2 / 4
第二話 三人の犯人(生け贄)~前編~
しおりを挟む
マルティネス公爵令息デシルシオンは恋をしていた。
最初から叶わないとわかっている恋だ。
彼は王太子ペルデドルの婚約者、ルビオ辺境伯令嬢アドリアーナに恋をしていたのだった。
ルビオ辺境伯領は王国の端にあり、魔獣の蔓延る魔の森に囲まれている。
辺境伯家が治めていなければ、その領土は数日で無人の地となっているだろう。
しかし辺境伯家は滅びるどころか襲撃してくる魔獣を討伐し、その骸を解体して魔獣素材を王国へ献上してくれている。豊富な魔獣素材によってこの王国は他国に先んじて魔術研究が進み、研究後の素材を加工した特殊な効果のある品物の輸出によって潤っている。
王家は辺境伯家との絶対的なつながりを求めていた。
それで現当主のひとり娘であるアドリアーナと王太子ペルデドルの婚約を強行したのである。辺境伯家は親族からガナドルを養子として迎えていたが、王太子と令嬢の間に跡取り以外の子どもが生まれたときは、その子に辺境伯家を継がせるということで密約が結ばれていた。
王家はどうしても自身と辺境伯家の血を交えたいのだ。
マルティネス公爵家が王家から分かれたといっても、デシルシオンが望んだ程度でアドリアーナを奪えるわけがない。
それにアドリアーナに恋していたものの、デシルシオンは王家を滅ぼして国を乱れさせてでも玉座と彼女を奪い取るまでの覚悟はなかった。
だれにも心を明かさぬまま諦めてしまえば良かったのに、デシルシオンにはそれも出来なかった。
ひとつ年下の辺境伯令嬢がこの王国の貴族子女が通う学園に入学して、彼女の婚約者である王太子が男爵令嬢の底の浅い誘惑に落ちたとき、デシルシオンは浅ましい欲望を抱いてしまったのだ。
王太子が辺境伯令嬢との婚約を解消することはない。
だれもそれを許さない。
けれど男爵令嬢を愛妾にすることは許すかもしれない。
王家が辺境伯家とのつながりを求めたことで王太子を犠牲にしている。
国王と王妃はそう思っていたからだ。──辺境伯令嬢だって犠牲にされているのに。
愛妾に夢中な夫を持った哀れな王太子妃を支えていたら、いつか振り向いてもらえるのではないだろうか。孤独なアドリアーナは自分にだけ微笑んでくれるかもしれない。
デシルシオンはそう思ってしまったのだ。
心のどこかで間違っていると自覚しながらも、デシルシオンは王太子と男爵令嬢の仲を煽り、素知らぬ顔で傷ついた辺境伯令嬢を慰める自分を止められなかった。
(……それで、このざまだ)
あの男爵令嬢がアドリアーナを突き飛ばしたときに、辺境伯令嬢を庇って階段から落ちれば良かった。
落ちたときに頭を打って死んでしまえば良かった。
今のデシルシオンは心からそう思っている。
デシルシオンは意識を失ったアドリアーナに駆け寄ることすら出来なかった。
アドリアーナよりもひとつ年下の義弟ガナドルが現れたからだ。
彼は義姉を案じて近くで待っていたらしい。アドリアーナを抱き上げて救護室へ運び、救ったのはガナドルだ。デシルシオンではない。
デシルシオンはアドリアーナが階段から落ちている間に、集まってくる人間の目から隠すために男爵令嬢を逃がした王太子を止めることも出来なかった。
男爵令嬢はその場にいなかったことにするという、王太子の愚考に反対することも出来なかった。
王都の辺境伯邸で、アドリアーナに真実を告げることも出来なかった。
王家が婚約解消を認めたといっても、このままでは王家とルビオ辺境伯家の間に亀裂が入ってしまうのは明白だ。
王国が乱れてしまう。罪のない民人が苦しむことになる。
デシルシオンが浅ましい欲望を抱いて、王太子を諫めなかったせいで。
自分のおこないを後悔したデシルシオンは、アドリアーナを突き落とした犯人になることにした。
突き落とした理由は男爵令嬢への愛だ。
