといって嫌いになったりはできない。心がその人でいっぱいになって、苦しいのに幸せで……」
「不思議だねえ……」

 旭を好きな理由なんて、菜乃花にもわからない。
 いくつも理由はつけられるけれど、類の言う通りそれだけではなかった。
 理由なんてなくても、好きという気持ちが心の中にあふれている。
 二十八歳の菜乃花と十八歳の菜乃花のふたつの意識があるからではない。
 好きだから好き。ただそれだけだ。

(……今夜、旭くんが電話してくれる。信じて待とう)

 類の隣で、菜乃花も空を見上げた。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 もうすぐ九時になる。
 繁華街駅前のからくり時計が終わる時間、旭が電話をくれるといった期限だ。
 色鮮やかなローズの香りのリップグロスを唇に塗り、菜乃花は自室で着信を待っていた。
 クーラーのない自室では、扇風機も熱風を動かす機械でしかない。
 お風呂にはもう入っていたが、菜乃花は全身汗だくだった。

「……っ! あ、旭くん?」

 手にした携帯の着信に、慌てて応答する。

『おう』

 のん気な声に安堵と怒りが湧いてきた。

「なっなにかあったら相談してくれるって言ったよね?」
『なんだ? 泣いてるのか、菜乃花』
「泣いてない。汗でちょっと……」

 反論しかけて気づく。
 旭にはこちらの姿が見えていない。
 彼は菜乃花の頬を伝う雫ではなくて、くぐもった声を聞いて尋ねてきたのだ。
 菜乃花は安堵であふれた涙を拭い、鼻を啜った。

「は、鼻が詰まってただけ」
『そうか。もしかしてクーラーのない部屋にいるのか? 熱中症は室内でも起きるっていうから、気をつけろよ』
「わかった。……旭くんは? 今どこにいるの? 今日は一日なにしてたの?」
『……駅前の駐輪場にいる。ほら、聞こえるだろ?』

 携帯の向こうからからくり時計の音楽が聞こえた。
 今日ランダムに選ばれたのはシンデレラ。
 九時になったのだ。

『これから自転車で帰る。今日は……父さん探してた』
「え? マスターさん? マスターさんを探すのに、どうして脱法ハーブの売人なんかと会ってたの?」
『……菜乃花、なんでそんなこと知ってるんだ?』
「うちのクラスの佐々木さんに聞いたの。佐々木さんがバイトしてる映画館の裏で、旭くんが殴られてるのが目撃されたって」
『さすが漫研の番長。侮れない情報網だな』
「茶化さないで。……どうしても話せないことなら、無理に言わなくてもいいけど」
『……昨日、ある男に会いに行ったきり父さんが帰ってないんだ。警察にも言ったけど、大人の男のことだし、そもそも警察は死体でも見つからねぇと本腰入れてくれない。だから今日は俺、脱法ハーブの売人にソイツのこと聞いてたんだ。ソイツうちの卒業生で、前からそういうのやってるって噂だから』
「どういうこと? マスターさん、大丈夫なの?」
『わからねぇ。携帯もつながらないんだ。でも俺みたいな一介の高校生が来たって、だれもなんにも教えてくれない。殴られただけだ。だからもう、帰る。明日になっても父さんが戻ってこなかったら、優也には悪いが八木のおばさんたちに相談する』
「八木くん……?」

 考えてみれば、八木の家は名家なので助力を頼むのは不思議ではない。

「そう……そうだね。じゃあ気をつけて帰ってね。携帯もやめて、灯かりをつけて」
『ちゃんと交通ルールはまも……うっ!』
「旭くんっ?」

 向こうでなにかが倒れる音がした。
 聞き覚えのない男の声が聞こえてくる。携帯が地面に落ちたのか、ひどく遠い。

『……あのバカのことを聞いて回ってたのは、コイツか』
『……』
『……骨村のヤツ、ハーブの代金も払わねぇで厄介ごとばっか持ってきやがる。このガキを車に乗せろ。昨日のオヤジと同じ場所でいいだろう』
『……っ』
「旭くんっ!」

 旭の呻く声に叫んだ瞬間、

 ガッガガガガ……プツン。

 激しいノイズの後で通信が切れた。携帯を踏み潰されたらしい。

(どうしよう。どうしたらいい? 旭くんはどこに連れて行かれるの?……あ。未来のニュースで見た山の中の湖? 警察に知らせなきゃ。でも信じてもらえるの?)

 いや、信じてもらえようともらえまいと動いてもらう。
 菜乃花は携帯を握り締めた。
 夢中で話していたせいか、携帯にリップグロスがついてしまっている。
 一昨日、旭とキスしたときにも塗っていたローズの香りの赤い──
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