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第五話 もう一度十年前
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体全体が燃え盛っているような苦しみから、いきなり解放されました。
私は死んだのでしょう。
邪魔者の私がいなくなって旦那様が、ピラール様が幸せになってくれると良いのですけれど。
もう喉も痛くありません。
優しい風が私を包んでいます。
ピラール様を不幸にしてしまった私なのに、まさか善良な死者が行くという楽園に来ているのでしょうか。
そんなこと、あるはずがないのに──私は瞳を開きました。
目の前にはひとりの男性がいます。
黒い髪に……ピラール様とは違う紫色の瞳の青年です。生前の父が親しくしていたアロンソ商会の跡取り息子のホセ様です。彼は、婚約破棄された傷物令嬢の私を妻にと望んでくれたのです。
ここは実家の中庭でした。
私とホセ様はテーブルを囲んで座っています。
テーブルにはお茶とお菓子が並べられていました。どちらもホセ様が持ってきてくださった高価な帝国の商品です。周囲にはもちろん侍女と従者もいます。
「マルガリータ様? どうしたのです? よろしければ、これを……」
私は無意識に泣いていたようです。
ホセ様がご自分のハンカチを差し出してくださいます。
そこには雛菊と暗い青色の鳥が刺しゅうされていました。幼い子どもの作品だとわかる拙い出来です。
「ありがとうございます。ホセ様、これは……」
アロンソ商会の本拠地はこの王国ではなく、海を渡ったところにある帝国です。
ふたつの国を船で行き来している彼の肌は日に焼けて浅黒く、逞しさが感じられました。
そのくせ顔立ちは端正で貴族的なのです。整ったお顔で、ホセ様は悪戯っ子のような笑みを浮かべます。私の死を確信したピラール様が口角を上げたときの表情とはまるで違います。
「本当は初夜にお見せして、俺の愛を感じていただくつもりでした。貴女は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、ご両親がお元気だったころ、兄君と一緒に船を見学に来て俺にくださったのですよ」
「こ、こんな未熟な品を差し上げて申し訳ありません」
「いいえ、とんでもない。俺は母を亡くしたところでしたからね。女性の優しさが籠ったものをいただけて、とてもとても嬉しかったのですよ」
渡されたハンカチで涙を拭くのも忘れて、私は俯きました。
恥ずかしくてたまらなかったのです。
昔からこの意匠が大好きだったのは間違いありませんが、おそらくこれはピラール様に贈る予定だったハンカチの練習作です。こんなものを人様に差し上げていただなんて。
「申し訳ありません、ホセ様。こちらはお返しいただけないでしょうか。もっと良いものを代わりに贈らせていただきますので」
「もっと良いもの? そうですね、貴女が俺と結婚してくださって、暗い青色ではなく紫色の糸で刺しゅうしたハンカチをくださるのなら、交換しても良いですよ」
「結婚……」
その言葉に、体全体が燃え盛っているような苦しみを感じていたときのことを思い出します。
あれは夢だったのでしょうか。
いいえ、いいえ、違います。あれは本当の十年後です。愚かな私の末路です。もう二度と間違えないと誓ったから、優しいだれかが時間を戻してくださったのでしょうか。
ホセ様の溜息が聞こえます。
「……俺との結婚は、そんなにお嫌ですか?」
今の私は、相当酷い顔をしているのでしょう。
でもホセ様のせいではありません。悪いのは私なのです。
だけどこんなことを話して信じていただけるのでしょうか。
「ちが、違うのです。ホセ様が嫌なのではありません。自分が、私のことが嫌なのです。愚かで浅はかで、周囲を不幸にすることしか出来ない私が……」
「貴女はそんな方ではありませんよ。貴女にいただいたそのハンカチは、何度も俺を救ってくれました。……たとえ貴女に婚約者がいようとも、俺のことなど心になくても、貴女が幸せで笑ってくれている姿を想うだけで、どんな嵐も乗り越えられたのです」
お願いです、とホセ様は今にも泣き出しそうな紫色の瞳に私を映します。
「笑ってください。俺が嫌でもいい。下女と駆け落ちして行方不明の子爵家のご令息を今も想ってらっしゃってもいい。でも、ご自分の幸せだけは諦めないでください」
そんなことを言われたのは、この十年で初めてでした。
いいえ、兄も義姉も、お義母様もお義父様も私の幸せを願ってくれていたのに、ピラール様に固執する醜い私の心が幸せを遠ざけていたのです。
