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閑話 ビーヘル侯爵
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卒業パーティから三日が過ぎても、ビーヘル侯爵はハリエット絶縁の手続きを取らずにいた。
第二王子ルドフィクスには卒業パーティの日のうちに済ませておくと約束していたのだが、どうしても出来なかった。
絶縁届を執務室の机の引き出しから出すたびに、王都の侯爵邸へ入ろうとした瞬間に降り出した土砂降りのことが頭に過ぎるのだ。
あのとき、侯爵の隣には最愛の娘であるはずのフルーフがいた。
ハリエットは従者に命じて先に侯爵邸へ戻らせていた。
自分とフルーフの母親との間を引き裂いた、憎くて憎くてたまらない政略結婚相手の正妻が産んだ娘になど愛はない。婚約者の第二王子にも見捨てられたハリエットは侍女と従者だけを引き連れて、ひとりで馬車に乗って会場へ来ていたのだ。
(……光の加減だ)
ビーヘル侯爵はそう思う。
そう思い込もうとする。
紅玉のように光り輝く赤い髪はビーヘル侯爵家の血筋の証だ。侯爵家を加護する炎の精霊王に愛されて、強い魔力を持って生まれたことの証明でもある。
今、その赤い髪を持つのはこの王国に三人だけだ。
ビーヘル侯爵自身と母親の違うふたりの娘。
妊娠を告げると同時に姿を消した愛人から生まれたフルーフとは彼女が十五歳になるまで会ったことはなかったが、侯爵と同じ光り輝く赤い髪が娘だと確信させてくれた。
(雨に濡れたせいで違う色のように思えただけだ)
ビーヘル侯爵は自分を騙そうとする。
突然の土砂降りで濡れたフルーフの髪から赤い液体が滴り、侯爵邸の照明に照らされた彼女の髪が金色に見えたのは勘違いだったのだと。
フルーフの侍女達が真っ青になって主人を運んでいったのは、濡れた彼女が体調を崩すのを案じたからなのだと。
だけど騙すことは出来なかった。
自分が見たのは幻ではない。
フルーフの髪は赤くないのだ。
結界は悪しき魔法を打ち砕き、顔や髪色を変えて他家を乗っ取ろうとする悪党の所業を暴く。
しかし髪を染めるという単純な偽装は暴けない。
それは結界ではなく、人間が自分の目で見破るべきことだ。
ビーヘル侯爵はフルーフの顔を思い出す。
どこかで見たことがあるような気がするものの、自分には少しも似ていない。
光り輝く赤い髪にだけ目を奪われて愛人に似たのだという言葉を信じてしまった。それは事実だったのだろうか。十五年前に別れたきりの愛人は、本当にフルーフと同じ顔をしていただろうか。
(デヨング子爵に似ている……)
従弟ということになっている男、魔法研究所の所長の顔を思い出す。
彼は金髪で、政略結婚した正妻が妊娠したときに愛人を紹介して来た人間でもあった。
ビーヘル侯爵の父親の異母弟の息子だが、先代侯爵はデヨング子爵の父親を自分の弟とは認めていなかった。若い愛人に溺れていた先々代が勝手に息子として受け入れたのだ。
(本当にお爺様の血を引いているのなら、フルーフとデヨング子爵が似ていてもおかしくない。でもデヨング子爵もその父親も私とも父上とも似ていない。お爺様ともだ)
祖父母と孫が似るという話は聞いたことがある。
だがビーヘル侯爵は祖父の愛人の血など引いていない。
フルーフがデヨング子爵に似ているのはおかしなことだ。
(髪色だけじゃない。ハリエットは顔立ちも私に似ている……)
元から上手く行っていなかった正妻との仲は、彼女の妊娠中にビーヘル侯爵が浮気してからさらに悪化した。
愛人の行方を捜して王都の侯爵邸へ寄り付かない夫に、正妻はいつも攻撃的だった。顔を合わせれば、売り言葉に買い言葉で喧嘩ばかりしていたのを思い出す。
それでも彼女はビーヘル侯爵家の運営に手を抜くことはなかった。ハリエットも幼いころから母親を助けていた。
(そもそも……)
そう、そもそもだ。正妻が愛人を殺したか追い払ったかしたのだなどと、自分はどうして思うようになったのだろうか。
(デヨング子爵だ。彼が私に……)
もう家人が寝静まった真夜中になっても、ビーヘル侯爵は自分の執務室で頭を抱えていた。
答えは明らかなのに、どうしても認めることが出来ないでいたのだ。
愛人がデヨング子爵の手先で、フルーフが自分の娘でなかったとしたら、正妻と嫡子を冷遇して来た自分の人生が無意味になる。
「フルーフと、フルーフと話をしよう。あの娘はなにも知らず、騙されて利用されているのかもしれない」
今の状況で、自分がなんのために髪を染めているのかを知らないはずはない。
一瞬そんな言葉が浮かんだが、ビーヘル侯爵は気づかなかったことにした。
