豆狸2024読み切り短編集

豆狸

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四月:婚約者の裏切り

今はまだ笑えません。【そのとき】

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 今日は一日笑顔で過ごそうと思っていました。
 でも出来ませんでした。
 婚約者のステファン様が薔薇の花束をくださったのですもの。

「いろいろあったけれど、僕も反省したんだ。これからはまた、婚約者同士として仲良くやって行きたいと思っている」

 薔薇には無数の棘があります。
 すべて抜き取るなんて難しいことです。
 残されたひとつが花束を受け取った私の指を刺して、赤い血をしたたらせました。

「大丈夫かい、シャルロット! ごめん、棘が残っていたんだね」

 痛みよりも激しい感情が私を包み、歪んだ顔を涙がしたたり落ちました。
 ステファン様が慌てて、ハンカチを出して私の手を包みました。
 そのハンカチには覚えがあります。幼い日、私が婚約者のステファン様のために初めて刺しゅうしたものです。涙が勢いを増しました。

 涙も血液もなかなか止まりません。
 しばらくして手を離れたハンカチには、かなりの血痕が残っていました。
 私はステファン様に言いました。

「ごめんなさい、ステファン様。そのハンカチをお預かりして、洗ってからお返ししたので良いかしら?」

 愚かな私は、まだ期待していたのです。
 すべては偶然なのだと、私とお母様の推測とは違うのだと、ステファン様は善意で薔薇をくださって善意でハンカチを出してくださったのだと……信じたかったのです。
 ですが、そのハンカチを出したことまで計算のうちだったのでしょう。彼は微笑みを浮かべました。

「それには及ばないよ。……覚えてないかな? これは君が僕にくれた、君が初めて刺しゅうしたハンカチなんだ。これが僕から離れていると不安でね。だからこのまま持って帰るよ」

 そうですね、その刺しゅうは我が伯爵家の紋章です。神殿での手続きの日に、ソルシエのものだと言って持って行っても怪しまれませんものね。
 いいえ、我が伯爵家ではありません。
 お母様は伯爵家当主のお父様と離縁して、私は絶縁したのですもの。

 今日は私達親娘が伯爵家で過ごす最後の日。
 明日には船でお母様の遠縁が暮らす外国へと旅立ちます。
 ハンカチをお預かりしたとしても、いつ返せるかわかりませんでしたわ。

「……シャルロット、どうしたの? まだ指が痛いのかい?」

 私は指先で、少し乱暴に涙を拭いました。
 血塗れのハンカチを借りるわけにはいきませんものね。
 涙は止まりましたけれど、引き攣る顔を笑みに変えることは出来ませんでした。せっかくソルシエが乱入して来なくて、ステファン様とふたりきりで過ごせる大切なお茶会の日なのに、今はまだどうしても笑えません。

 私は体調が悪いことにして、ステファン様に帰っていただくことにしました。
 なんとも締まらない最後の日です。
 もっともステファン様は最初から知りません。私とお母様が伯爵家を出て行くことも、私と彼の婚約が今日で解消されることも。

 まで、ステファン様とソルシエには秘密にしてくれと父に頼んだのです。
 父は喜々として受け入れてくれました。
 だって、そうしてくれたらお母様の持参金と母方の実家からのこれまでの援助金を返済しなくても良いと約束したのですもの。そうでなければ、どんなにソルシエを愛していても、私を跡取りから外して絶縁することを受け入れはしなかったでしょう。

 、神殿で父はステファン様とソルシエに告げるでしょう。
 私とお母様がいなくなったこと、伯爵家の正式な跡取りはソルシエになること、ステファン様とソルシエを婚約させるということを。
 ふたりと、たぶん下町から呼び寄せられているだろうソルシエの母親はどんな顔をするでしょう。ああ、父はソルシエの母親を伯爵夫人にするとも言うかもしれませんね。

 ソルシエは父の愛人が産んだ娘です。
 傾きかけていた伯爵家がお母様の持参金で立ち直った途端、浮かれる父に擦り寄って来たのがソルシエの母親です。
 彼女は景気が良くなった伯爵家で雇った新米メイドでした。

 ソルシエ親娘は王都の下町で囲われていました。
 この王国の貴族子女が通う学園にソルシエが入学する年に、父が母に無理を言って彼女を引き取ったのです。
 そして、ソルシエは私の婚約者のステファン様と恋に落ちました。ステファン様は、伯爵家の跡取りとして必死に勉強していた私を可愛げがないと言って嫌っていらしたのです。

 でもそれは私とステファン様が学園へ入学してからのことで、幼いころは仲良くしていたときもありました。
 愛人のところへ通う父の姿に義憤を燃やして、僕は結婚したらシャルロットを大事にするよ、と言ってくださったこともあったのです。
 あのハンカチだって喜んで受け取ってくださって……

 また涙がこぼれてしまいました。
 泣いていても仕方がないのに。
 伯爵家を出る準備は済んでいますが、ステファン様のご実家への手紙はこれから書くのです。最後の瞬間まで信じていたかったし、迂闊なことはお伝え出来なかったので書かずにいたのです。

