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第二話 計算
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王太子アンドレは、ほぼ初めて婚約者のゲラルディーネを見た。
二年前に婚約したときの初顔合わせでは、自分の結婚が政治で決められたことが嫌でずっと視線を逸らしていた。
真実の愛で結ばれたという父王と母王妃のように、自分も運命の相手と巡り合う日を夢見ていたからだ。
(だがゲラルディーネと婚約したことで、私は真実の愛の相手と出会うことが出来た)
ゲラルディーネの母親が夏風邪で亡くなった後、公爵家に来たシェーヌこそが自分の運命の相手だとアンドレは信じている。
父王も母王妃と出会う前に婚約者がいた。
真実の愛は運命のふたりに試練を課すものなのだ。
(確かに……)
婚約者の公爵令嬢ゲラルディーネは明らかな栄養失調だった。
彼女の妃教育を担当している伯爵夫人に聞いた通りだ。
国王に陳情するという伯爵夫人を止めて、自分が確認してからにしてくれと言っておいて良かったと、アンドレは思った。
(これはいけないな……)
ゲラルディーネはいつ死んでもおかしくないほどやつれて見えた。
これまで気づかなかった自分が不思議に思えるほどだ。
王家からも彼女の母親の実家からも公爵家に金が入っているはずなのに、着ているのは明らかにお古のドレスで、装飾品の類いは見当たらない。
(私が贈った誕生祝いは……ああ、そうか。この前シェーヌがつけていたな)
もともとシェーヌに贈りたかったものだから、それはそれで良い、とアンドレは思った。
未来の側近予定の学友、裕福な侯爵家子息のフレデリクに聞かれたらお小言を喰らうだろうが、婚約者同士の交流お茶会には同行していないので問題ない。
侍女や侍従達は給仕と護衛のためにいるのだ。
アンドレは、ゲラルディーネが死ぬこと自体は歓迎していた。
運命の相手シェーヌと結ばれて真実の愛を成就するためには、どうせどこかで始末しなくてはいけない婚約者だ。
しかし、今はいけない。
ゲラルディーネの母親の実家は辺境伯家で、この王国の防衛に欠かせない大切な存在だ。
父王の学友だった現当主は、本来の婚約者を捨てて母王妃を選んだ父王に怒りを隠していない。
それでも王家に忠誠を捧げ続けているのは、辺境伯の妹が王家から分かれた公爵家に嫁いだからであり、彼の姪がアンドレの婚約者だからだ。公爵の愛人の娘であるシェーヌは彼とはなんの関係もない。ゲラルディーネが死んだら、辺境伯は公爵家も王家も見捨てることだろう。
(辺境伯の力を削ぐまではゲラルディーネに死んでもらうわけにはいかない。それに公爵家にも力をつけさせなくては)
公爵家の現当主は、跡取り時代から平民の愛人に溺れていた。
そのせいで最初の婚約が彼有責で破棄され、婚約者の家と共同で進めていた事業が瓦解して借金を負った。
一度坂道を転がり落ち始めると、登るどころか立ち止まることさえ難しくなる。滅亡寸前の公爵家を救ったのは、王命による辺境伯令嬢との婚姻だった。辺境伯令嬢の婚約者が王国を防衛するための戦いで亡くなったから結ばれた縁談だった。
(なにか公共事業でも任せようか。国民のためになることなら、フレデリクが裕福な実家に交渉して金を用意してくれるだろう)
王家にも金がない。
亡き母王妃が平民だったからだ。
父王の本来の婚約者が新しい縁談で幸せになったことで彼女の実家と和解は出来たものの、婚約者だったころのような、妃として嫁いでいた場合のような援助は望めない。王家に嫁がせるために母王妃を養女にした貴族家も、さほど裕福なわけではない。裕福でなく権力も持っていなかったから、王家の圧だけで母王妃を養女として受け入れさせられたのだ。
(とにかく金を用意しなくてはな。とりあえずゲラルディーネの命だけは繋がせて、学園に入ったら婚約破棄されても仕方のない悪女だと噂を流そう)
父王は辺境伯家との関係を重視している。
自分は婚約者を捨てたくせにアンドレには婚約者のゲラルディーネを大切にしろという。そんな言葉に従う義理はない。
