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最終話 私の隣には貴方がいる。
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「……それではこれで失礼するよ。カルロタ、また来月会おう」
「いいえ。ベネデット様、私はもう来月はこの王国にはいません」
真実を思い出して錯乱しているときは怪力が出るようで、逞しい男性数人がかりでもベネデットを止めるのには時間がかかった。
彼の乱れた服装は、すでに貴族らしく整えられていた。
幻想に戻った彼は私の言葉を聞き流し、黄金の髪をなびかせて背中を向ける。
「ごめんなさい、お姉様。謝ります、許してください。助けてください、助けてください」
錆びた鉄のような血の匂いを漂わせながら、インチテンデが私を見る。
ベネデットの右手に掴まれたままの無理な体勢だ。
彼の右手をインチテンデから離そうとすると、さっき以上に暴れるのだという。そもそも両親が亡くなり、伯爵家自体もなくなったのだから、ベネデットと離れたところで彼女には行くところがない。この状況のきっかけとなった金持ちの男性は、伯爵夫妻が乱入して庇う前にベネデットに与えられた傷がもとで亡くなっていた。
ベネデットには私の声だけでなく、インチテンデの声すら聞こえないようだ。
かつて中庭でお茶会をしていたときは、どんなに彼女が遠くにいても小鳥のようなあの歌声を耳を澄ませて探していたのに。
彼は無理な体勢のままで彼女を引きずっていく。
その後ろを青を通り越して白くなった顔のプニツィオーネが続く。
たまにもの言いたげに私を振り返るが、私に助けてもらえると思っているのだとしたら正気ではない。
精神魔術研究所で拾われたことを喜ぶべきだと思う。
雇い主の私を裏切ったために紹介状なしで我が家から追い出された彼女には、新しい働き口がなかった。
インチテンデや伯爵夫妻がプニツィオーネを雇うはずがない。
あくまで敵の中にいる寄生虫だから価値があったのだ。
所長でもある研究員はトボトボとベネデットの後ろをついて行く。
彼は元婚約者と会うことで、親友が正気に戻ることを期待していたのかもしれない。それで自分の言動が許されるとでも思っていたのだろうか。
逞しい男性達はいつでも押さえられるように要所要所でベネデット達を見張りながら進んでいく。
やがて我が家の門を出たところで待っていた馬車に乗り、彼らは去った。
一応玄関で見送っていた私は、振り返って我が屋敷を見上げた。
婚約を破棄してから、ベネデットと会うのはこれが最初で最後だ。
これまで彼が月に一度のお茶会と思い込んで我が家へ来たときは、いつも留守にしていた。
初めの一回はたまたまで、二回目以降は使用人に話を聞いてわざと家を空けていた。
精神魔術研究所には何度も苦情を申し立てていたが、どんなに厳重に見張っていてもベネデットは抜け出して来ていたらしい。今日は所長にどうしてもと頼まれて、彼と会うことにしたのだ。……無駄な時間だったわ。
「……お嬢」
「どうしたの、ゴッフレード。今さら、そんな呼び名で」
ゴッフレードは見送りのときも側にいてくれた。
彼は祖父が寝たきりになった振りをすると決めたときに、調子に乗った伯爵達から私を守るために遣わされた護衛だった。
今は違う。
「ああ、いや。あの浮気男が、右手で掴んでるものさえ見なけりゃ凄い貴族っぽくて。お嬢もアイツと対峙してるときは、いかにも貴族令嬢って感じで……なんか、お嬢の隣に立つのは俺でいいのかな、なんて思っちまってな」
ゴッフレードは燃えるような赤毛に緑色の瞳、日に焼けた浅黒い肌を持つ平民の青年だ。
元は船乗りで、頭の回転が速いのと荒事が得意なのを見込まれて祖父に選ばれた。
「なんつーか俺は、お嬢の失恋につけ込んで恋人になったようなもんだし」
……私はベネデットを愛していた、あのころは。
伯爵家の跡取りという立場を捨てたいという気持ちと、彼と結ばれたいという気持ちがいつも心でせめぎ合っていた。
前々から予想していたとはいえ、婚約を破棄された直後は泣き暮らしていた。
「そうね」
「お嬢っ?」
私が頷くと、ゴッフレードは情けない声を上げた。
