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「離縁して欲しい」
結婚から三年目のある日、夫が言った。
夫は侯爵家の当主、私は伯爵家の娘。
裏に事情はいろいろあるが、彼の言葉を拒める立場ではない。
「わかりました。それでは本日中に荷物をまとめて実家へ戻らせていただきます」
夫は少し意外そうな顔をした。
無理もない。
私は夫を好きだった。王都へ向かう馬車が魔獣に襲われて震えていたとき、助けてくれた夫に恋をしたのは四年前だ。家族に反対されたのに、侯爵家からの縁談に飛びついたのは私自身だ。
「……仕方がありませんわ。嫁いで三年経ってもお子を授かれなかったのですから」
「それは……」
夫は暗い面持ちで言葉を濁す。
少しは罪悪感があるのだろうか。
それとも私の後ろに立つ侍女たちの視線に射られて苦しいのかもしれない。だってこの館にいるだれもが知っている。私と夫が契りを結んだことなどないことを。お子を授かれるはずがないことを。
「魔道具はもう封印箱に詰めてくださっていますか?」
私の質問に夫は目を見開いた。
「結婚のときの取り決めにあったはずです。私が実家へ戻るときは魔道具も一緒だと」
魔獣には魔力による攻撃しか効かないが、人間にはそれが可能なほどの魔力がない。
貴族として民を守る務めを果たすには魔力を増幅する魔道具が不可欠だった。
私の言葉に、夫は整った顔を真っ青に染めた。
「あの魔道具をしばらく借りておくことはできないか? いや、買い取ろう」
「侯爵家にそんなお金があるのなら、私に結婚を申し込んだりなさらなかったのではありませんか?」
「……っ」
魔道具で増幅するにしても、元の魔力の違いで結果には差が出る。
どんなに増幅しても攻撃には向かない魔力を持つものもいた。
侯爵家は魔獣退治に適した攻撃系の魔力を持つ家系だ。もっとも近年魔道具の開発が進み魔獣を寄せ付けない結界を作れるようになったことで、王国における侯爵家の重要性は日に日に低下している。実家の弟が先日開発した網型の魔道具を使えば、魔力が薄いと言われている平民が魔獣を捕縛することさえ可能だ。
「よろしいではないですか。三流伯爵家の作った魔道具など、侯爵家に代々伝わる神具に比べたら玩具のようなものなのでしょう?」
「……彼女は君にそんなことを?」
私は夫を見つめた。
言える? 言えますか? 侯爵家に代々伝わる王家から授かった神具は、あの女が遊ぶ金欲しさに売り払ったと。だから侯爵家としての責務を果たすために我が家の魔道具が必要だったと。
ちゃんとした代金を払う余裕もなかったから、私に結婚を申し込んだのだと。……言えるのですか?
長い沈黙の後、夫は溜息を吐いた。
「……わかった。魔道具はすぐに持って来よう」
「ええ、慰謝料などはお気になさらないでくださいましね? お子を授かれなかった私がいけないのですから」
「……っ」
「それと、私は伯爵家の娘として魔道具の扱いは学んでおります。なんでしたら、そのままお持ちいただいて、私の目の前で閣下が魔道具を発動なさるのを確認した後で封印箱に納めさせていただきますわ」
「いや……俺が納めてくる。贋物と入れ替えたりはしないから安心しろ。俺にもまだ、最低限の矜持くらいは残っている」
やがて夫が持って来た魔道具を納めた封印箱を受け取って、私は伯爵家への帰路に就いた。
伯爵家の領地は侯爵家の領地のすぐ隣にある。
今日中に領都にある館につけるだろう。
──ガタン、と馬車が揺れる。
伯爵家の結界に入ったのだ。
もちろん弟が作った魔道具で張っている。おそらく王城を覆う神具の結界よりも頑強で効力が高い。
武勇に劣る伯爵家は昔から魔道具作成に長けていたが、王国は神に与えられたという古代の魔道具を神具と呼んで尊び、目に見える形で魔獣を退治する武人を優遇していた。
領地こそ隣接しているけれど、私が結婚するまで伯爵家と侯爵家に交流はなかった。
向こうが必死で隠していたこともあって、私は初夜のあの瞬間まで夫に愛人がいることなど知らなかった。
「ねえ……」
「なんでしょう、お嬢様」
馬車の中、わたしは子どものころから側にいてくれた侍女の肩に頭を預ける。
貴族令嬢として相応しい行動ではないが、全身に力が入らないので仕方がない。
「私もあの女のようにしていれば良かったのかしら? 閣下があの女と交わろうとしている部屋へ乱入して、泣き喚き暴れて物を壊し、止めようとした人間にも暴力を振るえば良かったの?」
「温和でお優しいお嬢様には、そのような真似お出来になりませんよ」
「……っ」
涙を止められなくなった私の髪を侍女が優しく撫でてくれた。
長いつき合いでありながら彼女は気づいていない。
私が温和なのは事実だ。争いなど嫌いだし、わざわざ波風を立てるつもりもない。だけど私は優しくないのだ。むしろ性格は悪いほうだと言える。
……離縁を受け入れ実家に帰ったからといって、あのふたりに復讐しないわけではないのよ?