伯爵夫人には伝えたと告げて、父王にはゲラルディーネの現状を秘密にしておこう。
ひとりよがりで悪辣な計画を胸に広げながら、アンドレはゲラルディーネに尋ねた。
「この公爵家で君は……いや、なにか願いはないかい?」
「ありがとうございます、殿下。もし許されるのなら……」
その一瞬、時間が止まった。
ゲラルディーネが微笑んだのだ。アンドレが初めて見る表情だった。
婚約したときの初顔合わせでも笑っていたのかもしれないが、そのときのアンドレは彼女を見なかった。
花咲くような笑みだった。
栄養失調でやつれていても、お古のドレスでも、隠し切れない美しさが滲み出ていた。
アンドレの背後で侍女や侍従達が溜息を漏らしている。
(磨けば光るかもしれないな。シェーヌの異母姉なのだから顔立ちは似ているし……)
ゲラルディーネが花びらのような唇を開く。
「王宮にお部屋をいただきたく思います」
「王宮に?」
「はい。殿下はご存じだとは思いますが、恥ずかしながら私の妃教育は難航しております。王宮にお部屋をいただけたなら、もっと勉強に尽力出来るのではないかと思うのです」
「……」
しばらく考えて、アンドレは首を横に振った。
ゲラルディーネの妃教育が進んでいないのは事実だ。
教育を受け持っている伯爵夫人は、栄養失調による体調不良に原因があると言っていた。
だが、ゲラルディーネが王宮で暮らすことになったら引っ越す前の準備などで公爵家での扱いに気づかれて、シェーヌの両親が罰を受けることになるかもしれない。
彼女は王太子の婚約者、準王族なのだ。
それに、そんなことになったら婚約者ではないシェーヌと会う機会がなくなってしまう。
「さようですか。我が儘を申し上げてすみませんでした」
「いや、私のほうこそ願いを叶えられなくて悪かった。ほかに願いはないか?」
ゲラルディーネは無言で頭を左右に揺らす。
アンドレは断ったときに彼女が見せた絶望の表情に、昏い悦びを感じていた。
身勝手な思いを心で巡らせる。
(どうしてもと言うのなら、側妃にしても良いな。いや、そのほうが良いか。辺境伯家は姪のために王家に忠誠を誓い続けるだろうしな)
──アンドレの計画が実を結ぶことはなかった。
二年前に婚約したときの初顔合わせでは、自分の結婚が政治で決められたことが嫌でずっと視線を逸らしていた。
真実の愛で結ばれたという父王と母王妃のように、自分も運命の相手と巡り合う日を夢見ていたからだ。
(だがゲラルディーネと婚約したことで、私は真実の愛の相手と出会うことが出来た)
ゲラルディーネの母親が夏風邪で亡くなった後、公爵家に来たシェーヌこそが自分の運命の相手だとアンドレは信じている。
父王も母王妃と出会う前に婚約者がいた。
真実の愛は運命のふたりに試練を課すものなのだ。
(確かに……)
婚約者の公爵令嬢ゲラルディーネは明らかな栄養失調だった。
彼女の妃教育を担当している伯爵夫人に聞いた通りだ。
国王に陳情するという伯爵夫人を止めて、自分が確認してからにしてくれと言っておいて良かったと、アンドレは思った。
(これはいけないな……)
ゲラルディーネはいつ死んでもおかしくないほどやつれて見えた。
これまで気づかなかった自分が不思議に思えるほどだ。
王家からも彼女の母親の実家からも公爵家に金が入っているはずなのに、着ているのは明らかにお古のドレスで、装飾品の類いは見当たらない。
(私が贈った誕生祝いは……ああ、そうか。この前シェーヌがつけていたな)
もともとシェーヌに贈りたかったものだから、それはそれで良い、とアンドレは思った。
未来の側近予定の学友、裕福な侯爵家子息のフレデリクに聞かれたらお小言を喰らうだろうが、婚約者同士の交流お茶会には同行していないので問題ない。
侍女や侍従達は給仕と護衛のためにいるのだ。
アンドレは、ゲラルディーネが死ぬこと自体は歓迎していた。
運命の相手シェーヌと結ばれて真実の愛を成就するためには、どうせどこかで始末しなくてはいけない婚約者だ。
しかし、今はいけない。
ゲラルディーネの母親の実家は辺境伯家で、この王国の防衛に欠かせない大切な存在だ。