 ステファン様は私の婿になって、伯爵家当主の配偶者としてソルシエを囲うつもりだったのでしょう。
 ほかの女性ならいざ知らず、最愛のソルシエなら父も文句は言わないでしょう。
 ソルシエの見た目は美しいですが、異母姉ということになっている人間の婚約者と不貞を働く姿を学園で目撃されていたので、真面マトモな縁談がないのです。

 それとはべつに、学園を卒業したソルシエは本当に父の子どもかどうかを神殿で確認されます。
 神殿には血で親子関係を確認する技術があるのです。
 跡取りでなければ事前に布に染み込ませた血で良いのですけれど、跡取りの場合は欺瞞がないようにその場で指に針を刺して出した血で確認します。

 私の血を染み込ませたハンカチを持って、意気揚々と神殿へ来たステファン様とソルシエは、父にどんな言い訳をすることでしょう。
 目の前でソルシエが自分の娘でないと知った父は、どんな顔をすることでしょうか。
 お母様が言っていました。ソルシエの耳は母親のメイドでも伯爵の父でもなく、当時伯爵家にいてメイドに人気だった若い料理人と同じ形なのだと。その男は女性関係で刃傷沙汰になって伯爵家を去りましたが、案外ソルシエの母親が囲われていた家の近くに住んでいるのかもしれません。

 考えていても仕方がありません。
 早く手紙を書きましょう。
 ステファン様のご家族はどうなさるでしょうか。ステファン様に事情を話して、愚行を止めさせるでしょうか。それともステファン様と絶縁して、自分達は関係ないことにするのでしょうか。

 まったくの他人が貴族家の血縁をかたるのは犯罪です。
 今回の場合は父がソルシエを跡取りにしようとしていたので、お家乗っ取りとしてかなりの重罪になるでしょう。
 ステファン様がなにも知らないと言っても聞いてもらえるはずがありません。彼は不仲な婚約者に棘を残した薔薇の花束を贈って、わざわざ伯爵家の嫡子の血痕を求めたのですから。ソルシエ親娘に父と血縁でないという自覚がなければ、そんなことなどしなかったでしょう。

 どちらにしてもステファン様に輝ける未来は待っていないはずです。
 神殿での父の顔を想像して母は笑っていました。
 だけど私はまだ、今はまだのステファン様の顔を想像しても笑えませんでした──

★ ★ ★ ★ ★

 、ステファンは知った。
 シャルロットとの婚約が解消されていたこと、元婚約者とその母親は旅行に行っていたのではなく伯爵家と絶縁して出て行ったのだということ、そして、自分が実家に絶縁された理由を──
 親子関係の確認を拒んで逃げ出そうとしたソルシエとその母は神殿騎士に捕まって、ステファンにそそのかされたのだと泣き叫んでいる。事情を悟った伯爵は、呆然とした表情で床に膝をついている。彼は、シャルロットが生まれてしばらくして、愛人ソルシエの母から移された熱病がもとで子種を失ったのだ。

 お家乗っ取りは重罪だ。
 しかし、すでに絶縁されているから、ステファンの実家に累が及ぶことはないだろう。
 学園在学時からソルシエとの関係に苦言を呈していた両親と兄は、ステファンが心を入れ替えた振りをしてシャルロットに婿入りさえすれば許してくれると思っていた。だが、そんな日は永遠に来ないことも理解出来た。

 シャルロットはさとい娘だった。
 突然態度を変えたステファンを見て事情を察し、実家へ忠告してくれたのだろう。
 学園で教師やほかの生徒達にふたりの成績を比べられるまでは、ステファンはシャルロットの聡明さを好ましく思っていた。ひとりで捻くれて彼女を罵るようになってからも、ソルシエが現れるまでのシャルロットは、当主とその配偶者の役割は違うと、ステファンの良いところを見つけて教えてくれていた。

(ごめん、シャルロット……)

 ソルシエが伯爵の血筋でないと証明された後、ステファンは神殿騎士達によって尋問部屋へと運ばれていった。
 一緒に移動させられているソルシエ親娘は相変わらず、ステファンひとりに罪を着せようと一所懸命に泣き叫んでいる。
 跡取り娘として感情を制御しているシャルロットよりも、感情豊かなソルシエのほうが魅力的に見えた日が遠い昔に思えた。

(遠い昔……シャルロットの笑顔を見たのは、遠い遠い昔……)

 最後に会った日のシャルロットは、どんなに笑おうとしても笑えないでいるのがわかった。
 これまでソルシエと浮気していたステファンが、いきなり薔薇の花束など持ってきたことに戸惑っていたのだと思っていたが、そうではなかったわけだ。
 ステファンは、もう一度シャルロットの笑顔を見たいと思った。

 の彼女は外国へ向かう船上にいた。
 親娘ふたりの楽しい船旅で心の傷も癒え、仕事に夢中で婚期を逃した少し年上の商人と知り合ったシャルロットは、跡取り教育で学んだことを興味深そうに聞いてくれる彼に心を開いて微笑んでいた。
 とはいえステファンが、蘇った彼女の笑顔を見られる日は、もう来ない。

<終>
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