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第六話 二番目の女
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アルトゥールとバルバラの婚約は白紙撤回となった。
バルバラが王太子の婚約者を続けられる精神状態ではないことがその理由だ。
フォーゲル辺境伯家はバルバラ有責の婚約破棄でも構わないと言ったのだが、王妃がそれを拒んだ。国王もこれ以上辺境伯家との関係を悪化させるつもりはなかったので、記録の残らない白紙撤回で手を打ったのだ。
アルトゥールは王宮の中庭で椅子に座っていた。
バルバラと定例の茶会をしていた場所だ。
彼女はいつも嬉しそうに妃教育の進捗を教えてくれて、アルトゥールもそれに応えて自分の王太子教育の話をした。上手く進んでいるときは称賛してくれて、失敗して落ち込んでいるときは愚痴を聞いてくれる婚約者が、アルトゥールは大好きだった。
アルトゥールはメーラー侯爵家に婿入りする。
幼い子どもに戻ってしまったバルバラではなく、異母姉がいなくなったことで正式に侯爵家の跡取りとなったゲファレナの夫となるのだ。
学園に入学してから、いや、バルバラの母親が死んでメーラー侯爵家にゲファレナ親娘が現れてから、ずっと望んでいたことのはずだった。か弱く儚げで、自分がいなければ生きていけないゲファレナが、アルトゥールは大好きだったのだから。
バルバラは強い少女だった。優秀な少女だった。
学園在学中に修める予定の妃教育の範囲はとっくに学び終えて、本来なら結婚後に学ぶ範囲にまで手を伸ばしていた。六歳の子どもに戻って記憶を失っていなければ、口封じされて当然な門外不出の王家の秘にまで関わっていた。
彼女さえいれば、自分はこの王国に必要ないのではないかと感じることもあったほどだ。
バルバラにはアルトゥールが必要ないのだと思っていた。
彼女はひとりで生きていけるのだと。剣術の稽古でアルトゥールがダーフィトに負けると、令嬢ながらも挑みかかって彼から一本取って敵討ちしてくれていたほどバルバラは強かったのだ。
か弱く儚いゲファレナには自分が必要なのだと、ゲファレナを愛し守って生きていくことが自分の幸せなのだと、アルトゥールは信じていた。
(なのに……)
廃太子されたとはいえ愛する女性と結ばれることになったのに、アルトゥールの胸にはゲファレナの顔が見たいという気持ちが浮かばずにいた。
心に渦巻くのは最後に会ったバルバラの表情だ。
『盛りのついた雄犬』とアルトゥールを蔑んで拒んだ少女の顔だ。バルバラにあんな顔を向けられるのは初めてだった。ゲファレナと睦み合う自分に冷たい視線を向けるときであっても、バルバラの瞳には隠し切れないアルトゥールへの愛情があった。
母である王妃がバルバラは本当に六歳に戻っていると断言したのは当然だと、アルトゥールは感じていた。
彼女はバルバラではなかった。少なくとも十八歳のバルバラではなかった。
六歳のバルバラが心から愛しているのは六歳のアルトゥールで、異母妹と不貞をする十八歳の自分、『盛りのついた雄犬』ではなかったのだ。
「……兄上」
弟の第二王子の声にアルトゥールは顔を上げた。
すでに廃太子になっているとはいえ、アルトゥールは第一王子だ。
周囲には護衛騎士と侍女がいる。だが彼らはアルトゥールが話しかけない限り口を開くことはない。
「ああ、すまない。婚約者との茶会か?」
「いいえ。ですが明日茶会をしますので、念のためお伝えしておこうと」
「そうか。私のせいで将来の予定が狂ってしまって申し訳なかったな」
「……私の婚約者には弟がいましたから」
第二王子は、ダーフィトのミュラー家とはべつの公爵家の令嬢である婚約者の家へ婿入りする予定だった。
「ねえ、兄上」
「ん?」
「もしバルバラ嬢が婚約者じゃなかったとしても兄上はゲファレナ嬢に恋をしましたか?」
