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最終話 お嬢様はお亡くなりになりました。

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 本当は面と向かってお別れ出来たら良かったのだけれど、パーヴェル王太子殿下と顔を合わせたら、感情的になってしまうとわかっていました。
 だからお手紙を書きました。
 ザハールに付き添ってもらって町へ行き、見つけて買ったブローチの包みを同封します。思い描いていた通りの意匠のものがあって良かったわ。翼を広げた二羽の鳥の一羽はパーヴェル殿下で──もう一羽はイリュージア様。

「……」

 卒業パーティまでの十日間、殿下が不要になった婚約者のことなんかで思い悩むことなく、心から愛する方イリュージア様と幸せに過ごせますように。
 空のように青い瞳の私の王子様。いいえ、私の王子様だった方。
 昔願った自由な旅人にはなれなくても、愛する方と一緒なら心はいつも自由でいられることでしょう。

「……っ!」

 ああ、でも、渡せなかった。
 そうよ、お手紙とブローチはパーヴェル王太子殿下に渡せなかったのです。
 放課後の生徒会室にはだれもいらっしゃらなかった。私は戸惑いながら踵を返し、どうしようかとぼんやり考えていたせいで階段から──

「ヴェロニカっ!」

 私が目を開くと、すぐ近くにザハールの顔がありました。
 夕日に染まった空の色の赤い髪、真紅の瞳。幼いころからよく知っている庭師の孫、今は我が家の従者です。
 学園に通う私の護衛もしてくれています。ですが、だからといって嫁入り前の令嬢の寝室に入り込むのは許されません。

 私は彼を窘めようとしました。
 でもなぜか声が出ません。喉がカラカラで、唇も乾き切っているようです。
 体も重く起き上がることが出来ません。なにがあったのでしょう。

「……ザ、ハール?」

 やっとの思いで彼の名前を絞り出すと、真紅の瞳が涙をあふれさせました。
 よく見ればザハールの後ろにはお母様やメイドの姿もあります。
 でも……ふたりきりじゃなくっても、嫁入り前の私の寝室に若い男性のザハールが入るのは良くないことですよ。主人の娘の名前を呼び捨てにするのもね。

 元気になったら、ちゃんと怒らなくてはいけません。
 使用人に正しいことを教えるのも主人家族の役目ですからね。
 ……元気に……なれるのかどうか一瞬不安になりましたが、降りかかるザハールの涙がとても温かくて、なんだか体に染み透っていくような気がして、私の中の不安は溶けて行ったのでした。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 レオンチェフ公爵令嬢ヴェロニカは死にました。
 今、領地の公爵邸の庭で真っ赤な夏野菜を収穫しているのは──

「ニーカ。疲れたんじゃないか? 少しは休憩しろよ」
「ありがとう、ザハール」

 私はザハールから冷やした水の入ったコップを受け取り、近くの木に背中を預けました。
 隣に座ったザハールに問いかけます。

「ヴェロニカの愛称のニーカでは偽名にもならないのではないかしら」
「かけ離れ過ぎた名前じゃ自分のことだとわからなくなるだろ」
「そうかもしれないけれど」

 レオンチェフ公爵令嬢ヴェロニカは死にました。
 ここにいるのはただのニーカです。領地の公爵邸の庭師見習いです。
 聖王猊下は最初から私の生存をご存じでしたが、だからといって葬儀までした人間が元の暮らしには戻れません。それに、聖女として扱われるのも嫌でした。

 私は少しも覚えていないのですけれど、どうも階段から落ちて意識を失っていた間に悪霊を退治したそうなのです。
 目覚めた私は以前よりも魔力が強くなっていて、普通なら回復しなかったに違いない衰弱しきった体も元に戻りました。どうしてなのかと首を捻った猊下に、ザハールが不思議な話を語りました。
 私が黄金色の光を纏った透き通る体で浮いていて、王宮にいた悪霊を退治したという話です。

 本人でさえ覚えていないし信じられないのに、なぜか聖王猊下とお父様レオンチェフ公爵は信じてくださいました。
 悪霊と呼ばれる存在に心当たりがあったそうです。
 パーヴェル王太子殿下がイリュージア様に心を奪われたのにも悪霊が関わっているに違いないと聞きましたが──もう過去のことです。私が婚約者に戻るわけにもいきません。むしろ悪霊から解放されたおふたりが、真実の愛に満ちた生活をお送りになられることを祈っています。

 もういない悪霊のせいでおふたりが誹謗中傷されるのも嫌ですし、私も神殿で聖女暮らしをする気にはなれません。
 庭師見習いとして、回復魔術で傷んだ野菜を癒し、浄化魔術で害虫を寄せ付けないようにするくらいが一番です。
 大好きな家族とも一緒にいられますしね。

 ただ、弟のニコライが高いところのものを取れなくて困っているときに私を見て残念そうな顔をするのは、なんとなく腹が立ちます。
 この前公爵領へ遊びにいらしたヤーコフ殿下が、ちらちらと紙を折って作った三角形の鳥を見せてきたのも気になります。
 あのふたり、まさか私が幽霊のような存在だったときのほうが面白くて良かったなどとは思っていませんよね? まあ、そのときの私がなにをしていたのかは一向に思い出せないのですが。

「ザハールはいいの?」
「なにが?」
「お父様の未来の片腕と言われるくらい優秀だったのに、私の護衛をするために庭師に戻って。……口調も前とは違ってるし」
「従者のころの口調がよろしければ改めますよ?」
「もう! ザハールが良いのなら口調はいいのよ。ただ少し慣れないだけ」
「そうか」

 十日と半月も寝たきりだった(しかもそのうち五日は完全に死んでいた)私がこうして元気になれたのは、聖女の力のおかげだとみんな言うけれど、私は違うと思っています。
 あのとき落ちてきたザハールの涙のせいではないかと思うのです。

「ん? どうした、ニーカ」
「風に揺れるザハールの髪が夕日に染まった空の色で、とても綺麗だと思ったの」
「……そうか」

 レオンチェフ公爵令嬢ヴェロニカは死にました。
 ここにいるのはただのニーカです。領地の公爵邸の庭師見習いです。
 もしかしたらいつか、先輩兼師匠の庭師と恋に落ちるかもしれません。慣れない庭仕事で疲れた私の頭を大きな手で撫でてくれている、綺麗な赤い髪の青年と──
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