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第一話 希望
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夏は嫌いです。
暑さが苦手なせいもありますが、二年前のことを思い出すからでもあります。
二年前、私がアンドレ王子殿下の婚約者となった十二歳の夏、お母様が夏風邪でお亡くなりになったことを。
ふっと、視線に気づいて顔を上げました。
今日はアンドレ王太子殿下との婚約者同士の交流お茶会の日でした。
アンドレ殿下は去年、立太子なさったのです。国王陛下のたったひとりのお子様で、王妃様はすでにお亡くなりになられているので、殿下が王太子になるのは必然でした。
交流お茶会は王都の我が家、公爵邸の中庭で開催されています。
殿下と会話もせずに思索に耽っていたのは、会話をする必要がないからです。
公爵邸へいらっしゃった殿下はいつも、私を一瞥もせずにほかの人間と話しているのです。殿下は、二年前お母様の死後に父が連れ込んだ愛人親娘の子どものほう、私の異母妹だというひとつ年下のシェーヌと真実の愛で結ばれているらしいのです。
視線だけでも送ってくるなんて珍しい、と私は殿下を見ました。
今日も私よりも早くお茶会の席で待っていたシェーヌが殿下の腕に絡みついています。
私に殿下の視線を奪われたことが気に喰わないのでしょう。飢えた獣のような顔をして睨みつけてきます。彼女の後ろに控えた公爵邸の侍女達も私を睨んできます。殿下の周囲の侍女や侍従は王宮からいらしているので、困惑した表情を浮かべていました。
以前は公爵邸にも正妻であるお母様や嫡子である私を尊重してくれる使用人がいたのですけれど、彼らはどこへ行ってしまったのでしょう。
シェーヌの母親である後妻の不興を買って、酷い目に遭わされたりしていないと良いのですが。
……いなくなった使用人達のことを考えていたら、王宮で私に妃教育をしてくださっている伯爵夫人のことを思い出しました。私の現状を察して、国王陛下に陳情してくれると言ってくださった優しい方。今日の殿下が私を見たのは、もしかしたら伯爵夫人に話を聞いたからなのかもしれません。
ええ、ええ、ひと目見たならわかるはずです。
公爵家の令嬢で王太子の婚約者でもある私が、明らかに栄養失調であることが。
王家からの支度金やお母様の実家からの援助もあるはずなのに、素人の手で繕ったお古のドレスを着ていることが。
十四歳になって、来年からはこの王国の貴族子女と裕福な平民の通う学園へ通うのだからと妃教育が始まって、教師を引き受けてくださった伯爵夫人はひと目で気づいてくださったのですから。
夫人は、身分の差があって直接公爵家には意見出来ないからと、お茶会の作法の授業で栄養のあるお菓子を用意してくださいました。
拙い技術で裁縫をしていた私に最新の技術を教えてくださいました。お元気だったころのお母様に刺しゅうを教えていただいたときのことを思い出しましたわ。
……国王陛下に私の現状を陳情してくれると言ってくださったけれど、それであの方に悪いことが起こらないと良いのですが。
いなくなった公爵邸の使用人のようにあの方がいなくなるくらいなら、私が泣き寝入りをしていたほうが良いのです。
殿下は私にひとかけらの興味もお持ちではありません。交流お茶会以外では裏庭の別邸に押し込められて、食事も満足に与えられていない私のことに。二年間、毎月交流お茶会にいらしていても、私の現状にお気づきではなかったのですもの。
「シェーヌ」
ほら、たぶん私の後ろから小鳥の鳴き声でも聞こえただけだったのでしょう。
殿下の青い瞳は、いつものように異母妹を映し始めました。
おとぎ話の妖精のように愛らしく笑うシェーヌに、殿下がおっしゃいます。
「これは婚約者同士の交流お茶会なんだ。今日は婚約者のゲラルディーネと話がしたいから、君は下がっていてくれないか?」
「……そんな、酷い。お姉様がなにか言ったんですか? アタシなにもしていません!」
アンドレ殿下の意外なお言葉に驚きながらも、私は心の中でシェーヌに答えます。
ええ、そうですね。貴女はなにもしていませんわ。