「どういう意味だ?」
「自分なしでも良いのではないかと感じるくらい優秀な婚約者がいなくて、彼女の母親の実家の権威と財産が利用出来なくて、王太子の座が簡単に揺らいでしまう状態だったとしても、か弱くて儚げな庶子……自分がいなくては生きていけない、逆に言えば自分の後ろ盾になりえない女性に恋をしましたか?」
「それは……」
婚約者が優秀でなかったら、相手を叱責して努力させるか新しい婚約者を望んだだろう。
相手の令嬢の実家、もしくは母親の実家に十分な権威と財産がなかったら、そもそも彼女は婚約者候補にも選ばれなかったことだろう。
王太子としての立場が不安定だったなら、それを強固にするために尽力するか、早々に諦めて弟の補佐に回るための根回しをしていただろう。
権力にしがみつくつもりはないけれど、王族に生まれた責任がある。
これまで支えてきてくれた自分の派閥の人間にも報いたい。
アルトゥールが弟の言うような状況にあったなら、絶対にゲファレナに恋などしていない。そんな余裕などない。
(余裕……か)
「兄上、私はいつか王太子に相応しいと認められるようになっても、それは支えてくれた婚約者のおかげだということを忘れないでいたいと思います。少々余裕が出来たからといって二番目の女を作るような愚かな真似は絶対にしません」
「そうか。……そうだな、お前は私よりも素晴らしい王太子になるだろう」
第二王子は自信に満ちた表情で頷いた。
その自信は婚約者に愛され、自分も彼女を愛しているからこそ満ちているものだ。
アルトゥールはバルバラに会いたくなった。どんなに怒り悲しんでいても隠しきれない自分への愛が煌めく瞳で見つめられたかった。
一番目のバルバラがいなくなった今、二番目のゲファレナの価値は消え失せた。
自分が酷い男だと自覚しながらも、異母姉の婚約者だと知っているのに愛を告げてきたゲファレナ本人が二番目の女として生きることを選んでいたのだと、アルトゥールは思った。
バルバラこそがアルトゥールにとって唯一無二の女性だったのだ。
(今さら気づいても、遅い……)
バルバラが王太子の婚約者を続けられる精神状態ではないことがその理由だ。
フォーゲル辺境伯家はバルバラ有責の婚約破棄でも構わないと言ったのだが、王妃がそれを拒んだ。国王もこれ以上辺境伯家との関係を悪化させるつもりはなかったので、記録の残らない白紙撤回で手を打ったのだ。
アルトゥールは王宮の中庭で椅子に座っていた。
バルバラと定例の茶会をしていた場所だ。
彼女はいつも嬉しそうに妃教育の進捗を教えてくれて、アルトゥールもそれに応えて自分の王太子教育の話をした。上手く進んでいるときは称賛してくれて、失敗して落ち込んでいるときは愚痴を聞いてくれる婚約者が、アルトゥールは大好きだった。
アルトゥールはメーラー侯爵家に婿入りする。
幼い子どもに戻ってしまったバルバラではなく、異母姉がいなくなったことで正式に侯爵家の跡取りとなったゲファレナの夫となるのだ。
学園に入学してから、いや、バルバラの母親が死んでメーラー侯爵家にゲファレナ親娘が現れてから、ずっと望んでいたことのはずだった。か弱く儚げで、自分がいなければ生きていけないゲファレナが、アルトゥールは大好きだったのだから。
バルバラは強い少女だった。優秀な少女だった。
学園在学中に修める予定の妃教育の範囲はとっくに学び終えて、本来なら結婚後に学ぶ範囲にまで手を伸ばしていた。六歳の子どもに戻って記憶を失っていなければ、口封じされて当然な門外不出の王家の秘にまで関わっていた。
彼女さえいれば、自分はこの王国に必要ないのではないかと感じることもあったほどだ。
バルバラにはアルトゥールが必要ないのだと思っていた。
彼女はひとりで生きていけるのだと。剣術の稽古でアルトゥールがダーフィトに負けると、令嬢ながらも挑みかかって彼から一本取って敵討ちしてくれていたほどバルバラは強かったのだ。
か弱く儚いゲファレナには自分が必要なのだと、ゲファレナを愛し守って生きていくことが自分の幸せなのだと、アルトゥールは信じていた。
(なのに……)
廃太子されたとはいえ愛する女性と結ばれることになったのに、アルトゥールの胸にはゲファレナの顔が見たいという気持ちが浮かばずにいた。
心に渦巻くのは最後に会ったバルバラの表情だ。
『盛りのついた雄犬』とアルトゥールを蔑んで拒んだ少女の顔だ。バルバラにあんな顔を向けられるのは初めてだった。ゲファレナと睦み合う自分に冷たい視線を向けるときであっても、バルバラの瞳には隠し切れないアルトゥールへの愛情があった。
母である王妃がバルバラは本当に六歳に戻っていると断言したのは当然だと、アルトゥールは感じていた。
彼女はバルバラではなかった。少なくとも十八歳のバルバラではなかった。
六歳のバルバラが心から愛しているのは六歳のアルトゥールで、異母妹と不貞をする十八歳の自分、『盛りのついた雄犬』ではなかったのだ。
「……兄上」
弟の第二王子の声にアルトゥールは顔を上げた。
すでに廃太子になっているとはいえ、アルトゥールは第一王子だ。
周囲には護衛騎士と侍女がいる。だが彼らはアルトゥールが話しかけない限り口を開くことはない。
「ああ、すまない。婚約者との茶会か?」
「いいえ。ですが明日茶会をしますので、念のためお伝えしておこうと」
「そうか。私のせいで将来の予定が狂ってしまって申し訳なかったな」
「……私の婚約者には弟がいましたから」
第二王子は、ダーフィトのミュラー家とはべつの公爵家の令嬢である婚約者の家へ婿入りする予定だった。
「ねえ、兄上」
「ん?」
「もしバルバラ嬢が婚約者じゃなかったとしても兄上はゲファレナ嬢に恋をしましたか?」
「どういう意味だ?」
「自分なしでも良いのではないかと感じるくらい優秀な婚約者がいなくて、彼女の母親の実家の権威と財産が利用出来なくて、王太子の座が簡単に揺らいでしまう状態だったとしても、か弱くて儚げな庶子……自分がいなくては生きていけない、逆に言えば自分の後ろ盾になりえない女性に恋をしましたか?」
「それは……」
婚約者が優秀でなかったら、相手を叱責して努力させるか新しい婚約者を望んだだろう。
相手の令嬢の実家、もしくは母親の実家に十分な権威と財産がなかったら、そもそも彼女は婚約者候補にも選ばれなかったことだろう。
王太子としての立場が不安定だったなら、それを強固にするために尽力するか、早々に諦めて弟の補佐に回るための根回しをしていただろう。
権力にしがみつくつもりはないけれど、王族に生まれた責任がある。
これまで支えてきてくれた自分の派閥の人間にも報いたい。
アルトゥールが弟の言うような状況にあったなら、絶対にゲファレナに恋などしていない。そんな余裕などない。
(余裕……か)
「兄上、私はいつか王太子に相応しいと認められるようになっても、それは支えてくれた婚約者のおかげだということを忘れないでいたいと思います。少々余裕が出来たからといって二番目の女を作るような愚かな真似は絶対にしません」
「そうか。……そうだな、お前は私よりも素晴らしい王太子になるだろう」
第二王子は自信に満ちた表情で頷いた。
その自信は婚約者に愛され、自分も彼女を愛しているからこそ満ちているものだ。
アルトゥールはバルバラに会いたくなった。どんなに怒り悲しんでいても隠しきれない自分への愛が煌めく瞳で見つめられたかった。
一番目のバルバラがいなくなった今、二番目のゲファレナの価値は消え失せた。
自分が酷い男だと自覚しながらも、異母姉の婚約者だと知っているのに愛を告げてきたゲファレナ本人が二番目の女として生きることを選んでいたのだと、アルトゥールは思った。
バルバラこそがアルトゥールにとって唯一無二の女性だったのだ。
(今さら気づいても、遅い……)
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