本当は一度たりとも彼女に好意を抱いたことはなかったけれど、男爵令嬢を愛するデシルシオンが、いつも彼女を悪しざまに言う辺境伯令嬢を逆恨みして突き飛ばしたことにした。……婚約者のいる男性に擦り寄る女性が悪いのは本当のことだけど。
この期に及んでもデシルシオンにはアドリアーナに気持ちを打ち明ける勇気がなかったのだ。
アドリアーナは優しい女性だ。
本当は男爵令嬢が犯人だと知っていても、デシルシオンの気持ちを汲んで王家と辺境伯家に亀裂が入らないようにしてくれるだろう。
(だから好きになった。幼いころから未来の王太子妃として、国のことを真摯に考えている彼女に恋をした。ずっと彼女の隣に立っていたかった)
いくら公爵令息とはいえ、辺境伯令嬢を階段から突き落としてお咎めなしとはならない。
落ちた直後のアドリアーナは意識を失っていたし、打ちどころが悪ければ死んでいてもおかしくなかったのだ。
だがそれで自分が処罰されたなら、今度はマルティネス公爵家とルビオ辺境伯家の間に亀裂が入る。それも問題だ。
デシルシオンは辺境伯令嬢を突き落とした理由と、自分の個人的な感情なのでマルティネス公爵家にまでは累を及ぼさないでくれと遺書に書いた。
都合の良い願いだけれど、アドリアーナなら聞いてくれると信じていた。
そして彼は死んだ。
デシルシオンが死の瞬間に思い出したのは辺境伯令嬢の微笑みだった。
王都の辺境伯邸で義弟の隣に座っていたときの安心しきった微笑み。
ずっと支えて大切にしてくれる相手に好意を持つのは当たり前のことだ。もちろんアドリアーナは婚約を解消するまで義弟を意識してはいなかっただろう。辺境伯令嬢は男爵令嬢と違って貞淑な令嬢だった。
本当は王国のために死を選んだのではなかった。
デシルシオンは間違ってしまった自分が、二度とアドリアーナの隣に立つことが出来ないと悟ったから死を選んだのだ。
奪うことも諦めることも出来ない浅ましい恋心を抱いたままで──
最初から叶わないとわかっている恋だ。
彼は王太子ペルデドルの婚約者、ルビオ辺境伯令嬢アドリアーナに恋をしていたのだった。
ルビオ辺境伯領は王国の端にあり、魔獣の蔓延る魔の森に囲まれている。
辺境伯家が治めていなければ、その領土は数日で無人の地となっているだろう。
しかし辺境伯家は滅びるどころか襲撃してくる魔獣を討伐し、その骸を解体して魔獣素材を王国へ献上してくれている。豊富な魔獣素材によってこの王国は他国に先んじて魔術研究が進み、研究後の素材を加工した特殊な効果のある品物の輸出によって潤っている。
王家は辺境伯家との絶対的なつながりを求めていた。
それで現当主のひとり娘であるアドリアーナと王太子ペルデドルの婚約を強行したのである。辺境伯家は親族からガナドルを養子として迎えていたが、王太子と令嬢の間に跡取り以外の子どもが生まれたときは、その子に辺境伯家を継がせるということで密約が結ばれていた。
王家はどうしても自身と辺境伯家の血を交えたいのだ。
マルティネス公爵家が王家から分かれたといっても、デシルシオンが望んだ程度でアドリアーナを奪えるわけがない。
それにアドリアーナに恋していたものの、デシルシオンは王家を滅ぼして国を乱れさせてでも玉座と彼女を奪い取るまでの覚悟はなかった。
だれにも心を明かさぬまま諦めてしまえば良かったのに、デシルシオンにはそれも出来なかった。
ひとつ年下の辺境伯令嬢がこの王国の貴族子女が通う学園に入学して、彼女の婚約者である王太子が男爵令嬢の底の浅い誘惑に落ちたとき、デシルシオンは浅ましい欲望を抱いてしまったのだ。
王太子が辺境伯令嬢との婚約を解消することはない。
だれもそれを許さない。
けれど男爵令嬢を愛妾にすることは許すかもしれない。
王家が辺境伯家とのつながりを求めたことで王太子を犠牲にしている。