貴女はただ命じれば良いだけですもの。私が気に喰わないと貴女が言えば、料理人と侍女が勝手に別邸へ運ぶ料理に泥や虫を入れてくれるのですもの。手を汚すのはいつもシェーヌ以外の人間なのです。
「ゲラルディーネはなにも言っていないよ。……お茶会が始まってから、ずっと私と会話していたのは君じゃないか」
「アタシが嫌いになったんですか?」
「そんなわけないじゃないか。今日はゲラルディーネと話があるというだけだよ。次のお茶会では君と話をするから、今日だけ下がっていて欲しいんだ」
「本当ですね? 約束ですよ!」
潤んだ瞳で殿下に甘えた後で、シェーヌは私にだけ憎悪に歪んだ顔を見せました。
今日の食事にはなにが入っているのでしょう。
運ばれて来もしないかもしれませんね、珍しいことではないですけれど。
王宮から来た侍女や侍従達が安堵した顔になり、公爵邸の侍女達は怯えた顔になりました。
殿下が私を尊重するようになったら、自分達のこれまでの言動はどう評価されるのかと考えたら最悪の結果しか浮かんできませんよね。
王宮の侍女や侍従達は伯爵夫人と同じで、おかしいと思っていても身分の差があって言えなかった方々です。皆さん貴族なのですもの、実家のご家族や家臣領民のことを思えば王太子殿下の不興は買えません。婚約者同士の交流お茶会に関係のない人間が混入していることが、どんなに異常なことなのか理解していらしても、です。
「……ゲラルディーネ……」
シェーヌの姿が公爵邸の本館に消えて、アンドレ殿下が私の名前を呼びました。
殿下はなにをお考えなのでしょう。
まさかこれまではシェーヌ達を試していた、だなんておっしゃいませんよね? 二年間は長過ぎです。常に栄養失調だった私は、いつ死んでもおかしくなかったのですよ。
それでも……それでも私は希望を抱いてしまいました。
殿下は私の現状に気づいてくださったのかもしれません。愛してくださることはなくても、婚約者として尊重して助けてくださるのかもしれません。
アンドレ殿下がお言葉を続けます。
「この公爵家で君は……いや、なにか願いはないかい?」
「ありがとうございます、殿下。もし許されるのなら……」
私は口を開きました。
暑さが苦手なせいもありますが、二年前のことを思い出すからでもあります。
二年前、私がアンドレ王子殿下の婚約者となった十二歳の夏、お母様が夏風邪でお亡くなりになったことを。
ふっと、視線に気づいて顔を上げました。
今日はアンドレ王太子殿下との婚約者同士の交流お茶会の日でした。
アンドレ殿下は去年、立太子なさったのです。国王陛下のたったひとりのお子様で、王妃様はすでにお亡くなりになられているので、殿下が王太子になるのは必然でした。
交流お茶会は王都の我が家、公爵邸の中庭で開催されています。
殿下と会話もせずに思索に耽っていたのは、会話をする必要がないからです。
公爵邸へいらっしゃった殿下はいつも、私を一瞥もせずにほかの人間と話しているのです。殿下は、二年前お母様の死後に父が連れ込んだ愛人親娘の子どものほう、私の異母妹だというひとつ年下のシェーヌと真実の愛で結ばれているらしいのです。
視線だけでも送ってくるなんて珍しい、と私は殿下を見ました。
今日も私よりも早くお茶会の席で待っていたシェーヌが殿下の腕に絡みついています。
私に殿下の視線を奪われたことが気に喰わないのでしょう。飢えた獣のような顔をして睨みつけてきます。彼女の後ろに控えた公爵邸の侍女達も私を睨んできます。殿下の周囲の侍女や侍従は王宮からいらしているので、困惑した表情を浮かべていました。
以前は公爵邸にも正妻であるお母様や嫡子である私を尊重してくれる使用人がいたのですけれど、彼らはどこへ行ってしまったのでしょう。
シェーヌの母親である後妻の不興を買って、酷い目に遭わされたりしていないと良いのですが。
……いなくなった使用人達のことを考えていたら、王宮で私に妃教育をしてくださっている伯爵夫人のことを思い出しました。私の現状を察して、国王陛下に陳情してくれると言ってくださった優しい方。今日の殿下が私を見たのは、もしかしたら伯爵夫人に話を聞いたからなのかもしれません。
ええ、ええ、ひと目見たならわかるはずです。