結婚から三年目のある日、夫が言った。
夫は侯爵家の当主、私は伯爵家の娘。
裏に事情はいろいろあるが、彼の言葉を拒める立場ではない。
「わかりました。それでは本日中に荷物をまとめて実家へ戻らせていただきます」
夫は少し意外そうな顔をした。
無理もない。
私は夫を好きだった。王都へ向かう馬車が魔獣に襲われて震えていたとき、助けてくれた夫に恋をしたのは四年前だ。家族に反対されたのに、侯爵家からの縁談に飛びついたのは私自身だ。
「……仕方がありませんわ。嫁いで三年経ってもお子を授かれなかったのですから」
「それは……」
夫は暗い面持ちで言葉を濁す。
少しは罪悪感があるのだろうか。
それとも私の後ろに立つ侍女たちの視線に射られて苦しいのかもしれない。だってこの館にいるだれもが知っている。私と夫が契りを結んだことなどないことを。お子を授かれるはずがないことを。
「魔道具はもう封印箱に詰めてくださっていますか?」
私の質問に夫は目を見開いた。
「結婚のときの取り決めにあったはずです。私が実家へ戻るときは魔道具も一緒だと」
魔獣には魔力による攻撃しか効かないが、人間にはそれが可能なほどの魔力がない。
貴族として民を守る務めを果たすには魔力を増幅する魔道具が不可欠だった。
私の言葉に、夫は整った顔を真っ青に染めた。
「あの魔道具をしばらく借りておくことはできないか? いや、買い取ろう」
「侯爵家にそんなお金があるのなら、私に結婚を申し込んだりなさらなかったのではありませんか?」
「……っ」
魔道具で増幅するにしても、元の魔力の違いで結果には差が出る。
どんなに増幅しても攻撃には向かない魔力を持つものもいた。
侯爵家は魔獣退治に適した攻撃系の魔力を持つ家系だ。もっとも近年魔道具の開発が進み魔獣を寄せ付けない結界を作れるようになったことで、王国における侯爵家の重要性は日に日に低下している。実家の弟が先日開発した網型の魔道具を使えば、魔力が薄いと言われている平民が魔獣を捕縛することさえ可能だ。
「よろしいではないですか。三流伯爵家の作った魔道具など、侯爵家に代々伝わる神具に比べたら玩具のようなものなのでしょう?」
「……彼女は君にそんなことを?」
私は夫を見つめた。
言える? 言えますか? 侯爵家に代々伝わる王家から授かった神具は、あの女が遊ぶ金欲しさに売り払ったと。だから侯爵家としての責務を果たすために我が家の魔道具が必要だったと。
ちゃんとした代金を払う余裕もなかったから、私に結婚を申し込んだのだと。……言えるのですか?
長い沈黙の後、夫は溜息を吐いた。
「……わかった。魔道具はすぐに持って来よう」
「ええ、慰謝料などはお気になさらないでくださいましね? お子を授かれなかった私がいけないのですから」
「……っ」
「それと、私は伯爵家の娘として魔道具の扱いは学んでおります。なんでしたら、そのままお持ちいただいて、私の目の前で閣下が魔道具を発動なさるのを確認した後で封印箱に納めさせていただきますわ」
「いや……俺が納めてくる。贋物と入れ替えたりはしないから安心しろ。俺にもまだ、最低限の矜持くらいは残っている」
やがて夫が持って来た魔道具を納めた封印箱を受け取って、私は伯爵家への帰路に就いた。
伯爵家の領地は侯爵家の領地のすぐ隣にある。
今日中に領都にある館につけるだろう。
──ガタン、と馬車が揺れる。
伯爵家の結界に入ったのだ。
もちろん弟が作った魔道具で張っている。おそらく王城を覆う神具の結界よりも頑強で効力が高い。
武勇に劣る伯爵家は昔から魔道具作成に長けていたが、王国は神に与えられたという古代の魔道具を神具と呼んで尊び、目に見える形で魔獣を退治する武人を優遇していた。
領地こそ隣接しているけれど、私が結婚するまで伯爵家と侯爵家に交流はなかった。
向こうが必死で隠していたこともあって、私は初夜のあの瞬間まで夫に愛人がいることなど知らなかった。
「ねえ……」
「なんでしょう、お嬢様」
馬車の中、わたしは子どものころから側にいてくれた侍女の肩に頭を預ける。
貴族令嬢として相応しい行動ではないが、全身に力が入らないので仕方がない。
「私もあの女のようにしていれば良かったのかしら? 閣下があの女と交わろうとしている部屋へ乱入して、泣き喚き暴れて物を壊し、止めようとした人間にも暴力を振るえば良かったの?」
「温和でお優しいお嬢様には、そのような真似お出来になりませんよ」
「……っ」
涙を止められなくなった私の髪を侍女が優しく撫でてくれた。
長いつき合いでありながら彼女は気づいていない。
私が温和なのは事実だ。争いなど嫌いだし、わざわざ波風を立てるつもりもない。だけど私は優しくないのだ。むしろ性格は悪いほうだと言える。
……離縁を受け入れ実家に帰ったからといって、あのふたりに復讐しないわけではないのよ?
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