国王と王妃はそう思っていたからだ。──辺境伯令嬢だって犠牲にされているのに。
愛妾に夢中な夫を持った哀れな王太子妃を支えていたら、いつか振り向いてもらえるのではないだろうか。孤独なアドリアーナは自分にだけ微笑んでくれるかもしれない。
デシルシオンはそう思ってしまったのだ。
心のどこかで間違っていると自覚しながらも、デシルシオンは王太子と男爵令嬢の仲を煽り、素知らぬ顔で傷ついた辺境伯令嬢を慰める自分を止められなかった。
(……それで、このざまだ)
あの男爵令嬢がアドリアーナを突き飛ばしたときに、辺境伯令嬢を庇って階段から落ちれば良かった。
落ちたときに頭を打って死んでしまえば良かった。
今のデシルシオンは心からそう思っている。
デシルシオンは意識を失ったアドリアーナに駆け寄ることすら出来なかった。
アドリアーナよりもひとつ年下の義弟ガナドルが現れたからだ。
彼は義姉を案じて近くで待っていたらしい。アドリアーナを抱き上げて救護室へ運び、救ったのはガナドルだ。デシルシオンではない。
デシルシオンはアドリアーナが階段から落ちている間に、集まってくる人間の目から隠すために男爵令嬢を逃がした王太子を止めることも出来なかった。
男爵令嬢はその場にいなかったことにするという、王太子の愚考に反対することも出来なかった。
王都の辺境伯邸で、アドリアーナに真実を告げることも出来なかった。
王家が婚約解消を認めたといっても、このままでは王家とルビオ辺境伯家の間に亀裂が入ってしまうのは明白だ。
王国が乱れてしまう。罪のない民人が苦しむことになる。
デシルシオンが浅ましい欲望を抱いて、王太子を諫めなかったせいで。
自分のおこないを後悔したデシルシオンは、アドリアーナを突き落とした犯人になることにした。
突き落とした理由は男爵令嬢への愛だ。
本当は一度たりとも彼女に好意を抱いたことはなかったけれど、男爵令嬢を愛するデシルシオンが、いつも彼女を悪しざまに言う辺境伯令嬢を逆恨みして突き飛ばしたことにした。……婚約者のいる男性に擦り寄る女性が悪いのは本当のことだけど。
この期に及んでもデシルシオンにはアドリアーナに気持ちを打ち明ける勇気がなかったのだ。
アドリアーナは優しい女性だ。
本当は男爵令嬢が犯人だと知っていても、デシルシオンの気持ちを汲んで王家と辺境伯家に亀裂が入らないようにしてくれるだろう。
(だから好きになった。幼いころから未来の王太子妃として、国のことを真摯に考えている彼女に恋をした。ずっと彼女の隣に立っていたかった)
いくら公爵令息とはいえ、辺境伯令嬢を階段から突き落としてお咎めなしとはならない。
落ちた直後のアドリアーナは意識を失っていたし、打ちどころが悪ければ死んでいてもおかしくなかったのだ。
だがそれで自分が処罰されたなら、今度はマルティネス公爵家とルビオ辺境伯家の間に亀裂が入る。それも問題だ。
デシルシオンは辺境伯令嬢を突き落とした理由と、自分の個人的な感情なのでマルティネス公爵家にまでは累を及ぼさないでくれと遺書に書いた。
都合の良い願いだけれど、アドリアーナなら聞いてくれると信じていた。
そして彼は死んだ。
デシルシオンが死の瞬間に思い出したのは辺境伯令嬢の微笑みだった。
王都の辺境伯邸で義弟の隣に座っていたときの安心しきった微笑み。
ずっと支えて大切にしてくれる相手に好意を持つのは当たり前のことだ。もちろんアドリアーナは婚約を解消するまで義弟を意識してはいなかっただろう。辺境伯令嬢は男爵令嬢と違って貞淑な令嬢だった。
本当は王国のために死を選んだのではなかった。
デシルシオンは間違ってしまった自分が、二度とアドリアーナの隣に立つことが出来ないと悟ったから死を選んだのだ。
奪うことも諦めることも出来ない浅ましい恋心を抱いたままで──
995
お気に入りに追加
1,414
あなたにおすすめの小説

