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第三話 決意
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「ジャンナ、一緒に帰ろう」
「申し訳ありません、ステファノ王太子殿下。今日は図書館で勉強して帰りたいのです」
「そうか? 君の成績なら王太子の婚約者として十分だと思うのだが。しかし努力する心は尊い。頑張りたまえ」
「ありがとうございます」
教室の中に満ちる、殿下の誘いを断るなんて不敬な、とか、本当は勉強などしていなくてもフィオーレ侯爵家の力で成績を買っているのだろう、とかいうざわめきは殿下の耳には届かないようです。
喜色満面のブルローネ様が、でしたらアタクシが同行いたします、と殿下に駆け駆け寄る姿から目を逸らし、私は教室を出ました。
私の耳には聞えよがしの陰口も根拠のない悪口雑言も聞こえてしまうのです。悪意に満ちた視線にも気づかずにはいられません。
令嬢としても校則としても走ってはいけない学園の廊下を早足で進んで、私は学園の図書館に辿り着きました。
中庭に建つ独立した建物である図書館は、教室のある校舎とは渡り廊下でつながっています。
同行していた侍女を図書館の入り口で待たせて、私は中に入りました。中庭に面した窓のある壁際の席に座り、持ってきた教科書と帳面を取り出します。
教科書を黙読している振りをしながら、私は後ろの窓に向けて語りかけました。
「妖精さん、いますか?」
「……うん。今日は僕のほうが早かったみたいだね」
「ふふふっ」
妖精さんは中庭で、図書館の外壁にもたれて座っているのです。
だれにも話しかけられないよう昼寝をしている体を装って、図書館の中の私と話してくださるのです。
その正体がヴィオーラ公爵令息エリベルト様だということを私は知っています。窓から顔を出して覗き込むような無粋な真似はしたことありませんが、彼が図書館の外壁にもたれて昼寝をしている(ように見える)ということは、学園のみんなが知っているのです。
「今の心境は?」
「あまり幸せではありません。ふふっ、前からですけどね」
「殿下は君に心を移したように見えるよ?」
「妖精さん、本当にそう見えていますか?」
しばらく沈黙した後で、妖精さんは答えました。
正体を知っていても、ここで会話をするときの彼は妖精さんなのです。おとぎ話に出てくる、小さくて美しくて翅があって、愚かな人間を助けてくれる素敵な妖精さん。
教室が違うので面と向かって話した経験は少ないのですが、遠目で見る彼は小柄な体も相まって、妖精さんそのもののように見えました。
「……いいや。それらしく振る舞っているようにしか見えない。だから、あんな根も葉もない噂が広がっているんだ。王妃の実家であるロンゴ公爵家は強大だが、そのぶん敵も多い。殿下が本当に君に乗り換えたのだとみなが感じたなら、弄ばれて捨てられた惨めなブルローネ嬢の噂が学園を席巻するだろう。そしてこれまで君の悪口を言っていた人間が、なんの悔恨も見せずに擦り寄ってくるよ」
「ですよね。そもそも殿下と私には心が近づくような出来事はなにもなかったのです。殿下はいつもブルローネ様とご一緒で、国王陛下から直々に命じられない限り挨拶もしてくださいませんでした。……失礼な考えかもしれませんが、今の殿下が私に優しくしてくださっているのは、なにか企みがあってのことのような気がしてしまうのです」
「企みで優しくする……婚約者の行動として想像するようなことじゃないね」
「はい。私はもう殿下を婚約者として考えることは出来ないのです。これまで愚痴を聞いてくださって忠告もしてくださっていたのに……申し訳ありません」
妖精さんと出会ったのは、学園に入って一ヶ月ほどしたころでした。
殿下とブルローネ様の愛に満ちたお姿に心を抉られ、抉られた傷に噂という毒をねじ込まれた私は、勉強する振りをして教科書に隠れて泣いていたのです。