「私が辛いときに側にいてくれた人だから、慰めてくれた人だから、好きになったのよ。恋ってそういうものでしょう。それにゴッフレードは力持ちで役に立つし」
今日も所長が連れて来た男性達だけでは押さえきれなかったベネデットを止めてくれた。
ゴッフレードがいなければ、インチテンデは最後に口を利くことも出来なかっただろう。
「力持ちで役に立つって……まあ、いいか。愛してるよ、カルロタ」
「私もよ、ゴッフレード」
私の涙を受け止めてくれたのは、ゴッフレードの広く厚い胸だった。
私に希望をくれたのは、真っすぐに見つめてくる彼の緑色の瞳だった。
私を新しい恋に落としたのは、彼の低く掠れた甘い声だった。
私達は来月が来る前に、祖父と一緒に開拓中の大陸へ移住する予定だ。
この屋敷は分解して持っていき、向こうで組み立てる。
締め出されて暴れたベネデットに痛めつけられた玄関の扉は、今日の面会の代償として精神魔術研究所が支払ってくれるお金で買った新しいものと取り換えることにした。来月も現れるだろう彼は、更地となったこの場所でどうするのだろうか。
「庭の木や花を全部は持っていけないのが辛いよなあ」
「お母様が好きだった花の種は持っていくから大丈夫よ。向こうの気候に馴染むと良いのだけど」
「ああ、あの花か」
ゴッフレードが微笑む。
「爺さんに言われてこの家へ来て、あの花の中に佇むカルロタを見たとき、恋に落ちちゃったんだよなあ、俺は。あのときは、まさか恋人になれるなんて思いもしなかったけど」
「私は……」
あのときはまだベネデットと婚約していたけれど、彼の心がインチテンデにあることは感じていた。
精いっぱい虚勢を張って、噂にも伯爵達にも負けないようにと過ごしていた。
緑色の瞳に焼きつけるかのように私を見つめるゴッフレードに気づいて、初対面の彼の前で泣き出してしまったのは、いつかこうなる未来を予見していたからだったのかもしれない。
ベネデットの隣にインチテンデはいない。
いるけれど、いないのだ。
彼の青い瞳に彼女は映っていない。
私の隣には彼が、愛しいゴッフレードがいる。今の彼は私の護衛ではない。まだ家族でも身寄りでもないけれど、もうすぐそうなる。
彼の緑色の瞳が私を映し、私の瞳の中で彼が微笑む。
私とゴッフレードはどちらからともなく手を繋ぎ、見つめ合いながら我が家へ入った。
「いいえ。ベネデット様、私はもう来月はこの王国にはいません」
真実を思い出して錯乱しているときは怪力が出るようで、逞しい男性数人がかりでもベネデットを止めるのには時間がかかった。
彼の乱れた服装は、すでに貴族らしく整えられていた。
幻想に戻った彼は私の言葉を聞き流し、黄金の髪をなびかせて背中を向ける。
「ごめんなさい、お姉様。謝ります、許してください。助けてください、助けてください」
錆びた鉄のような血の匂いを漂わせながら、インチテンデが私を見る。
ベネデットの右手に掴まれたままの無理な体勢だ。
彼の右手をインチテンデから離そうとすると、さっき以上に暴れるのだという。そもそも両親が亡くなり、伯爵家自体もなくなったのだから、ベネデットと離れたところで彼女には行くところがない。この状況のきっかけとなった金持ちの男性は、伯爵夫妻が乱入して庇う前にベネデットに与えられた傷がもとで亡くなっていた。
ベネデットには私の声だけでなく、インチテンデの声すら聞こえないようだ。
かつて中庭でお茶会をしていたときは、どんなに彼女が遠くにいても小鳥のようなあの歌声を耳を澄ませて探していたのに。
彼は無理な体勢のままで彼女を引きずっていく。
その後ろを青を通り越して白くなった顔のプニツィオーネが続く。
たまにもの言いたげに私を振り返るが、私に助けてもらえると思っているのだとしたら正気ではない。
精神魔術研究所で拾われたことを喜ぶべきだと思う。
雇い主の私を裏切ったために紹介状なしで我が家から追い出された彼女には、新しい働き口がなかった。
インチテンデや伯爵夫妻がプニツィオーネを雇うはずがない。
あくまで敵の中にいる寄生虫だから価値があったのだ。
所長でもある研究員はトボトボとベネデットの後ろをついて行く。
彼は元婚約者と会うことで、親友が正気に戻ることを期待していたのかもしれない。それで自分の言動が許されるとでも思っていたのだろうか。
逞しい男性達はいつでも押さえられるように要所要所でベネデット達を見張りながら進んでいく。
