妖精のお気に入り

豆狸

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最終話 妖精のお気に入り

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 聖女には人間の傷を癒す力もあった。
 だがミュゲがその恩恵に預かることはなかった。
 拒んだのではない。聖女が、異母姉マルトが王都の男爵邸を訪れるより前に顔の傷が癒えてしまったのだ。参列者のいない父の葬儀はミュゲがひとりで済ませた。

「さっさと歌姫の悪霊を浄化してよ」

 久しぶりに会った異母姉に、ミュゲは一緒に暮らしていたときと同じ横柄な口調で言った。
 余計な真似をするなという父の言葉を忘れていたわけではない。
 覚えているからこそ、捨て鉢な気分で口にしたのだ。

 マルトに首を横に振られて、ミュゲは天にも昇る気持になった。
 なんだ、やっぱり! と心の中で叫ぶ。
 これまでの異常がマルトのせいでなかったとしても、所詮はこの程度の女なのだ。聖女といっても婚約者を略奪されたことを恨み、異母妹を救うことも出来ない浅ましい人間に過ぎないのだ、と。

 ミュゲの侮蔑の視線を意に介せず、マルトは語り始めた。

「貴女の側にいて、貴女の周囲の人間に夢を見せているのは歌姫の悪霊ではありません。歌姫の悪霊は、結婚前の私の母が浄化しました。もしかしたら貴女の側にいるのはモイーズの悪霊ではないのかと思って来てみましたが、そうではありませんでした」
「なによ。本当はモイーズの悪霊なのに、アタシを救いたくなくて、自分を捨てた婚約者を浄霊したくなくて嘘言ってるんじゃないの? じゃあだれがアタシを呪ってるのさ!」
「人間の悪意なら聖女の力で浄化出来ます。……貴女は呪われているのではありません。貴女はのです」

 異母姉マルトの瞳には憐憫の情しかない。
 ふたりは男爵邸の応接室で会話をしていた。互いの背後には男爵家の使用人と護衛騎士達がいる。
 窓を開けたら心地良い風が入る季節だったが、ミュゲは窓を閉め切らせていた。

 ミュゲは両手で顔を覆って肩を震わせている金髪女の夢は見ていない。
 しかし目の前で父が亡くなってから、妙なものが聞こえるようになったのだ。
 父が最期に叫んでいたのと同じ、羽音とさえずりだ。楽しげなさえずりだ。

(妖精なんていない。さえずりなんか聞こえない。入り込んだ小虫の羽音がそう聞こえるだけよ!)

 虫だ。虫の羽音だ。
 どこからか入り込んだ虫の羽音に違いない。
 のが父の言葉で意識するようになっただけだ。

 視界の隅でなにかが煌めくのはただの塵埃だ。
 と、ミュゲは自分に言い聞かせる。
 小さ過ぎてだれにも見つけられないだけだ。

「モイーズは、いつも妖精の羽音に悩まされていました。私には以前から少しだけ母譲りの浄化の力がありました。でもその力では妖精を追い払うことは出来ませんでした。妖精達には悪意も害意もないからです。イタズラさえ悪気わるぎ無くするのです」

 ミュゲが俯いて両耳を抑えても、異母姉は話を続けていく。

「モイーズが羽音から解放されるのは、女性と恋愛遊戯をしているときだけでした。それは妖精にとっての楽しいことではなかったのでしょう。私は妖精を追い払うことは出来ませんが、存在を感知することだけは出来ました。羽ばたきの煌めきは見えました。だけど羽音は聞こえなかった。だれにでも妖精の羽音が聞こえるのは夢の中でだけです。うつつの世界での羽音は『妖精のお気に入り』にしか聞こえません」
「……なんで、そんなことわかるのよ」

 指の隙間から忍び込んだ声に対して、ミュゲはつい反論してしまう。

「歴代の聖女達が妖精を研究して来たからです。妖精から逃げるために死んで悪霊となった人々を浄化して来たからです。モイーズのお母様の歌姫は、消えない羽音から逃げるためにお酒を飲んで男性と遊んで……それでも耐えられなくなって自殺なさいました。自殺して悪霊になっても妖精に付き纏われて、母に浄化されて消え去ることを選んだのです」
「浄化されて、消え去る……?」
「そうです。生きている人間の悪意なら、浄化しても再び蘇ります。ですが肉体を失った霊は悪意を浄化すると一緒に消え去ってしまうのです。死者の世界へ昇っているのなら良いのですけれど」
「なによそれ、なによッ! アタシを脅そうったってそうはいかないわよ。アタシは確かにアンタなんかより美しいわ。でも妖精に気に入られるような才能はないもの。妖精に纏わりつかれていたとしても、アタシは妖精に気に入られてるんじゃない。恨まれてるのよ」

 真っ赤な髪を振り乱して、顔を上げたミュゲはマルトを睨みつけた。

「だってアタシは『妖精のお気に入り』のモイーズを殺したんだもの!」
「妖精には悪意や害意はありません。だれかを恨んだりしないし、嫌いな相手には近寄りません」
「モイーズを殺したとき、アタシ自分が妖精よりも美しいって言ったわ! 恨んでなくても怒って、ちょっと懲らしめてやろうとしてるんだわ!」
「歌姫が妖精に気に入られたのは、なにかのときに冗談で自分が妖精より美しいと言ったからです。妖精にとって、人間にそう言われるのは競争という遊びを申し込まれたのと同じこと。遊んでくれる相手を気に入るのはおかしなことではないでしょう?」
「競争という遊び?」
「ミュゲ。貴女はモイーズを愛してもいないのに、私から奪ったでしょう? それはなぜですか?」

 ミュゲの返答を待たず、マルトは答えを口にする。
 今の彼女の瞳には異母妹への憐憫の情しかない。
 だからといって、ミュゲを憎んだことがないわけではないのだ。

「私から婚約者を奪えば、私より上になったと思えるからではないですか? それが楽しかったからではないですか? 妖精達がしているのも同じことでしょう? 貴女の周囲の人間を奪うことで、貴女との競争に勝とうとしているのです」

 貴女は『妖精のお気に入り』です、とマルトは言う。

「だって昔手すりから落ちたモイーズのように、重傷を負っていてもおかしくない状況で体が癒えているでしょう? 二度目の落下でモイーズが亡くなったのは、そのときはもうモイーズよりも貴女を気に入っていたからではないでしょうか」

 ミュゲは両手で自分の顔を覆った。
 強い酸性の液体を浴びせられたのに、もうすっかり治っている。
 なぜだろう、異母姉の言葉が嘘ではないとわかった。

 ミュゲの肩が震える。父や取り巻き達の見た夢の中の女のように。
 羽音が聞こえる。無数の羽音が。
 楽しげなさえずりも。

「私には……いいえ、おそらくお亡くなりになったお父様にも同じものが見えていたのでしょう。ミュゲ、貴女の周りには黄金色の煌めきがまたたいています」

 異母姉マルトの言葉が室内に響く。
 嘘ではないが本当でもない、とミュゲは感じた。
 彼女と父だけではない。視線の動きでわかる。この部屋にいる使用人も護衛騎士達も自分の周りで蠢く黄金色の煌めきを目にしている。

 ミュゲがモイーズの周囲に見ていたものと同じものだろう。彼のように新しいお気に入りが現れたら解放されるのか。
 それはわからない。
 わかっているのは自分ミュゲが『妖精のお気に入り』だということだけだ。今のままでは死しても解放されることのない、むしろ怪我をしても癒されて簡単に死ぬことも出来ない『妖精のお気に入り』──
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