静かにしなくてはいけない図書館なら、私に陰口を聞かせる人間はいないからです。王都の侯爵邸で泣いていたら、父に知られて怒られてしまうかもしれないからです。
学園にいる大人は国王陛下のご意向を理解しています。
殿下と私の婚約が王命だと、意味があって結ばれたものだとわかっているのです。
でも大人であるがゆえに、王妃様とロンゴ公爵家の権威にも逆らえず、ブルローネ様の取り巻き達を注意することは出来ませんでした。
声を殺して泣いている私に、どうしたの? と窓の向こうから声をかけてくれたのが妖精さんでした。
それからずっと、どうすれば殿下に振り向いてもらえるか、どうすれば噂を消すことが出来るかを相談させてもらっていました。
もっともどちらの問題も殿下ご自身のお気持ちがなければどうしようもないことで、結局は愚痴を聞いてもらうだけでした。ですが、私にはそれがとてもありがたいことだったのです。
「婚約解消を申し出る気?」
「はい。国王陛下に認めていただけるかどうかはわかりませんし、解消したら解消したで父が……」
ただでさえ母の死と引き換えに生まれた私が、王太子の婚約者ですらなくなったとしたら、用無しとして捨てられてしまうかもしれません。
戒律の厳しい神殿に入れられるのなら、むしろ幸運だと喜べるのですが、私のような世間知らずがいきなり平民として放り出されたとしたら三日と生き延びられないでしょう。
妖精さんは、なぜかとても優しい声で言いました。
「大丈夫だよ。フィオーレ侯爵は、君が殿下との婚約を解消しても怒らないさ。それが君自身の決めたことならね」
「そうでしょうか」
王宮に籠もって仕事に邁進する父とは、月に一度顔を合わせるかどうかです。
母のこともあるので、私は父に苦手意識を持っていました。王太子の婚約者として周囲に認められていないことへの罪悪感もあります。
けれど妖精さんに言われると、殿下と婚約解消しても父は怒らないのではないか、怒られたとしても今後のことは話し合えるのではないかと、考えることが出来たのです。
「申し訳ありません、ステファノ王太子殿下。今日は図書館で勉強して帰りたいのです」
「そうか? 君の成績なら王太子の婚約者として十分だと思うのだが。しかし努力する心は尊い。頑張りたまえ」
「ありがとうございます」
教室の中に満ちる、殿下の誘いを断るなんて不敬な、とか、本当は勉強などしていなくてもフィオーレ侯爵家の力で成績を買っているのだろう、とかいうざわめきは殿下の耳には届かないようです。
喜色満面のブルローネ様が、でしたらアタクシが同行いたします、と殿下に駆け駆け寄る姿から目を逸らし、私は教室を出ました。
私の耳には聞えよがしの陰口も根拠のない悪口雑言も聞こえてしまうのです。悪意に満ちた視線にも気づかずにはいられません。
令嬢としても校則としても走ってはいけない学園の廊下を早足で進んで、私は学園の図書館に辿り着きました。
中庭に建つ独立した建物である図書館は、教室のある校舎とは渡り廊下でつながっています。
同行していた侍女を図書館の入り口で待たせて、私は中に入りました。中庭に面した窓のある壁際の席に座り、持ってきた教科書と帳面を取り出します。
教科書を黙読している振りをしながら、私は後ろの窓に向けて語りかけました。
「妖精さん、いますか?」
「……うん。今日は僕のほうが早かったみたいだね」
「ふふふっ」
妖精さんは中庭で、図書館の外壁にもたれて座っているのです。
だれにも話しかけられないよう昼寝をしている体を装って、図書館の中の私と話してくださるのです。
その正体がヴィオーラ公爵令息エリベルト様だということを私は知っています。窓から顔を出して覗き込むような無粋な真似はしたことありませんが、彼が図書館の外壁にもたれて昼寝をしている(ように見える)ということは、学園のみんなが知っているのです。
