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最終話 侯爵令嬢は好きにしました。
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実際のところは、書類の内容を確認せずに署名をしたことだけが婚約が白紙撤回となった理由ではありません。渋る国王陛下に止めを刺したのは事実ですけれど──
学園の卒業パーティが終わった帰り道、私は隣に座る夫の肩に頭を預けて馬車に揺られていました。
長い金の髪が私の頬をくすぐります。
「……ねえ貴方」
「なんですか? 眠いのなら眠っても良いのですよ。いつものようにベッドまで抱いて運んで差し上げます。……ベッドに着いたら起こしてしまうかもしれませんが」
婚約が白紙撤回されて、彼と結婚してからの日々を思い出して、私は顔が熱くなるのを感じました。
「そうではなくて、その……貴方がその髪に込めた願いとはなんなのですか?」
「話していませんでしたか?」
「はい、お聞きしていません。とても気になっていたのですけれど、毎日慌ただしかったので」
「そうですね。国王陛下に婚約の白紙撤回を認めていただいて、新居を選んで籍を入れて、私が貴女を愛していることを全身で理解していただいて……本当に慌ただしい毎日でしたね。貴女に無理をさせていなければ良いのですが」
「無理はしていませんわ。貴方は……いつも優しいので」
好きにする──第一王子殿下との婚約を解消したいと思い立ち、父と兄に相談したときは、まさか彼が協力してくれるとは思いませんでした。
第一王子殿下の署名の件がなかったとしても、国王陛下はいずれ婚約解消を認めてくださったに違いありません。
なにしろこの王国の生命線を握る商会の会頭が、私と第一王子殿下の婚約解消を認めなければすべての店舗と事務所を引き上げて帝国へ移転すると言ったのですから。
いくら力を持つ侯爵家とはいえ、いいえ、だからこそ溺愛されている第一王子殿下との婚約解消を侯爵家のほうから申し出て国王陛下に認められるのは難しかったでしょう。
私が第一王子殿下の仕打ちに苦しんでいることに心を痛めながらも、父と兄が手をこまねいていたのは国王陛下を黙らせる決め手がなかったからなのです。
……前の私は婚約者が初恋の人だと思い込んで我慢していましたしね。
夫が力を貸してくれて、本当に助かりました。それに、そもそも第二王子殿下を王太子に選んだほうが、隣国との関係が回復してこの王国のためになります。
婚約が解消、もとい白紙撤回されただけでも嬉しかったのに、私の初恋の人は求婚までしてくださいました。
どうして、としばらくは信じられませんでしたが、彼は言葉と体で私に信じさせてくれたのです。
肩を抱いた手で優しく私の髪を梳っていた夫が、ああ、と微笑みます。
「どうして髪を伸ばしているかの話をしていたのでしたね。貴女を見つめているだけで幸せな気分になって蕩けていました。大切な貴女の質問に答えるのが遅くなって申し訳ありません」
「いいえ。……私も質問したことを忘れて貴方に見惚れていましたから」
「ふふ。嬉しいことを言ってくださいますね、私の初恋の人は」
「あ」
軽く私の髪をかき上げて頬に口付け、夫は話してくれました。
「この髪に懸けた願いは貴女の幸せです」
「私の……?」
「はい。植え込みに隠れて泣いていた貴女を見つけたとき、私は貴女に恋をしたのです。ですが商会の未来の会頭だった私は、独自の情報網で侯爵令嬢である貴女が第一王子の婚約者に内定していることを知っていました」
「あのとき、もう決まっていたのですか?」
「どんなに国王に溺愛されていても、後ろ盾が妾妃の実家だけでは第一王子を王太子に選ぶことは出来ません。王家の資産は有限なのです。正妃様だってご実家の隣国からの密かな支援がなければ身の回りを整えることも難しいでしょう」
「だから侯爵令嬢の私が……」
夫の緑色の瞳が切なげに私を映します。
「あのころはまだ、私の商会に王家を上回る力はなかった。財産だけなら当時から勝っていたかもしれませんが、力のないものが金を振り回しても奪われるだけです。私は貴女を諦めるしかありませんでした。でもだからといって貴女が不幸になるのは耐え難かった。それで髪を伸ばして願ったのです。……貴女の幸せを」
「ありがとうございます」
「私のためです。義兄君に貴女の好みを聞いて、それに合わせた商品を仕入れてお持ちしたのも、貴女の笑顔が見たかった私のためです」
「私が幸せになったらお切りになるのですか? でしたら、もう……」
婚約がなくなり、初恋の人と結婚して、毎日毎晩愛を注がれて──自分の好きに生きるようにしてから、私は幸せしか感じていません。
私の初恋の人はイタズラな笑みを浮かべました。
「貴女が私との結婚生活を幸せだと感じてくださっているのは嬉しいですが、睦み合った後で汗ばんでいる貴女の身体に私の髪が絡みついているのを見ると、貴女が本当に私の妻になってくれたのだと実感出来るので、しばらくはこのままでいさせてください」
「……もう!」
