一昨日のキス、明日にキス

豆狸

文字の大きさ
上 下
12 / 51

11・X年7月10日

しおりを挟む
 木曜日。
 菜乃花は昼食を終えて、漫研の部室を出た。
 今日の弁当は自分で作った。これからすることを考えていたら眠りが浅くて、早過ぎる時間に起きてしまったからだ。
 テニスボールが打ち合わされる音を聞きながら、コートの横を歩く。
 昨日、佐々木に依頼されたことをやり遂げなくてはならない。
 冴島はいつものようにベンチに腰かけている。

「よお」

 低い声に呼び止められた。

「今日はブラウニーあるけど、食うか?」

 頷いて、菜乃花は彼の隣に座った。もちろんふたりの間には、人ひとりが余裕で入れる空間がある。
 茶色くて四角いブラウニーを受け取って、菜乃花は齧った。
 しっとりした生地に隠された、ロースト済みのくるみが香ばしい。

「美味しい!」
「そうか。……佐藤はいつも美味そうに食ってくれるから、餌付けし甲斐があるな」
「え? わたし、餌付けされてたの」
「はは、どうかな」

 冴島が浮かべた優しい表情に、菜乃花の心臓が跳ね上がる。
 二十八歳の記憶では、Wデートの誘いに手間取ってはいなかった。
 だけど──
 菜乃花は俯いて、冴島から視線を逸らす。

(なんか……記憶のせいで、なんか……)

 Wデートのとき、菜乃花は冴島とキスをする。
 単なる偶然の産物に過ぎないけれど、菜乃花にとっては大切な初キスだ。
 二十八歳も十八歳も関係ない。
 一度意識してしまうともう、恥ずかしくてたまらなかった。

(なんかまるで、キス目当てで誘うみたいで……)

「佐藤」
「な、なに?」
「ここ……」

 くすっと笑みをこぼし、冴島が菜乃花に触れる。
 骨ばった指が頬を擦った。

「チョコついてた」
「あああ、ありがとう!」

 菜乃花は飛び跳ねるようにして立ち上がる。

「どうした? ブラウニーまだあるぞ」
「えっと、あの、今日は、今日は急いで教室に戻らないといけなくて」
「そうなのか」
「それで、えっと、あの……冴島くんっ!」
「なんだ?」
「こっ、今度、今度の……えっと、こここ交通ルールは守ってる?」

 冴島の目が丸くなった。
 菜乃花も自分の発言に驚いている。
 十年後の弥生や類に交通事故ではないかと言われてから、気にしていたことではあるのだけれど。

「交通ルール? うん、まあ守ってるぜ。つっても、ながら運転されたり、変な薬でキメてるヤツが突っ込んできたりしたら、どうしようもねぇけど」
「そ、そうだよね」
「佐藤。良かったら残りのブラウニーもらってくれよ。友達とでも食べてくれ」
「ありがとう!」

 ラップにくるまれて、スーパーのナイロン袋に入れられたブラウニーを受け取り、菜乃花は冴島を見つめた。

(Wデートのこと言わなくちゃ。告白は無理でも仲良くなれたら、なにか力になれるかもしれない。なにが起こるのかもわからないんだから)

「どうした、佐藤」

 家の喫茶店を手伝っているからか、冴島は年齢以上に大人びて見える。
 昼食の後で弥生と一緒にベンチに座った彼の前を通り過ぎていた一年生のころは、てっきり上級生だと思っていた。

「今度の土曜日。映画に行こう!」
「土曜日?……いいけど、ふたりでか?」
「ううん、あの、えっと……」

 菜乃花はベンチに座り直し、冴島に佐々木の計画を囁いた。
 目の前のコートで当事者の八木が練習をしていたので、あまり大きな声で話すのは良くないと思ったのだ。本人以外に聞かれても良くない。文武両道の八木は女子人気が高く、テニス部のアイドルだ。

「……わかった。アイツにも言っとく。たぶん大丈夫だ。その映画、観たがってたから」
「よろしく! じゃあわたしはこれで!」
「おう。……転ぶなよ、右手と右足一緒に出てるぞ」

 そう言われても難しい。
 まつ毛の長さがわかるほど近い距離で囁いたさっきの瞬間を思い出すと、体が思うように動かなくなるのだ。二十八歳も十八歳もなく、菜乃花はブラウニーの袋を握り締めて、よろよろと歩いて校舎へ入った。
 もちろん、教室に早く戻らなくていけないというのは、焦って口走ってしまっただけの嘘だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

『 私、悪役令嬢にはなりません! 』っていう悪役令嬢が主人公の小説の中のヒロインに転生してしまいました。

さらさ
恋愛
これはゲームの中の世界だと気が付き、自分がヒロインを貶め、断罪され落ちぶれる悪役令嬢だと気がついた時、悪役令嬢にならないよう生きていこうと決める悪役令嬢が主人公の物語・・・の中のゲームで言うヒロイン(ギャフンされる側)に転生してしまった女の子のお話し。悪役令嬢とは関わらず平凡に暮らしたいだけなのに、何故か王子様が私を狙っています? ※更新について 不定期となります。 暖かく見守って頂ければ幸いです。