「今の心境は?」
「あまり幸せではありません。ふふっ、前からですけどね」
「殿下は君に心を移したように見えるよ?」
「妖精さん、本当にそう見えていますか?」
しばらく沈黙した後で、妖精さんは答えました。
正体を知っていても、ここで会話をするときの彼は妖精さんなのです。おとぎ話に出てくる、小さくて美しくて翅があって、愚かな人間を助けてくれる素敵な妖精さん。
教室が違うので面と向かって話した経験は少ないのですが、遠目で見る彼は小柄な体も相まって、妖精さんそのもののように見えました。
「……いいや。それらしく振る舞っているようにしか見えない。だから、あんな根も葉もない噂が広がっているんだ。王妃の実家であるロンゴ公爵家は強大だが、そのぶん敵も多い。殿下が本当に君に乗り換えたのだとみなが感じたなら、弄ばれて捨てられた惨めなブルローネ嬢の噂が学園を席巻するだろう。そしてこれまで君の悪口を言っていた人間が、なんの悔恨も見せずに擦り寄ってくるよ」
「ですよね。そもそも殿下と私には心が近づくような出来事はなにもなかったのです。殿下はいつもブルローネ様とご一緒で、国王陛下から直々に命じられない限り挨拶もしてくださいませんでした。……失礼な考えかもしれませんが、今の殿下が私に優しくしてくださっているのは、なにか企みがあってのことのような気がしてしまうのです」
「企みで優しくする……婚約者の行動として想像するようなことじゃないね」
「はい。私はもう殿下を婚約者として考えることは出来ないのです。これまで愚痴を聞いてくださって忠告もしてくださっていたのに……申し訳ありません」
妖精さんと出会ったのは、学園に入って一ヶ月ほどしたころでした。
殿下とブルローネ様の愛に満ちたお姿に心を抉られ、抉られた傷に噂という毒をねじ込まれた私は、勉強する振りをして教科書に隠れて泣いていたのです。
静かにしなくてはいけない図書館なら、私に陰口を聞かせる人間はいないからです。王都の侯爵邸で泣いていたら、父に知られて怒られてしまうかもしれないからです。
学園にいる大人は国王陛下のご意向を理解しています。
殿下と私の婚約が王命だと、意味があって結ばれたものだとわかっているのです。
でも大人であるがゆえに、王妃様とロンゴ公爵家の権威にも逆らえず、ブルローネ様の取り巻き達を注意することは出来ませんでした。
声を殺して泣いている私に、どうしたの? と窓の向こうから声をかけてくれたのが妖精さんでした。
それからずっと、どうすれば殿下に振り向いてもらえるか、どうすれば噂を消すことが出来るかを相談させてもらっていました。
もっともどちらの問題も殿下ご自身のお気持ちがなければどうしようもないことで、結局は愚痴を聞いてもらうだけでした。ですが、私にはそれがとてもありがたいことだったのです。
「婚約解消を申し出る気?」
「はい。国王陛下に認めていただけるかどうかはわかりませんし、解消したら解消したで父が……」
ただでさえ母の死と引き換えに生まれた私が、王太子の婚約者ですらなくなったとしたら、用無しとして捨てられてしまうかもしれません。
戒律の厳しい神殿に入れられるのなら、むしろ幸運だと喜べるのですが、私のような世間知らずがいきなり平民として放り出されたとしたら三日と生き延びられないでしょう。
妖精さんは、なぜかとても優しい声で言いました。
「大丈夫だよ。フィオーレ侯爵は、君が殿下との婚約を解消しても怒らないさ。それが君自身の決めたことならね」
「そうでしょうか」
王宮に籠もって仕事に邁進する父とは、月に一度顔を合わせるかどうかです。
母のこともあるので、私は父に苦手意識を持っていました。王太子の婚約者として周囲に認められていないことへの罪悪感もあります。
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