[完結]思い出せませんので
シマ
恋愛
「早急にサインして返却する事」
父親から届いた手紙には婚約解消の書類と共に、その一言だけが書かれていた。
同じ学園で学び一年後には卒業早々、入籍し式を挙げるはずだったのに。急になぜ?訳が分からない。
直接会って訳を聞かねば
注)女性が怪我してます。苦手な方は回避でお願いします。
男性視点
四話完結済み。毎日、一話更新

あの日、さようならと言って微笑んだ彼女を僕は一生忘れることはないだろう
まるまる⭐️
恋愛
僕に向かって微笑みながら「さようなら」と告げた彼女は、そのままゆっくりと自身の体重を後ろへと移動し、バルコニーから落ちていった‥
*****
僕と彼女は幼い頃からの婚約者だった。
僕は彼女がずっと、僕を支えるために努力してくれていたのを知っていたのに‥

優しく微笑んでくれる婚約者を手放した後悔
しゃーりん
恋愛
エルネストは12歳の時、2歳年下のオリビアと婚約した。
彼女は大人しく、エルネストの話をニコニコと聞いて相槌をうってくれる優しい子だった。
そんな彼女との穏やかな時間が好きだった。
なのに、学園に入ってからの俺は周りに影響されてしまったり、令嬢と親しくなってしまった。
その令嬢と結婚するためにオリビアとの婚約を解消してしまったことを後悔する男のお話です。

彼女は彼の運命の人
豆狸
恋愛
「デホタに謝ってくれ、エマ」
「なにをでしょう?」
「この数ヶ月、デホタに嫌がらせをしていたことだ」
「謝ってくだされば、アタシは恨んだりしません」
「デホタは優しいな」
「私がデホタ様に嫌がらせをしてたんですって。あなた、知っていた?」
「存じませんでしたが、それは不可能でしょう」

【完結】ちょっと待ってくれー!!彼女は俺の婚約者だ
山葵
恋愛
「まったくお前はいつも小言ばかり…男の俺を立てる事を知らないのか?俺がミスしそうなら黙ってフォローするのが婚約者のお前の務めだろう!?伯爵令嬢ごときが次期公爵の俺に嫁げるんだぞ!?ああーもう良い、お前との婚約は解消だ!」
「婚約破棄という事で宜しいですか?承りました」
学園の食堂で俺は婚約者シャロン・リバンナに婚約を解消すると言った。
シャロンは、困り俺に許しを請うだろうと思っての発言だった。
まさか了承するなんて…!!

逃した番は他国に嫁ぐ
基本二度寝
恋愛
「番が現れたら、婚約を解消してほしい」
婚約者との茶会。
和やかな会話が落ち着いた所で、改まって座を正した王太子ヴェロージオは婚約者の公爵令嬢グリシアにそう願った。
獣人の血が交じるこの国で、番というものの存在の大きさは誰しも理解している。
だから、グリシアも頷いた。
「はい。わかりました。お互いどちらかが番と出会えたら円満に婚約解消をしましょう!」
グリシアに答えに満足したはずなのだが、ヴェロージオの心に沸き上がる感情。
こちらの希望を受け入れられたはずのに…、何故か、もやっとした気持ちになった。

【完結】誠意を見せることのなかった彼
野村にれ
恋愛
婚約者を愛していた侯爵令嬢。しかし、結婚できないと婚約を白紙にされてしまう。
無気力になってしまった彼女は消えた。
婚約者だった伯爵令息は、新たな愛を見付けたとされるが、それは新たな愛なのか?

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる