ずっとあなたが欲しかった。

豆狸

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第一話 目覚めた彼女

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 王都にあるメーラー侯爵邸は重苦しい雰囲気に包まれていた。
 この家の令嬢バルバラの寝室で、多くの人々が溜息をついている。
 彼女は昨日この王国の貴族子女が通う学園で階段から落ち、それから目覚めないのだ。医師の見立てでは、多少の打ち身はあるものの大きな怪我はないというのに。

 瞳を開かないバルバラを侯爵邸まで連れ帰ったのは、彼女の婚約者である王太子アルトゥールの学友、ミュラー公爵子息ダーフィトだった。
 アルトゥールも同行していたのだが、華奢なように見えても背が高く力のあるダーフィトのほうが令嬢を運ぶのに向いていたのだ。剣術の稽古でも、ダーフィトはアルトゥールに負けたことがない。
 それに、王太子が力仕事をして腕でも折ったら大変だ。

「お嬢様……」

 バルバラの母の代から仕えている乳母のヘレーネが彼女の手を握り、寝台の横で膝をついている。
 幼くして母を喪ったバルバラにとって、真の家族といえるのはヘレーネだけだった。
 フォーゲル辺境伯令嬢だったバルバラの母と王命で政略結婚をしたメーラー侯爵には結婚前から恋人がいて、正妻の死後はその恋人とバルバラの異母妹に当たる娘を侯爵邸に引き入れて仲睦まじく暮らしている。

 とはいえ、王太子の婚約者でもある令嬢が意識不明なのだ。
 メーラー侯爵も部屋の隅に立ってバルバラの進退を見守っていた。
 もっともその顔に浮かぶのは心配ではなく怒りだ。学園の卒業も近く、もうすぐ王家に嫁ぐ令嬢が問題を起こしたことに苛立っているのである。

 バルバラの長いまつ毛がかすかに動く。

「お嬢様……っ!」

 ヘレーネと侯爵家の主治医に見守られて、バルバラの瞼が上がる。
 瞳を開けたバルバラに、ヘレーネは涙を流して抱き着いた。
 もちろん主治医に視線で許可を得てからである。主治医に言われて、ヘレーネはきょとんとした顔つきのバルバラに水を飲ませた。喉を潤わせたバルバラが言う。

「どうして泣いているの、ヘレーネ」

 のん気な言葉にヘレーネは泣き笑いの顔になる。
 問題なさそうな令嬢の姿に安堵の表情を浮かべた主治医と乳母とは対照的に、部屋の隅にいたメーラー侯爵が眉を吊り上げる。
 彼は足を踏み出して、バルバラの視界に入った。

「この愚か者がっ! お前は王太子殿下の婚約者なのだぞ! どうして階段から落ちたりしたっ! 私への当てつけのつもりか?」

 バルバラの瞳が見開かれる。次の瞬間、彼女の唇から悲鳴が迸った。

「きゃああぁぁあっ!」
「叫んで誤魔化せるとでも思ったかっ!」

 バルバラはすぐ側にいたヘレーネに抱き着いた。

「助けてヘレーネ! 変な男がお家に侵入しているわっ! だれか! 早くお父様を呼んで追い払ってもらって!」
「なにをおっしゃっているのです、お嬢様。……この方はお嬢様のお父君、メーラー侯爵様であらせられますよ?」
「なにを言っているの、ヘレーネ。お父様はもっと若くて凛々しいのよ? こんなくたびれた薄汚い男ではないわ。……あら? ヘレーネ小さくなった?……私のほうが大きくなってる?」

 主治医が部屋にいた従者や侍女に命じて、意識を取り戻したばかりの人間を怒鳴りつける非常識な男を追い出した後で、ヘレーネは大切なお嬢様に自己紹介をお願いした。
 少し怪訝そうな顔になったものの、バルバラは嬉し気に声を上げる。
 には、だれに対しても自慢したいことがあったのだ。

「私はメーラー侯爵令嬢バルバラ、六歳! この前王太子アルトゥール殿下の婚約者になったのよ!……ねえヘレーネ、お母様はどこ?」

 六歳のころのバルバラは王太子に選ばれたばかりの第一王子アルトゥールの婚約者になったことが嬉しくてならなかったようで、いつもその自己紹介を口にしていた。目覚めたバルバラの口調のあどけなさに、ヘレーネの心に当時の彼女の姿が蘇っていたのだ。
 六歳のバルバラは知らない。
 二年後に母親が階段から落ちて亡くなり、父のメーラー侯爵が元下働きの恋人とバルバラと同い年の異母妹を侯爵邸に連れ込むことを。
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