フルーフは悪くない。たとえ自分の娘でなかったとしても、あの娘は悪くないのだから実の娘より可愛がっても良かったのだ。執務室の扉が叩かれたのは、ビーヘル侯爵がそんなことを考えて必死に自分を騙していたときだった。
第二王子ルドフィクスには卒業パーティの日のうちに済ませておくと約束していたのだが、どうしても出来なかった。
絶縁届を執務室の机の引き出しから出すたびに、王都の侯爵邸へ入ろうとした瞬間に降り出した土砂降りのことが頭に過ぎるのだ。
あのとき、侯爵の隣には最愛の娘であるはずのフルーフがいた。
ハリエットは従者に命じて先に侯爵邸へ戻らせていた。
自分とフルーフの母親との間を引き裂いた、憎くて憎くてたまらない政略結婚相手の正妻が産んだ娘になど愛はない。婚約者の第二王子にも見捨てられたハリエットは侍女と従者だけを引き連れて、ひとりで馬車に乗って会場へ来ていたのだ。
(……光の加減だ)
ビーヘル侯爵はそう思う。
そう思い込もうとする。
紅玉のように光り輝く赤い髪はビーヘル侯爵家の血筋の証だ。侯爵家を加護する炎の精霊王に愛されて、強い魔力を持って生まれたことの証明でもある。
今、その赤い髪を持つのはこの王国に三人だけだ。
ビーヘル侯爵自身と母親の違うふたりの娘。
妊娠を告げると同時に姿を消した愛人から生まれたフルーフとは彼女が十五歳になるまで会ったことはなかったが、侯爵と同じ光り輝く赤い髪が娘だと確信させてくれた。
(雨に濡れたせいで違う色のように思えただけだ)
ビーヘル侯爵は自分を騙そうとする。
突然の土砂降りで濡れたフルーフの髪から赤い液体が滴り、侯爵邸の照明に照らされた彼女の髪が金色に見えたのは勘違いだったのだと。
フルーフの侍女達が真っ青になって主人を運んでいったのは、濡れた彼女が体調を崩すのを案じたからなのだと。
だけど騙すことは出来なかった。
自分が見たのは幻ではない。
フルーフの髪は赤くないのだ。
結界は悪しき魔法を打ち砕き、顔や髪色を変えて他家を乗っ取ろうとする悪党の所業を暴く。
しかし髪を染めるという単純な偽装は暴けない。
それは結界ではなく、人間が自分の目で見破るべきことだ。
ビーヘル侯爵はフルーフの顔を思い出す。
どこかで見たことがあるような気がするものの、自分には少しも似ていない。
光り輝く赤い髪にだけ目を奪われて愛人に似たのだという言葉を信じてしまった。それは事実だったのだろうか。十五年前に別れたきりの愛人は、本当にフルーフと同じ顔をしていただろうか。
(デヨング子爵に似ている……)
従弟ということになっている男、魔法研究所の所長の顔を思い出す。
彼は金髪で、政略結婚した正妻が妊娠したときに愛人を紹介して来た人間でもあった。
ビーヘル侯爵の父親の異母弟の息子だが、先代侯爵はデヨング子爵の父親を自分の弟とは認めていなかった。若い愛人に溺れていた先々代が勝手に息子として受け入れたのだ。
(本当にお爺様の血を引いているのなら、フルーフとデヨング子爵が似ていてもおかしくない。でもデヨング子爵もその父親も私とも父上とも似ていない。お爺様ともだ)
祖父母と孫が似るという話は聞いたことがある。
だがビーヘル侯爵は祖父の愛人の血など引いていない。
フルーフがデヨング子爵に似ているのはおかしなことだ。
(髪色だけじゃない。ハリエットは顔立ちも私に似ている……)
元から上手く行っていなかった正妻との仲は、彼女の妊娠中にビーヘル侯爵が浮気してからさらに悪化した。
愛人の行方を捜して王都の侯爵邸へ寄り付かない夫に、正妻はいつも攻撃的だった。顔を合わせれば、売り言葉に買い言葉で喧嘩ばかりしていたのを思い出す。
それでも彼女はビーヘル侯爵家の運営に手を抜くことはなかった。ハリエットも幼いころから母親を助けていた。
(そもそも……)
そう、そもそもだ。正妻が愛人を殺したか追い払ったかしたのだなどと、自分はどうして思うようになったのだろうか。
(デヨング子爵だ。彼が私に……)
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答えは明らかなのに、どうしても認めることが出来ないでいたのだ。
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今の状況で、自分がなんのために髪を染めているのかを知らないはずはない。
一瞬そんな言葉が浮かんだが、ビーヘル侯爵は気づかなかったことにした。
フルーフは悪くない。たとえ自分の娘でなかったとしても、あの娘は悪くないのだから実の娘より可愛がっても良かったのだ。執務室の扉が叩かれたのは、ビーヘル侯爵がそんなことを考えて必死に自分を騙していたときだった。
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