愛する夫にからかわれた私は、頬をくすぐっていた夫の髪を掴んで引っ張ったのでした。
痛いですよ、と怒った夫が、笑いながら私の唇に口付けてくれるまで──
学園の卒業パーティが終わった帰り道、私は隣に座る夫の肩に頭を預けて馬車に揺られていました。
長い金の髪が私の頬をくすぐります。
「……ねえ貴方」
「なんですか? 眠いのなら眠っても良いのですよ。いつものようにベッドまで抱いて運んで差し上げます。……ベッドに着いたら起こしてしまうかもしれませんが」
婚約が白紙撤回されて、彼と結婚してからの日々を思い出して、私は顔が熱くなるのを感じました。
「そうではなくて、その……貴方がその髪に込めた願いとはなんなのですか?」
「話していませんでしたか?」
「はい、お聞きしていません。とても気になっていたのですけれど、毎日慌ただしかったので」
「そうですね。国王陛下に婚約の白紙撤回を認めていただいて、新居を選んで籍を入れて、私が貴女を愛していることを全身で理解していただいて……本当に慌ただしい毎日でしたね。貴女に無理をさせていなければ良いのですが」
「無理はしていませんわ。貴方は……いつも優しいので」
好きにする──第一王子殿下との婚約を解消したいと思い立ち、父と兄に相談したときは、まさか彼が協力してくれるとは思いませんでした。
第一王子殿下の署名の件がなかったとしても、国王陛下はいずれ婚約解消を認めてくださったに違いありません。
なにしろこの王国の生命線を握る商会の会頭が、私と第一王子殿下の婚約解消を認めなければすべての店舗と事務所を引き上げて帝国へ移転すると言ったのですから。
いくら力を持つ侯爵家とはいえ、いいえ、だからこそ溺愛されている第一王子殿下との婚約解消を侯爵家のほうから申し出て国王陛下に認められるのは難しかったでしょう。
私が第一王子殿下の仕打ちに苦しんでいることに心を痛めながらも、父と兄が手をこまねいていたのは国王陛下を黙らせる決め手がなかったからなのです。
……前の私は婚約者が初恋の人だと思い込んで我慢していましたしね。
夫が力を貸してくれて、本当に助かりました。それに、そもそも第二王子殿下を王太子に選んだほうが、隣国との関係が回復してこの王国のためになります。
婚約が解消、もとい白紙撤回されただけでも嬉しかったのに、私の初恋の人は求婚までしてくださいました。
どうして、としばらくは信じられませんでしたが、彼は言葉と体で私に信じさせてくれたのです。
肩を抱いた手で優しく私の髪を梳っていた夫が、ああ、と微笑みます。
「どうして髪を伸ばしているかの話をしていたのでしたね。貴女を見つめているだけで幸せな気分になって蕩けていました。大切な貴女の質問に答えるのが遅くなって申し訳ありません」
「いいえ。……私も質問したことを忘れて貴方に見惚れていましたから」
「ふふ。嬉しいことを言ってくださいますね、私の初恋の人は」
「あ」
軽く私の髪をかき上げて頬に口付け、夫は話してくれました。
「この髪に懸けた願いは貴女の幸せです」
「私の……?」
「はい。植え込みに隠れて泣いていた貴女を見つけたとき、私は貴女に恋をしたのです。ですが商会の未来の会頭だった私は、独自の情報網で侯爵令嬢である貴女が第一王子の婚約者に内定していることを知っていました」
「あのとき、もう決まっていたのですか?」
「どんなに国王に溺愛されていても、後ろ盾が妾妃の実家だけでは第一王子を王太子に選ぶことは出来ません。王家の資産は有限なのです。正妃様だってご実家の隣国からの密かな支援がなければ身の回りを整えることも難しいでしょう」
「だから侯爵令嬢の私が……」
夫の緑色の瞳が切なげに私を映します。
「あのころはまだ、私の商会に王家を上回る力はなかった。財産だけなら当時から勝っていたかもしれませんが、力のないものが金を振り回しても奪われるだけです。私は貴女を諦めるしかありませんでした。でもだからといって貴女が不幸になるのは耐え難かった。それで髪を伸ばして願ったのです。……貴女の幸せを」
「ありがとうございます」
「私のためです。義兄君に貴女の好みを聞いて、それに合わせた商品を仕入れてお持ちしたのも、貴女の笑顔が見たかった私のためです」
「私が幸せになったらお切りになるのですか? でしたら、もう……」
婚約がなくなり、初恋の人と結婚して、毎日毎晩愛を注がれて──自分の好きに生きるようにしてから、私は幸せしか感じていません。
私の初恋の人はイタズラな笑みを浮かべました。
「貴女が私との結婚生活を幸せだと感じてくださっているのは嬉しいですが、睦み合った後で汗ばんでいる貴女の身体に私の髪が絡みついているのを見ると、貴女が本当に私の妻になってくれたのだと実感出来るので、しばらくはこのままでいさせてください」
「……もう!」
愛する夫にからかわれた私は、頬をくすぐっていた夫の髪を掴んで引っ張ったのでした。
痛いですよ、と怒った夫が、笑いながら私の唇に口付けてくれるまで──
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