このたび、あこがれ騎士さまの妻になりました。

若松だんご
恋愛
 「リリー。アナタ、結婚なさい」  それは、ある日突然、おつかえする王妃さまからくだされた命令。  まるで、「そこの髪飾りと取って」とか、「窓を開けてちょうだい」みたいなノリで発せられた。  お相手は、王妃さまのかつての乳兄弟で護衛騎士、エディル・ロードリックさま。  わたしのあこがれの騎士さま。  だけど、ちょっと待って!! 結婚だなんて、いくらなんでもそれはイキナリすぎるっ!!  「アナタたちならお似合いだと思うんだけど?」  そう思うのは、王妃さまだけですよ、絶対。  「試しに、二人で暮らしなさい。これは命令です」  なーんて、王妃さまの命令で、エディルさまの妻(仮)になったわたし。  あこがれの騎士さまと一つ屋根の下だなんてっ!!  わたし、どうなっちゃうのっ!? 妻(仮)ライフ、ドキドキしすぎで心臓がもたないっ!!

変態婚約者を無事妹に奪わせて婚約破棄されたので気ままな城下町ライフを送っていたらなぜだか王太子に溺愛されることになってしまいました?!

utsugi
恋愛
私、こんなにも婚約者として貴方に尽くしてまいりましたのにひどすぎますわ!(笑) 妹に婚約者を奪われ婚約破棄された令嬢マリアベルは悲しみのあまり(?)生家を抜け出し城下町で庶民として気ままな生活を送ることになった。身分を隠して自由に生きようと思っていたのにひょんなことから光魔法の能力が開花し半強制的に魔法学校に入学させられることに。そのうちなぜか王太子から溺愛されるようになったけれど王太子にはなにやら秘密がありそうで……?! ※適宜内容を修正する場合があります

【完結】勤労令嬢、街へ行く〜令嬢なのに下働きさせられていた私を養女にしてくれた侯爵様が溺愛してくれるので、国いちばんのレディを目指します〜

鈴木 桜
恋愛
貧乏男爵の妾の子である8歳のジリアンは、使用人ゼロの家で勤労の日々を送っていた。 誰よりも早く起きて畑を耕し、家族の食事を準備し、屋敷を隅々まで掃除し……。 幸いジリアンは【魔法】が使えたので、一人でも仕事をこなすことができていた。 ある夏の日、彼女の運命を大きく変える出来事が起こる。 一人の客人をもてなしたのだ。 その客人は戦争の英雄クリフォード・マクリーン侯爵の使いであり、ジリアンが【魔法の天才】であることに気づくのだった。 【魔法】が『武器』ではなく『生活』のために使われるようになる時代の転換期に、ジリアンは戦争の英雄の養女として迎えられることになる。 彼女は「働かせてください」と訴え続けた。そうしなければ、追い出されると思ったから。 そんな彼女に、周囲の大人たちは目一杯の愛情を注ぎ続けた。 そして、ジリアンは少しずつ子供らしさを取り戻していく。 やがてジリアンは17歳に成長し、新しく設立された王立魔法学院に入学することに。 ところが、マクリーン侯爵は渋い顔で、 「男子生徒と目を合わせるな。微笑みかけるな」と言うのだった。 学院には幼馴染の謎の少年アレンや、かつてジリアンをこき使っていた腹違いの姉もいて──。 ☆第2部完結しました☆

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

コワモテの悪役令嬢に転生した ~ざまあ回避のため、今後は奉仕の精神で生きて参ります~

千堂みくま
恋愛
婚約を6回も断られ、侍女に八つ当たりしてからフテ寝した侯爵令嬢ルシーフェルは、不思議な夢で前世の自分が日本人だったと思い出す。ここ、ゲームの世界だ! しかもコワモテの悪役令嬢って最悪! 見た目の悪さゆえに性格が捻じ曲がったルシーはヒロインに嫌がらせをし、最後に処刑され侯爵家も没落してしまう運命で――よし、今から家族のためにいい子になろう。徳を積んで体から後光が溢れるまで、世のため人のために尽くす所存です! 目指すはざまあ回避。ヒロインと攻略対象は勝手に恋愛するがいい。私は知らん。しかしコワモテを改善しようとするうちに、現実は思わぬ方向へ進みだす。公爵家の次男と知り合いになったり、王太子にからまれたり。ルシーは果たして、平穏な学園生活を送れるのか!?――という、ほとんどギャグのお話です。

【完結】一番腹黒いのはだあれ?

やまぐちこはる
恋愛
■□■ 貧しいコイント子爵家のソンドールは、貴族学院には進学せず、騎士学校に通って若くして正騎士となった有望株である。 三歳でコイント家に養子に来たソンドールの生家はパートルム公爵家。 しかし、関わりを持たずに生きてきたため、自分が公爵家生まれだったことなどすっかり忘れていた。 ある日、実の父がソンドールに会いに来て、自分の出自を改めて知り、勝手なことを言う実父に憤りながらも、生家の騒動に巻き込まれていく。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

処理中です...