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<彼の気持ち>
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前に座った侯爵令嬢を見つめて、眼福だな、と思う。
手ずから淹れてくれたお茶が美味しいのは高級な茶葉だからだけじゃない。
僕は、狐獣人のこの僕は、侯爵令嬢である彼女に恋をしているのだ。
特待生として通った学園で、廊下を歩く姿を初めて見たとき、その美しさに言葉を失った。
整った顔立ちと艶やかな長い髪、しなやかで瑞々しい体躯──違う、見た目だけの美しさじゃない。
正直言って、男爵令嬢が現れる前から、彼女が婚約者である王太子に女性として見られていないことは知れ渡っていた。だけど嘲笑混じりの視線の中、彼女は凛とした表情で背筋を伸ばし、真っ直ぐに歩いていた。その心が美しいと思ったのだ。
たぶん無理もしていただろうし、見栄も張っていたのだと思う。
でも、教団に住んでいた集落を追い出されてから生きるのに必死で、盗んだり騙したりすることも生きるためだから仕方がないと嘯く仲間の間で暮らしていた僕には、彼女の姿は輝いて見えた。
犯罪こそ犯していないものの、僕の人生も綺麗なわけじゃない。特待生として学園に通えたのは、美人の姉がこの王国の貴族に見初められて愛人になったからだ。金で姉を売ったようなものだ。
僕には侯爵令嬢が眩しく見えた。
彼女を政略的に決められた婚約者として、道具のように扱っている王太子が信じられなかった。
どうして彼女を愛さずにいられるんだろう。どうしてあんな冷たい目で彼女を見るんだろう。
男爵令嬢が現れて、王太子が侯爵令嬢に冷たい理由がわかった。
あの男は莫迦なのだ。
自分の隣に立つために己を高め、凛として生きている彼女よりも、わかりやすく媚を売って機嫌を取り、簡単に股を開くことを主張する女のほうが好きなだけだったのだ。
なのに、彼女はそんな莫迦な男に恋をして、無慈悲な扱いに心を凍らせていく。
正直なところ、男爵令嬢が王太子と側近達のだれにも恋心を抱いていないことは、特待生として学園に通っていた獣人すべてが気づいていた。匂いでわかるのだ。
王太子と側近達が獣人の言うことなんて聞くわけないと知っていたけど、侯爵令嬢なら話を聞いてくれたかもしれなかったな。……いや、王太子と側近達は侯爵令嬢からの話も聞かなかっただろう。実際、彼女やほかの側近の婚約者達の如何なる忠告も諫言も、彼らの耳には届いていなかったもんね。
「僕と君が目の前でキスしたら、王太子殿下にもっと復讐できたかな」
「ふえっ」
ふざけて言うと、驚いた彼女は可愛い声を出した。
一瞬胸は痛んだが、ついこの間まで王太子の婚約者だった侯爵令嬢が形だけの婚約者である狐獣人とキスなんてするはずがない。彼には当てつけではないと言っていたけれど、当てつけなのは明白だ。
僕は急いで笑みを作る。
「ごめんごめん。形だけの婚約をした狐獣人とキスするなんて嫌だよね」
「そ、そんなことはない、わ……」
優しい言葉が嬉しい。
僕は獣人の地位向上のため、彼女は王太子への復讐のため。形だけの婚約だっていい。今、この瞬間の彼女は僕のものだ。
いつか獣人がこの王国の人間と対等になれたとしても、それだけで僕が彼女に相応しい男になれるとは思えない。侯爵家のご当主と跡取りだって、王太子への意趣返しとして僕との婚約を結ばせただけだろう。
……それでも。いつかこの関係が消えてなくなるのだとしても、偽りの関係が結ばれている間に彼女の顔に本当の微笑みを取り戻せたら、僕はどれだけ嬉しいことか。
獣人は匂いがわかりにくい人間の女性が、ふとしたときに漂わせる甘い香りの虜になって、それが恋だと思い込むときがある。多くの国で獣人に対する扱いが酷いのは、思い込んだ獣人の男が人間の女性にしつこく付き纏ったせいもあるのだ。
とはいえ、今の僕の気持ちは単なる思い込みなんかじゃない。
ふたりの関係が幻のようにあやふやなものなのは事実だが、彼女、形だけの婚約者である侯爵令嬢を思う僕の気持ちは幻じゃない。