やがて我が家の門を出たところで待っていた馬車に乗り、彼らは去った。
一応玄関で見送っていた私は、振り返って我が屋敷を見上げた。
婚約を破棄してから、ベネデットと会うのはこれが最初で最後だ。
これまで彼が月に一度のお茶会と思い込んで我が家へ来たときは、いつも留守にしていた。
初めの一回はたまたまで、二回目以降は使用人に話を聞いてわざと家を空けていた。
精神魔術研究所には何度も苦情を申し立てていたが、どんなに厳重に見張っていてもベネデットは抜け出して来ていたらしい。今日は所長にどうしてもと頼まれて、彼と会うことにしたのだ。……無駄な時間だったわ。
「……お嬢」
「どうしたの、ゴッフレード。今さら、そんな呼び名で」
ゴッフレードは見送りのときも側にいてくれた。
彼は祖父が寝たきりになった振りをすると決めたときに、調子に乗った伯爵達から私を守るために遣わされた護衛だった。
今は違う。
「ああ、いや。あの浮気男が、右手で掴んでるものさえ見なけりゃ凄い貴族っぽくて。お嬢もアイツと対峙してるときは、いかにも貴族令嬢って感じで……なんか、お嬢の隣に立つのは俺でいいのかな、なんて思っちまってな」
ゴッフレードは燃えるような赤毛に緑色の瞳、日に焼けた浅黒い肌を持つ平民の青年だ。
元は船乗りで、頭の回転が速いのと荒事が得意なのを見込まれて祖父に選ばれた。
「なんつーか俺は、お嬢の失恋につけ込んで恋人になったようなもんだし」
……私はベネデットを愛していた、あのころは。
伯爵家の跡取りという立場を捨てたいという気持ちと、彼と結ばれたいという気持ちがいつも心でせめぎ合っていた。
前々から予想していたとはいえ、婚約を破棄された直後は泣き暮らしていた。
「そうね」
「お嬢っ?」
私が頷くと、ゴッフレードは情けない声を上げた。
「私が辛いときに側にいてくれた人だから、慰めてくれた人だから、好きになったのよ。恋ってそういうものでしょう。それにゴッフレードは力持ちで役に立つし」
今日も所長が連れて来た男性達だけでは押さえきれなかったベネデットを止めてくれた。
ゴッフレードがいなければ、インチテンデは最後に口を利くことも出来なかっただろう。
「力持ちで役に立つって……まあ、いいか。愛してるよ、カルロタ」
「私もよ、ゴッフレード」
私の涙を受け止めてくれたのは、ゴッフレードの広く厚い胸だった。
私に希望をくれたのは、真っすぐに見つめてくる彼の緑色の瞳だった。
私を新しい恋に落としたのは、彼の低く掠れた甘い声だった。
私達は来月が来る前に、祖父と一緒に開拓中の大陸へ移住する予定だ。
この屋敷は分解して持っていき、向こうで組み立てる。
締め出されて暴れたベネデットに痛めつけられた玄関の扉は、今日の面会の代償として精神魔術研究所が支払ってくれるお金で買った新しいものと取り換えることにした。来月も現れるだろう彼は、更地となったこの場所でどうするのだろうか。
「庭の木や花を全部は持っていけないのが辛いよなあ」
「お母様が好きだった花の種は持っていくから大丈夫よ。向こうの気候に馴染むと良いのだけど」
「ああ、あの花か」
ゴッフレードが微笑む。
「爺さんに言われてこの家へ来て、あの花の中に佇むカルロタを見たとき、恋に落ちちゃったんだよなあ、俺は。あのときは、まさか恋人になれるなんて思いもしなかったけど」
「私は……」
あのときはまだベネデットと婚約していたけれど、彼の心がインチテンデにあることは感じていた。
精いっぱい虚勢を張って、噂にも伯爵達にも負けないようにと過ごしていた。
緑色の瞳に焼きつけるかのように私を見つめるゴッフレードに気づいて、初対面の彼の前で泣き出してしまったのは、いつかこうなる未来を予見していたからだったのかもしれない。
ベネデットの隣にインチテンデはいない。
いるけれど、いないのだ。
彼の青い瞳に彼女は映っていない。
私の隣には彼が、愛しいゴッフレードがいる。今の彼は私の護衛ではない。まだ家族でも身寄りでもないけれど、もうすぐそうなる。
彼の緑色の瞳が私を映し、私の瞳の中で彼が微笑む。
私とゴッフレードはどちらからともなく手を繋ぎ、見つめ合いながら我が家へ入った。
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