父王の学友だった現当主は、本来の婚約者を捨てて母王妃を選んだ父王に怒りを隠していない。
それでも王家に忠誠を捧げ続けているのは、辺境伯の妹が王家から分かれた公爵家に嫁いだからであり、彼の姪がアンドレの婚約者だからだ。公爵の愛人の娘であるシェーヌは彼とはなんの関係もない。ゲラルディーネが死んだら、辺境伯は公爵家も王家も見捨てることだろう。
(辺境伯の力を削ぐまではゲラルディーネに死んでもらうわけにはいかない。それに公爵家にも力をつけさせなくては)
公爵家の現当主は、跡取り時代から平民の愛人に溺れていた。
そのせいで最初の婚約が彼有責で破棄され、婚約者の家と共同で進めていた事業が瓦解して借金を負った。
一度坂道を転がり落ち始めると、登るどころか立ち止まることさえ難しくなる。滅亡寸前の公爵家を救ったのは、王命による辺境伯令嬢との婚姻だった。辺境伯令嬢の婚約者が王国を防衛するための戦いで亡くなったから結ばれた縁談だった。
(なにか公共事業でも任せようか。国民のためになることなら、フレデリクが裕福な実家に交渉して金を用意してくれるだろう)
王家にも金がない。
亡き母王妃が平民だったからだ。
父王の本来の婚約者が新しい縁談で幸せになったことで彼女の実家と和解は出来たものの、婚約者だったころのような、妃として嫁いでいた場合のような援助は望めない。王家に嫁がせるために母王妃を養女にした貴族家も、さほど裕福なわけではない。裕福でなく権力も持っていなかったから、王家の圧だけで母王妃を養女として受け入れさせられたのだ。
(とにかく金を用意しなくてはな。とりあえずゲラルディーネの命だけは繋がせて、学園に入ったら婚約破棄されても仕方のない悪女だと噂を流そう)
父王は辺境伯家との関係を重視している。
自分は婚約者を捨てたくせにアンドレには婚約者のゲラルディーネを大切にしろという。そんな言葉に従う義理はない。
伯爵夫人には伝えたと告げて、父王にはゲラルディーネの現状を秘密にしておこう。
ひとりよがりで悪辣な計画を胸に広げながら、アンドレはゲラルディーネに尋ねた。
「この公爵家で君は……いや、なにか願いはないかい?」
「ありがとうございます、殿下。もし許されるのなら……」
その一瞬、時間が止まった。
ゲラルディーネが微笑んだのだ。アンドレが初めて見る表情だった。
婚約したときの初顔合わせでも笑っていたのかもしれないが、そのときのアンドレは彼女を見なかった。
花咲くような笑みだった。
栄養失調でやつれていても、お古のドレスでも、隠し切れない美しさが滲み出ていた。
アンドレの背後で侍女や侍従達が溜息を漏らしている。
(磨けば光るかもしれないな。シェーヌの異母姉なのだから顔立ちは似ているし……)
ゲラルディーネが花びらのような唇を開く。
「王宮にお部屋をいただきたく思います」
「王宮に?」
「はい。殿下はご存じだとは思いますが、恥ずかしながら私の妃教育は難航しております。王宮にお部屋をいただけたなら、もっと勉強に尽力出来るのではないかと思うのです」
「……」
しばらく考えて、アンドレは首を横に振った。
ゲラルディーネの妃教育が進んでいないのは事実だ。
教育を受け持っている伯爵夫人は、栄養失調による体調不良に原因があると言っていた。
だが、ゲラルディーネが王宮で暮らすことになったら引っ越す前の準備などで公爵家での扱いに気づかれて、シェーヌの両親が罰を受けることになるかもしれない。
彼女は王太子の婚約者、準王族なのだ。
それに、そんなことになったら婚約者ではないシェーヌと会う機会がなくなってしまう。
「さようですか。我が儘を申し上げてすみませんでした」
「いや、私のほうこそ願いを叶えられなくて悪かった。ほかに願いはないか?」
ゲラルディーネは無言で頭を左右に揺らす。
アンドレは断ったときに彼女が見せた絶望の表情に、昏い悦びを感じていた。
身勝手な思いを心で巡らせる。
(どうしてもと言うのなら、側妃にしても良いな。いや、そのほうが良いか。辺境伯家は姪のために王家に忠誠を誓い続けるだろうしな)
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