公爵家の令嬢で王太子の婚約者でもある私が、明らかに栄養失調であることが。
王家からの支度金やお母様の実家からの援助もあるはずなのに、素人の手で繕ったお古のドレスを着ていることが。
十四歳になって、来年からはこの王国の貴族子女と裕福な平民の通う学園へ通うのだからと妃教育が始まって、教師を引き受けてくださった伯爵夫人はひと目で気づいてくださったのですから。
夫人は、身分の差があって直接公爵家には意見出来ないからと、お茶会の作法の授業で栄養のあるお菓子を用意してくださいました。
拙い技術で裁縫をしていた私に最新の技術を教えてくださいました。お元気だったころのお母様に刺しゅうを教えていただいたときのことを思い出しましたわ。
……国王陛下に私の現状を陳情してくれると言ってくださったけれど、それであの方に悪いことが起こらないと良いのですが。
いなくなった公爵邸の使用人のようにあの方がいなくなるくらいなら、私が泣き寝入りをしていたほうが良いのです。
殿下は私にひとかけらの興味もお持ちではありません。交流お茶会以外では裏庭の別邸に押し込められて、食事も満足に与えられていない私のことに。二年間、毎月交流お茶会にいらしていても、私の現状にお気づきではなかったのですもの。
「シェーヌ」
ほら、たぶん私の後ろから小鳥の鳴き声でも聞こえただけだったのでしょう。
殿下の青い瞳は、いつものように異母妹を映し始めました。
おとぎ話の妖精のように愛らしく笑うシェーヌに、殿下がおっしゃいます。
「これは婚約者同士の交流お茶会なんだ。今日は婚約者のゲラルディーネと話がしたいから、君は下がっていてくれないか?」
「……そんな、酷い。お姉様がなにか言ったんですか? アタシなにもしていません!」
アンドレ殿下の意外なお言葉に驚きながらも、私は心の中でシェーヌに答えます。
ええ、そうですね。貴女はなにもしていませんわ。
貴女はただ命じれば良いだけですもの。私が気に喰わないと貴女が言えば、料理人と侍女が勝手に別邸へ運ぶ料理に泥や虫を入れてくれるのですもの。手を汚すのはいつもシェーヌ以外の人間なのです。
「ゲラルディーネはなにも言っていないよ。……お茶会が始まってから、ずっと私と会話していたのは君じゃないか」
「アタシが嫌いになったんですか?」
「そんなわけないじゃないか。今日はゲラルディーネと話があるというだけだよ。次のお茶会では君と話をするから、今日だけ下がっていて欲しいんだ」
「本当ですね? 約束ですよ!」
潤んだ瞳で殿下に甘えた後で、シェーヌは私にだけ憎悪に歪んだ顔を見せました。
今日の食事にはなにが入っているのでしょう。
運ばれて来もしないかもしれませんね、珍しいことではないですけれど。
王宮から来た侍女や侍従達が安堵した顔になり、公爵邸の侍女達は怯えた顔になりました。
殿下が私を尊重するようになったら、自分達のこれまでの言動はどう評価されるのかと考えたら最悪の結果しか浮かんできませんよね。
王宮の侍女や侍従達は伯爵夫人と同じで、おかしいと思っていても身分の差があって言えなかった方々です。皆さん貴族なのですもの、実家のご家族や家臣領民のことを思えば王太子殿下の不興は買えません。婚約者同士の交流お茶会に関係のない人間が混入していることが、どんなに異常なことなのか理解していらしても、です。
「……ゲラルディーネ……」
シェーヌの姿が公爵邸の本館に消えて、アンドレ殿下が私の名前を呼びました。
殿下はなにをお考えなのでしょう。
まさかこれまではシェーヌ達を試していた、だなんておっしゃいませんよね? 二年間は長過ぎです。常に栄養失調だった私は、いつ死んでもおかしくなかったのですよ。
それでも……それでも私は希望を抱いてしまいました。
殿下は私の現状に気づいてくださったのかもしれません。愛してくださることはなくても、婚約者として尊重して助けてくださるのかもしれません。
アンドレ殿下がお言葉を続けます。
「この公爵家で君は……いや、なにか願いはないかい?」
「ありがとうございます、殿下。もし許されるのなら……」
私は口を開きました。
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