あの方はもういないのです。

豆狸

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第三話 ふたりのエスタファドル~ニセモノの話~

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 男はバスラと同じ貧民街の孤児院で育ったのだという。
 父親の男爵にとって、バスラはその程度の存在だったのだ。
 正妻と嫡子が亡くなってからバスラを引き取ったのは、彼女達に引き取ることを反対されていたからではない。ほかに自分の血を引く跡取りがいなくなったからだ。

「僕はねえ……醜かったんだよ、とても。でもバスラは僕の恋人だった。なんでかわかる?」
『……』
「あれえ? 優しくて自由だから、とか言わないの? まあ、さっき覗き見してたんだから、バスラの本性はもう知ってるか。バスラが僕の恋人だったのはねえ、僕が生まれつき死人使いネクロマンサーの力を持っていて、孤児院のだれよりも強かったからだよ」

 でもいつか、彼女が自分を捨てるのはわかっていた、と男は吐き捨てるように言う。エスタファドルの顔で、眠るバスラを愛し気に見つめながら男は続ける。

「だから罠を仕掛けておいたんだ。……惚れ薬。僕に耐性のある毒で作ってバスラに渡した。いつか僕になにかがあって困った状況に陥ったら、これでだれかを操って逃げ延びろ、って言ってね。僕に耐性のある毒で作ったのはね、そんな自分に都合の良い薬を渡すはずがないと思ったバスラに、試しに飲んでみてって言われると予想してたからだよ」

 もうバスラに恋しているから効かないと断ってから薬を飲み、男はそれが毒でないことを証明して見せた。いや、まんまと毒でないと見せかけた。

「しそうだなあ、とは思ってたけど、そんなすぐにするとは考えてなかったから油断してたんだ。男爵家の下男を誑かして正妻と嫡子を毒殺したバスラは、父親の迎えが来るより早く残りの毒で僕を殺したんだ。もし迎えが来なかったらどうするつもりだったんだろ」

 優しく狂気に満ちた笑顔で、男はバスラを瞳に映す。
 男が今もバスラを愛していることは明白だった。
 エスタファドルは考える。自分はこの男よりもバスラを愛していたことがあるのだろうか、と。

「罠は仕掛けていたし、本当の僕が醜いことは自覚していた。でもどんなに美しくても動く死体として暮らすよりは、醜い自分として生きていきたかったよ。死人使いネクロマンサーの力で腐敗を食い止めるのにも限界があるしね」
『私の身体は死んでいるのか……』
「あの毒の苦みを覚えてないの? 生きてるはずないじゃん。それに僕が操れるのは死体だけだもの。……限界が来て、自分を抱いている男がいきなり腐って崩れ落ちたら、バスラはどんな顔するのかなあ?」

 甘く囁くような声で呟いて、男は小さく笑い声を上げた。

「ふふっ、あの公爵令嬢凄いよねえ。失恋による八つ当たりじゃなくて、本当に僕が別人だと気づいていたよ。たぶん彼女が君を諦めていないから、君はそんな姿になっても生者の世界に留まり続けているんだ。そういえば、公爵家は王家から分かれたんだよねえ。守護女神の加護が公爵令嬢にもあるのかなあ。彼女がお前の存在に気づいたら、お前は自分の身体を取り返せるかもしれないよ。……腐るのを待つだけの死体だけどね」
『……』

 それでも、とエスタファドルは実体のない頭にヴェロニカの面影を思い浮かべる。
 腐るのを待つだけの死体でも彼女は愛してくれるに違いない、と。
 公爵令嬢はバスラを追い求める自分を窘めこそすれ、見限ることはなかった。同じ身体でも中身が違うことに気づいてくれた。

(……ヴェロニカ……)

 声に出さずに胸の中で囁いた声は甘く、エスタファドルは自分の中にヴェロニカへの想いが芽生えていることに気づいた。

 今の状況から救い出してくれる英雄として、彼女を求めているだけかもしれない。
 でも、そもそも自分はどうして彼女を愛せなかったのか。国王と王妃である父と母だって政略結婚で、それでも愛し合い支え合っている姿を見て育ってきたのに。
 親に決められた政略結婚だからといって、彼女ヴェロニカを愛せないと決めつけていた自分自身が愚かだっただけなのだと、今ごろになってエスタファドルは思い当ったのだった。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 ──貧民街の孤児院で最低限の教育も受けられずに成長したはずの男は、思いのほか優秀だった。
 死人使いネクロマンサーとしての能力で、エスタファドルが王太子教育で蓄えていた知識を利用したのかもしれない。
 男は勝手な行動に怒る国王夫婦を説得し、ヴェロニカの父である公爵に謝罪して婚約破棄を白紙撤回に変更した。

 その上で男は、学園卒業後の一年間で自分とバスラが結果を出せなかったら廃嫡されても良い、とまで言って男爵令嬢との婚約を望んだ。
 もちろんバスラには、絶対に王太子の座は明け渡さないと誓っている。
 今の身体が王太子でなくなり次第、バスラがべつの男に乗り換えることを知っているからだ。それに、一年も経たないうちに腐敗は食い止められなくなるから、と男はエスタファドルに言った。
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