幻じゃないことを僕は知っている。
手ずから淹れてくれたお茶が美味しいのは高級な茶葉だからだけじゃない。
僕は、狐獣人のこの僕は、侯爵令嬢である彼女に恋をしているのだ。
特待生として通った学園で、廊下を歩く姿を初めて見たとき、その美しさに言葉を失った。
整った顔立ちと艶やかな長い髪、しなやかで瑞々しい体躯──違う、見た目だけの美しさじゃない。
正直言って、男爵令嬢が現れる前から、彼女が婚約者である王太子に女性として見られていないことは知れ渡っていた。だけど嘲笑混じりの視線の中、彼女は凛とした表情で背筋を伸ばし、真っ直ぐに歩いていた。その心が美しいと思ったのだ。
たぶん無理もしていただろうし、見栄も張っていたのだと思う。
でも、教団に住んでいた集落を追い出されてから生きるのに必死で、盗んだり騙したりすることも生きるためだから仕方がないと嘯く仲間の間で暮らしていた僕には、彼女の姿は輝いて見えた。
犯罪こそ犯していないものの、僕の人生も綺麗なわけじゃない。特待生として学園に通えたのは、美人の姉がこの王国の貴族に見初められて愛人になったからだ。金で姉を売ったようなものだ。
僕には侯爵令嬢が眩しく見えた。
彼女を政略的に決められた婚約者として、道具のように扱っている王太子が信じられなかった。
どうして彼女を愛さずにいられるんだろう。どうしてあんな冷たい目で彼女を見るんだろう。
男爵令嬢が現れて、王太子が侯爵令嬢に冷たい理由がわかった。
あの男は莫迦なのだ。
自分の隣に立つために己を高め、凛として生きている彼女よりも、わかりやすく媚を売って機嫌を取り、簡単に股を開くことを主張する女のほうが好きなだけだったのだ。
なのに、彼女はそんな莫迦な男に恋をして、無慈悲な扱いに心を凍らせていく。
正直なところ、男爵令嬢が王太子と側近達のだれにも恋心を抱いていないことは、特待生として学園に通っていた獣人すべてが気づいていた。匂いでわかるのだ。
王太子と側近達が獣人の言うことなんて聞くわけないと知っていたけど、侯爵令嬢なら話を聞いてくれたかもしれなかったな。……いや、王太子と側近達は侯爵令嬢からの話も聞かなかっただろう。実際、彼女やほかの側近の婚約者達の如何なる忠告も諫言も、彼らの耳には届いていなかったもんね。
「僕と君が目の前でキスしたら、王太子殿下にもっと復讐できたかな」
「ふえっ」
ふざけて言うと、驚いた彼女は可愛い声を出した。
一瞬胸は痛んだが、ついこの間まで王太子の婚約者だった侯爵令嬢が形だけの婚約者である狐獣人とキスなんてするはずがない。彼には当てつけではないと言っていたけれど、当てつけなのは明白だ。
僕は急いで笑みを作る。
「ごめんごめん。形だけの婚約をした狐獣人とキスするなんて嫌だよね」
「そ、そんなことはない、わ……」
優しい言葉が嬉しい。
僕は獣人の地位向上のため、彼女は王太子への復讐のため。形だけの婚約だっていい。今、この瞬間の彼女は僕のものだ。
いつか獣人がこの王国の人間と対等になれたとしても、それだけで僕が彼女に相応しい男になれるとは思えない。侯爵家のご当主と跡取りだって、王太子への意趣返しとして僕との婚約を結ばせただけだろう。
……それでも。いつかこの関係が消えてなくなるのだとしても、偽りの関係が結ばれている間に彼女の顔に本当の微笑みを取り戻せたら、僕はどれだけ嬉しいことか。
獣人は匂いがわかりにくい人間の女性が、ふとしたときに漂わせる甘い香りの虜になって、それが恋だと思い込むときがある。多くの国で獣人に対する扱いが酷いのは、思い込んだ獣人の男が人間の女性にしつこく付き纏ったせいもあるのだ。
とはいえ、今の僕の気持ちは単なる思い込みなんかじゃない。
ふたりの関係が幻のようにあやふやなものなのは事実だが、彼女、形だけの婚約者である侯爵令嬢を思う僕の気持ちは幻じゃない。
幻じゃないことを僕は知っている。
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