好きでした、さようなら

豆狸

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第四話 私がいないデクストラ王国で

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「兄上!」

 自分の執務室に入ってきた弟の姿を見て、デクストラ王国王太子ジークフリードは眉間に皺を寄せた。

「なんだ、騒がしい」
「アンリエットが、俺のアンリエットが隣国に嫁いだというのは本当か!」
「なにを今さら。その話は前にしただろう? お前はまだ謹慎中なんだ。離れに戻りなさい」
「辺境伯家の令嬢とシニストラ国王との結婚だぞ? 話が出てから最速でも一年、普通でも二、三年は準備期間が必要だろうが!……だから俺は、その間に……」

 呆然とした表情で言って、第二王子ラインハルトはその場に座り込んだ。
 とっくの昔に成人した王族がしていい行動ではない。
 ジークフリードは溜息をついて、自分よりも赤みが強い茶色い髪の弟を見つめた。

「アンリエット嬢との婚約を破棄したのはお前だ」
「だってあれは……魅了されていたんだ」
「プラエドーにそんな力はない。彼女が学園に入学した年に、僕の愛しいガートルードの兄、公爵家令息に確認してもらっている。プラエドーの力は相手の感情を煽るもの。彼女に対して浮かんだ欲情を煽られて恋していると思い込まされたとしても、三日も離れていれば消えてしまう程度のものだ。お前は感情的になり過ぎるから、力を封じる術を見つけるまで彼女に近づくなといっておいたよな?」
「だって向こうが勝手に近づいてきたんだ。そして嘘をついた。俺のアンリエットがほかの男とキスしていたと」

 ジークフリードはもう一度溜息をついた。
 ラインハルトは、それでまんまと煽られてアンリエットへの当てつけのような気持でプラエドーと関係を持った。ふたりが関係を持っていたことは、プラエドー自身が証言している。
 公務などでプラエドーから三日以上離れていてもアンリエットに対する疑いが消えなかったのは、そのせいだ。嫉妬心だけでなく、罪悪感もあったのだろう。

「その時点でアンリエット嬢に確認すれば良かっただろう? お前は嫉妬心を煽られて、プラエドーの思い通りに動いてしまったんだ」
「だってあのころは、アンリエットが俺を避けていたから」
「そうだね。僕だって避ける。あのころのお前は性欲だけで動いていたからな。……それと、男がだってだってと言うものではないぞ?」
「すまない、兄上。でも兄上だってわかるだろう? 俺はアンリエットに惚れていた。健康で逞しい男なんだ。婚約者のアイツを欲しいと思ってなにが悪い!」
「僕は臆病者だからね。がっついて軽蔑されるより我慢を選ぶよ」
「兄上はふたつも上で、俺達より結婚の予定が早かったから」
「その分長く生きている。我慢する時間はお前と同じだ」

 デクストラ王国の成人は十五歳だ。
 結婚も飲酒も許される。
 とはいえ十五歳で結婚するのは貧しい平民だけで、余裕のある富裕層や責任のある貴族は男性側が二十歳を過ぎてからが普通だった。十六歳で学園に入学して十八歳で卒業、二年間実務について二十歳で結婚、というわけだ。今年の冬が来る直前に、ジークフリードは婚約者のガートルードと結婚することが決まっていた。

「……ジークフリード」
「やあ、愛しいガートルード! ラインハルトが来たせいで、まだ仕事が終わっていないんだ。もう少しだけ待っていてくれ」
「ん」
「義姉上……」

 王太子執務室の来客用ソファに座るガートルードの髪は濃い焦げ茶色だ。
 一見黒くも見えるが、アンリエットの黒髪とは違う。光に透ければ茶色く煌めく。
 瞳の色は王家の兄弟と同じ濃い青。アンリエットの紫の瞳は珍しい。デクストラ王国の領土となる前に湖の周辺に住んでいた、精霊と共存していた巫女の血統から伝わった色だった。彼女の母が死んでからは、ほかに同じ色の瞳を持つものは国内にいない。アンリエットのふたりの兄は、父親と同じ黒い瞳だ。

「お騒がせして申し訳ありませんでした、兄上。離れに戻ります」
「そうしなさい。……伯爵夫人が頑張ってくれているけれど、プラエドーはまだ尻尾を出さないようだよ」
「……精霊の力を封じる術はない」

 プラエドーの父である男爵が、怪しげな行商人から精霊の種と言われるものを購入したというところまでは掴んでいる。
 精霊はおとぎ話ではない。現実だ。
 そしておとぎ話のように優しくもない。彼らは願いの代償を要求する。

 だからこそ求める者が出ないよう、おとぎ話とされているのだ。
 実在を知っているのは限られたわずかな人間だけである。湖底に精霊の花が咲くという辺境伯領で生まれ育ったアンリエットの場合は、過去にはいたが今はいない、という認識だった。
 男爵はおとぎ話と思った上で、社交界での話の種になると購入したのだろう。

 男爵が王家に献上するつもりだった精霊の種を、幼かったプラエドーが持ち出したこともわかっていた。
 彼女が花を咲かせて精霊を生み出し、望みを叶えてもらっていることは確実だ。本人が力を与えられたのではなく、あくまで精霊が力を行使しているのであろうこともわかっている。
 問題は、ガートルードが言ったように精霊の力を封じる術はないということだ。アンリエットの母の一族が伝えていた精霊を御する術は、とっくの昔に失われていた。

「精霊さえ姿を現せば、精霊の嫌う金属で倒すこともできるんだけどね」
「……金属……」

 呟きながら出て行く弟の背中を見送って、ジークフリードはガートルードに飛びついた。

「……お仕事は?」
「するする。愛しいガートルードを補給したら全速力でする」

 ふたりは軽くキスをして見つめ合った。

「……アンリエットを疑って確認もしないような莫迦よりは、真面目で優しいというシニストラのヘイゼル陛下のほうがマシ」
「ラインハルトとの婚約がなくなったと聞いて、物凄い速さで結婚を打診してきたくらいアンリエット嬢に恋しているみたいだしね。この国に来たことはないはずだけど、辺境伯領の端ででも顔を見たことがあるのかな?」
「……」

 整い過ぎて無表情に見えるガートルードの唇が、ふっと緩んだ。

「あ。なにか知ってるね、愛しいガートルード」
「……秘密」

 ガートルードはアンリエットからの手紙で、事故で湖に落ちたときに助けてくれた青年がヘイゼル王だったという話を教えられていた。
 彼が求めていたのが偽物のアンリエットだったという話は、まだ伝えられていない。
 アンリエットは伝えるつもりがなかった。そんなことを教えたら、彼女のことを姉のように慕い妹のように可愛がっているガートルードがヘイゼル王を許すはずがないから。

「……証拠が掴めなくても、あの女は殺して。アンリエットの偽物は、きっとあの女」

 アンリエットの無実は確認されていたが、彼女の名誉を穢すのでラインハルトが言い出した婚約破棄の動機は明かされていない。
 婚約破棄はあくまで、ラインハルトがプラエドーと結婚したがったからだとされている。
 隣国のヘイゼル国王には密偵を通じて知られてしまっているのだが、デクストラ王国の人間はそれを知らない。

「だろうね。精霊でもなければ瞳の色など変えられない。どうやらプラエドーは王妃になりたいと願ったみたいなんだ。伯爵夫人が呟きを聞いている。時間はかかるけど、ラインハルトと結婚させてやったら、僕や父上の命を狙ってボロを出すだろう。頼まれた願いを叶えるか、逆に絶対叶えられない状況になったら、精霊はそれまでの代償を受け取るために姿を現すらしい」
「ん。……アンリエット……」

 親友を案じる婚約者の切なげな呟きに、ジークフリードは苦笑を漏らす。

「姉妹同然に育った君達の仲の良さには嫉妬してしまうけど、サイモン先王が亡くなってクラウディア殿にも余裕ができたと思うし、今年の夏祭りにはアンリエット嬢とヘイゼル陛下をご招待しようか」
「……素敵」

 微笑むガートルードの可愛さにジークフリードは時間を忘れて耽溺してしまったので、その後は休憩の時間を取らずに仕事に励むこととなった。
 そうでなくても最近は、謹慎させられている弟の分の仕事が加算されている。
 父王に言わせると、国王になったらその程度ではない、らしい。
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