魅了だったら良かったのに

豆狸

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後編 セシル

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 ストゥルトゥスが男爵家の当主として署名しなくてはいけない書類は、王太子だったころの十分の一もない。
 外向きの仕事、男爵家が昔からしている真っ当な仕事は代官に任せている。
 元王太子のストゥルトゥスが顔を出すと相手が委縮してしまい、便宜を図れと脅迫したのと同じような結果になるからだ。

 男爵家に婿入りした最初のころ、何度か交渉に顔を出したことで相手から王家に不満が寄せられて、新しい王太子となった弟から注意状が届いた。
 それからは男爵家の仕事に関わり過ぎないようにしている。
 自分によく似た子どもも将来苦労することだろう。

 書類への署名は月初の数日で終わるので、今日のストゥルトゥスは王都にある倶楽部に来ていた。
 貴族男性が酒や盤上遊戯を楽しむ場所だ。
 女性の立ち入りが禁止で働いているのが男性ばかりなので、ストゥルトゥスが浮気するのではないかとミセリアが気を病むこともない。ただでさえ男爵領に彼女を置いて王都へ行きたがることで不安にさせているのだ。

 子どもを産んで一年経つが、彼女はまだ社交界に復帰していない。
 婚約者のいた元王太子を略奪した女なのだ。
 いつ社交界に顔を出せるのかもわからない。

(私のせいだ。私がミセリアと不貞をしてしまったからいけないんだ。だけど、でも……)

 若い男性にとって若い女性の体は猫にとってのマタタビのようなもの。
 ミセリアがストゥルトゥスに体を許さなかったら、自分はここまで彼女に傾倒しなかったのではないかと思ってしまうのだ。
 本来の婚約者でもなく、実家の力も大きく劣るミセリアがストゥルトゥスの心を掴むには、ほかの手段はなかったのだろう。それでももう少し貴族令嬢の慎みを持っていてくれたなら、と身勝手なストゥルトゥスは思ってしまう。彼女はただ、ストゥルトゥスを愛しただけなのに──婚約者のいる身で、婚約者のいる相手を。

 過去を捨てたストゥルトゥスは、これからも自分を殺して生きていく。
 だけどミセリアはそれを、幸せでしょう、と微笑むのだ。
 死んだように生きていくしかないこの暮らしを、ストゥルトゥスが最初から望んでいたかのように。

「ストゥルトゥス」

 倶楽部の部屋の隅で酒を飲んでいたストゥルトゥスに影が差した。
 顔を上げると公爵令息ジェイミーの姿があった。
 彼は持っていた酒杯を軽く上げて見せた。

「祝ってくれよ、男爵閣下。僕も公爵家の当主になったんだ」
「お父上になにかあったのか?」
「いいや? 聞いてないかい? 妻が子どもを産んだんだ。男の子で、名前はセシル。父上は可愛い孫に一番最初に名前を呼ばれたいからって、引退して付きっ切りになってるんだ」
「セシル……良い名前だな」

 その名前の由来をストゥルトゥスは知っていた。
 サーシャは八歳のころからストゥルトゥスの婚約者だった。幼い彼女が大好きだった物語に出てくる素敵なお姫様の名前なのだ。
 男女どちらにも使える名前だから、最初の子どもはその名前にしたいと言っていた。

「瞳は青色か?」
「うん。僕と同じ青色だよ。妻と同じ緑色でも良かったんだけどね」

 ジェイミーはサーシャの名前を口にしない。
 ストゥルトゥスに気を遣ってくれているのだろう。
 気安い口調は昔からのもので、ストゥルトゥスが自分より身分が低くなったことで侮っているわけではない。むしろ前と変わらないジェイミーの態度が、今のストゥルトゥスには嬉しかった。

(ミセリアの言う通り、これで良かったんだ……)

 自分が男爵令嬢を抱いた時点で、やり直す道など消え失せたのだ。
 ストゥルトゥスの中には奇妙な記憶が存在していた。学園の裏庭で出会った少年が消えた夜に夢で経験した、今とは違う人生の記憶である。
 元婚約者のサーシャを正妃としてミセリアを側妃に迎えた人生だ。

 初夜以降、ストゥルトゥスはサーシャのもとを訪れることはなかった。
 公務は正妃であるサーシャと彼女の産んだ嫡子である息子と同行していたが、息子に声をかけた覚えはない。
 息子のほうから声をかけてくることもなかった。彼はいつも怒りと悲しみを飲み込んだ瞳に父親であるストゥルトゥスを映していた。

 正妃であるサーシャの葬儀で、ストゥルトゥスは初めて息子の声を聞いた。
 自分とよく似た男にしては少し甲高い声だった。
 その青い瞳にはもう怒りも悲しみもなく、生命の輝きすらなく、父親から受け継いだ銀の光だけが煌めいていた。

『私は王位継承権を放棄して、母の実家へ養子に入ろうと思います。侯爵家を継いだ伯父上にはご子息がいらっしゃいますが、いくつか持つ爵位のひとつを譲ってくださると言われましたので』

 それから彼は感情のない笑みを浮かべて、これで満足ですか、とストゥルトゥスに問うた。
 記憶はそこで止まる。
 あの日学園の裏庭で会ったのは未来から来た息子だったのだろうか。いいや、とストゥルトゥスは思う。彼は侯爵家で幸せに過ごしたはずだ。過去を変えたかったのはストゥルトゥスのほうだ。

「ジェイミー。君が、君達が幸せそうで嬉しいよ」
「ありがとう、ストゥルトゥス。……君も幸せなのだろう?」
「……ああ」

 奇妙な記憶の中にあったサーシャとの息子の名前はセシル。
 一度も呼ぶことのなかった名前を胸の奥に飲み込んで、ストゥルトゥスは酒杯を傾けた。
 魅了ではなかった。ストゥルトゥスがミセリアを選んだのだ。だから、この先の人生も甘んじて受け入れなくてはいけない。

「乾杯しよう、ジェイミー」
「なにに?」
「君の息子に」
「はは、ありがとう」

 銀の光の代わりに生命の輝きを得たのであろうセシルの幸せをストゥルトゥスは祈った。
 もう、ほかに出来ることはない。
 自分が父親にならないことこそが、彼への一番の贈り物だとストゥルトゥスは知っている。
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