私……私が望むのは、私の幸せは……
私は死んだのでしょう。
邪魔者の私がいなくなって旦那様が、ピラール様が幸せになってくれると良いのですけれど。
もう喉も痛くありません。
優しい風が私を包んでいます。
ピラール様を不幸にしてしまった私なのに、まさか善良な死者が行くという楽園に来ているのでしょうか。
そんなこと、あるはずがないのに──私は瞳を開きました。
目の前にはひとりの男性がいます。
黒い髪に……ピラール様とは違う紫色の瞳の青年です。生前の父が親しくしていたアロンソ商会の跡取り息子のホセ様です。彼は、婚約破棄された傷物令嬢の私を妻にと望んでくれたのです。
ここは実家の中庭でした。
私とホセ様はテーブルを囲んで座っています。
テーブルにはお茶とお菓子が並べられていました。どちらもホセ様が持ってきてくださった高価な帝国の商品です。周囲にはもちろん侍女と従者もいます。
「マルガリータ様? どうしたのです? よろしければ、これを……」
私は無意識に泣いていたようです。
ホセ様がご自分のハンカチを差し出してくださいます。
そこには雛菊と暗い青色の鳥が刺しゅうされていました。幼い子どもの作品だとわかる拙い出来です。
「ありがとうございます。ホセ様、これは……」
アロンソ商会の本拠地はこの王国ではなく、海を渡ったところにある帝国です。
ふたつの国を船で行き来している彼の肌は日に焼けて浅黒く、逞しさが感じられました。
そのくせ顔立ちは端正で貴族的なのです。整ったお顔で、ホセ様は悪戯っ子のような笑みを浮かべます。私の死を確信したピラール様が口角を上げたときの表情とはまるで違います。
「本当は初夜にお見せして、俺の愛を感じていただくつもりでした。貴女は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、ご両親がお元気だったころ、兄君と一緒に船を見学に来て俺にくださったのですよ」
「こ、こんな未熟な品を差し上げて申し訳ありません」
「いいえ、とんでもない。俺は母を亡くしたところでしたからね。女性の優しさが籠ったものをいただけて、とてもとても嬉しかったのですよ」
渡されたハンカチで涙を拭くのも忘れて、私は俯きました。
恥ずかしくてたまらなかったのです。
昔からこの意匠が大好きだったのは間違いありませんが、おそらくこれはピラール様に贈る予定だったハンカチの練習作です。こんなものを人様に差し上げていただなんて。
「申し訳ありません、ホセ様。こちらはお返しいただけないでしょうか。もっと良いものを代わりに贈らせていただきますので」
「もっと良いもの? そうですね、貴女が俺と結婚してくださって、暗い青色ではなく紫色の糸で刺しゅうしたハンカチをくださるのなら、交換しても良いですよ」
「結婚……」
その言葉に、体全体が燃え盛っているような苦しみを感じていたときのことを思い出します。
あれは夢だったのでしょうか。
いいえ、いいえ、違います。あれは本当の十年後です。愚かな私の末路です。もう二度と間違えないと誓ったから、優しいだれかが時間を戻してくださったのでしょうか。
ホセ様の溜息が聞こえます。
「……俺との結婚は、そんなにお嫌ですか?」
今の私は、相当酷い顔をしているのでしょう。
でもホセ様のせいではありません。悪いのは私なのです。
だけどこんなことを話して信じていただけるのでしょうか。
「ちが、違うのです。ホセ様が嫌なのではありません。自分が、私のことが嫌なのです。愚かで浅はかで、周囲を不幸にすることしか出来ない私が……」
「貴女はそんな方ではありませんよ。貴女にいただいたそのハンカチは、何度も俺を救ってくれました。……たとえ貴女に婚約者がいようとも、俺のことなど心になくても、貴女が幸せで笑ってくれている姿を想うだけで、どんな嵐も乗り越えられたのです」
お願いです、とホセ様は今にも泣き出しそうな紫色の瞳に私を映します。
「笑ってください。俺が嫌でもいい。下女と駆け落ちして行方不明の子爵家のご令息を今も想ってらっしゃってもいい。でも、ご自分の幸せだけは諦めないでください」
そんなことを言われたのは、この十年で初めてでした。
いいえ、兄も義姉も、お義母様もお義父様も私の幸せを願ってくれていたのに、ピラール様に固執する醜い私の心が幸せを遠ざけていたのです。
私……私が望むのは、私の幸せは……
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